変な疑問211「五輪の塔の不思議」⑩

 また、供養といっても、それは弔いの仕方から始まる問題がある。遺体を獣に食われないように深く丁寧に土葬するという弔いの仕方もあれば、遺体を岩場に放置して積極的に鳥に食わせるという鳥葬という弔いの仕方もある。結局、考え方次第で遺体の扱いが180度変わるのだから人間のやることはいちいち面白い。
 ここで面白いという言葉を使うことに不謹慎さを感じる人もいるだろうが、まだ解脱のための修行が偏っている人である可能性がある。まずそのレベルから一歩踏み出すのに、僕のように鈍くさい人間は一年以上はかかる。しかし、本当の意味で賢い人か、修羅場をくぐり抜けてきた人ならば、瞬時に、あるいは一日で完了だ。
 却って修行するほうが偏りやすく、間違いやすいのではないかと思う。また、誰に師事するということには、能力差の問題と、相性の問題とがある。当たり外れというものは、どんな世界にもあるのだから、仕方ないと言えば仕方ないけれど、そんなことなど別に構わないという気持ちで最初からいれば、何も問題ない。全てそれなりにだ。
 それはともかく、弔いの仕方は絶対的ではない。全て自然環境や社会環境の状況で決定していくことだろう。
 乾燥地では木乃伊化させるのが適しているだろうし、もしかすると、寒冷地では氷漬けにするやり方があったかもしれない。その場合、それぞれどのような生死観が発生するだろうか。そういう問題だと思うのだ。
 また、社会環境の変化の一つとしては、都市の形成がある。都市をつくるようになって人々が密集して住むようになると、火災の延焼が増えるから、焼け死ぬ人も多くなるに違いない。
 勿論、木造家屋が多いかどうか、地域レベルでの防火管理体制の確立の程度どうか、防火や消火の技術の高さはどうかというような問題もあるから、大雑把にはあまり言えないところがあるけれど、人口の増加と都市化、建築物の高層化が進めば進むほど、焼死者の数は増えていくことに変わりはないだろう。
 ただし、木造家屋の高層化ということは、恐らく三階程度までが限界であろうし、その総数も多くはなかろうから、あまり問題は無いだろう。通常は家屋の密集化、つまり防火対策の低い都市化のほうが、敷地面積に対しての灯火の数と喫煙場所の数、調理室の数が、農村地帯よりも圧倒的に多くなるであろうから、そちらの影響のほうが強くなるはずだ。
 火事で生焼けとか、部分焼けとか、一部焼失とかの憂き目に遭った、中途半端な傷み方の遺体、逆に丸焦げになって手が虚空をつかんだまま固まっているような大きな姿勢の変形が見られる遺体などは、古今東西を問わず人間の心情として、遺族の心情として、そのままの状態で土葬にするには忍びないと思う。
 そうした悲惨極まりない姿の焼死体は、再びしっかりと綺麗な灰になるまで十分に焼くしか他に方法はないだろう。土葬の宗教、土葬の風習のある土地でも、最終的にか過渡的にか分からないが、とにかく火葬するということになるだろう。
 火葬は遺体をコンパクトにするので、より都市向きだとも言えるだろう。多産多死の状況が続くような段階で、都市化していくような条件が調えられるものかどうかは怪しいが、その移行期などでは、都市化しつつ多産多死で遺体も多くなりがちということがあったかもしれない。
 もし、そうした状況があったなら、ますます土葬では都合が悪くなるだろう。そうなると、やはりコンパクトに埋葬できる火葬を推奨するしかなくなるだろう。そうした場合、土葬から火葬へ移行させるための理屈をどうつけたものだろうか。
 弔い方を変更する抵抗感よりも、都合の悪さのほうが勝れば、理屈も何もないかもしれないが、人間というものは、ただ都合が悪いからというよりも、何らかのもっともらしい体裁のよい理屈を考え出し、格好をつけることが多いと思うのだ。
 このように、様々な実情による弔い方の違いが生まれるのも、それが風習として広く定着するのも、様々な背景や事情があったはずだ。
 しかし、このような弔い方の問題とは別の問題があることも忘れてはならないだろう。それは、遺体への思いの問題だ。
 儀式的な弔い方は、宗教や風習の縛りで決定され、集団的に地域的に決定され、受け継がれ、全てが当然のこととなる。そのために、儀式の本来のあり方や所作の本来の意味は、時の流れの中、世代を重ねていく中で、忘れられていく。
 時代も移り変わり、何もかもが変化していくにつれ、分からないことや不都合なことが起これば、その時々の解釈がなされ、その了解のもとに儀式のあり方や所作のあり方が変更されていくこともあるだろう。
 それらに対して、遺体に対する思いは変わらないものだと思う。だが、本当に変わらないと、果たして言い切れるだろうか。
 遺体への思い、その思いに基づく遺体の扱いというものが、実際にはどのようなものであったか、それについては変わらないものであったか。これも疑問だ。物体としての遺体への思い、魂の考え方については、さまざまな問題がありそうだ。
 それによっては、「五輪の塔」の意味も、僕たちが考えているようなお墓ではないということになるかもしれない。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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