恐怖シリーズ290「タイトルの改竄理由」

 底本という言い方をする以上、そのままの翻刻ではないということを意味している。
 出版物に底本がある場合は、何らかの変更が為されているということだ。それは「旧仮名遣い」を「現代仮名遣い」に変更したり、画数の多い古い漢字を、現代人でも読めるような、略字の新しい漢字にしたり、書体そのものをより読みやすいものに変えたり、当用漢字時代から常用漢字時代にかけての漢字使用範囲の変更や送り仮名の問題等々、新しい教育を受けた人でも違和感なく古い本が読めるように、底本の表記の変更や、必要に応じて注釈の加筆などが為されているということだ。
 だから、底本も同時に読むのが最もよい読書法となる。底本の親本があれば、当然それも同時に読むべきだろう。異同があれば、それが改善か改竄か判断のしようがあるというものだろう。
 「随筆 植物一日一題」という牧野富太郎氏の読みやすい著作がある。これを青空文庫で読んだ。著者の怒りや苛立ちがストレートに書かれた面白い内容だ。
 青空文庫の奥付には、底本:「植物一日一題」博品社1998(平成10)年4月25日第1刷発行とある。
 また続けて、底本の親本:「随筆 植物一日一題」東洋書館1953(昭和28)年3月とあった。
 だがまずは、本家本元の「親本」を読むべきだろう。もっとも、新しく出版された青空文庫の「底本」となったものは手元にないということもあるのだけれど。ちなみに、「親本」とされた「随筆 植物一日一題」の巻頭には著者91歳の近影が綴じてある。
 勿論、青空文庫のほうが漢字は新字体であるし、仮名遣いも現代仮名遣いなので、現代人の僕には非常に読みやすい。ありがたいことだ。
 しかし、誠に有り難くないことがある。それは随筆の命でもある文章のタイトルの変更だ。これはタイトル元来の効果が損なわれていることを考えたならば、改竄レベルだといってよいのではないだろうか。
 底本はどうなっているか分からないが、親本と比べると、なぜか味も素っ気もないものに変えられてしまっているのだ。単なる目次化とも言える変更だ。これによって、牧野富太郎氏の思いは半減どころか、無効化されてしまったと言っても過言ではないだろう。
 これは新聞記事と同じで、一つのストーリーではなく、随筆集の体裁となっているから、特にタイトルは重要なのだ。仮に新聞記事のタイトルとして見た場合、文字数が長いものが多いが、読んでみようという気を起こすものとなっている。そのパワーが削がれてしまったのだ。
 全部が全部変更されているわけではない。変更した人のお眼鏡にかなったタイトルもあったということだ。だが、牧野氏の思いのたけを無視したようなことは、どんな理由があったのか分からないけれど、本来やるべきではないだろう。
 タイトルには、著者の思いが凝縮される。牧野氏も例外ではない。植物学に誰よりも深い思いをもっている牧野氏であるからこそ、体裁を美しく統一することよりも、ほとばしる思いをタイトルに表現することに重きを置いた著作の構成をするであろうと思うのだ。
 誰が著したどんな文章でも、そのタイトルは、それぞれの文章の内容と共鳴しながら、その姿を形作ろうとするものだ。その自然の構成を、後の世のものが手を加えてよいのだろうか。
 たとえば、改竄した担当者は次のような工夫をしている。
 底本の親本、つまり本家本元の、1953年発行の「随筆 植物一日一題」では、タイトルが「栗は日本になくクリは支那にない」という文章がある。そして、文章の第一文目は「かう書くと誰でも怪訝な顔をして目をクリクリさせ、クリはどこにもあるぢやないかといふ。」と始まる。
 一方、青空文庫、もしくは青空文庫が底本とした、1998年発行の「植物一日一題」では、本のタイトル自体から「随筆」という語をカットしたばかりでなく、文章中のタイトルとその文章が一体化しているものに対して、改竄担当者は、次のようにしている。
 それは、タイトルを自分で考えた「栗とクリ」という新たなものを書き加え、文章の方では、第一文目に「栗は日本になくクリは中国にない」と始め、二文目に「こう書くと誰でも怪訝な顔をして眼をクリクリさせ、クリはどこにもあるじゃないかという。」とする。
 これは、文章と一体化している牧野氏のつけたタイトルを、他の文章とのバランスを考えて調整しようとした結果だろう。
 別に内容的に変更があるわけではないから問題ないではないかという意見もあろうが、そういう問題ではなく、文章を改竄するという態度の問題だ。どこがどういう理由でどのように改竄されるかということは、その目的や改竄の程度が把握しにくいところに大きな問題がある。
 牧野氏の文章への改竄に内容的な問題はないと判定する人がいたとしても、それと同じ態度で他の人物の文章が、どういう目的があるかも不明なまま改竄されてしまう可能性のあることに対する恐ろしさをほんの少しでも、そしてほんの一瞬でも想像すれば、その態度がいかにまずいことか理解してもらえるだろう。
 仮にそれが個人の問題ではなく、社風となっていったらどうだろう、あるいは出版界の風土となっていったらどうだろう。何事も、どうでもよいような些細で小さな事からスタートする。そして、それが必ず取り返しのつかない大事につながっていく。
 以下、青空文庫の目次化されてしまったタイトルを前に書き、その後に、親本の小見出しとも言える各文章のタイトルを括弧書きで書き加えた。こうすれば、比べやすいだろう。
・(序文に代ふ)<序文相当だから当然巻頭にあり>
・馬鈴薯とジャガイモ(日本人の無学のシムボル馬鈴薯)
・百合とユリ(百合はユリの総名ではない)
・キャベツと甘藍(キャベツは甘藍に非らず)
・藤とフジ(藤一字ではフヂにならない)
・ヤマユリ(今日謂つてゐるヤマユリ)
・アケビと※[♯「くさかんむり/開]、U+26F20、16ー11](僧の昌住さんがアケビを𦼠と書いた)
・アカザとシロザ(アカザとシロザ)
・キツネノヘダマ(キツネノヘダマ)
・紀州高野山の蛇柳(紀州高野山の蛇柳)
・無花果の果(無花果の果)
・イチョウの精虫(イチャウの精虫)
・茶樹の花序(茶樹の花序についての私の発見)
・二十四歳のシーボルト画像(二十四歳のシーボルト画像)
・サルオガセ(サルヲガセ)
・毒麦(毒麦)
・馬糞蕈(馬糞蕈は美味な食菌)
・昔の草餅、今の草餅(昔の草餅、今の草餅)
・ハナタデ(ハナタデとはいかなる蓼の名か)
・イヌタデ(イヌタデとはどんな蓼か)
・ボントクタデ(ボントクタデとはどういふ意味か)
・婆羅門参(婆羅門参)
・茶の銘玉露の由来(茶の銘玉露の由来)
・御会式桜(御会式桜)
・贋の菩提樹(寺院にある贋の菩提樹)
・小野蘭山先生の髑髏(小野蘭山先生の髑髏)
・秋海棠(日本に秋海棠の自生はない)
・不許葷酒入山門(不許葷酒入山門)
・日本で最大の南天材(日本で最大の南天材我が家に在り)
・屋根の棟の一八(屋根の棟の一八)
・ワルナスビ(ワルナスビ)
・カナメゾツネ(カナメゾツネ)
・茱萸とグミ(茱萸をグミとは馬鹿言へだ)
・アサガオと桔梗(秋の七草のアサガホを桔梗だとする根拠)
・ヒルガオとコヒルガオ(ヒルガホとコヒルガホ)
・ハマユウの語原(ハマユフの語原)
・バショウと芭蕉(日本でのバセウは芭蕉の真物ではない)
・オトヒメカラカサ(オトヒメカラカサ)
・西瓜ー徳川時代から明治初年へかけて(徳川時代から明治初年へかけての西瓜)
・ギョリュウ(我が国栽植のギョリウはただ一種のみ)
・万葉歌のイチシ(万葉歌のイチシ)
・万葉歌のツチハリ(万葉歌のツチハリ)
・万葉歌のナワノリ(万葉歌のナハノリ)
・蓬とヨモギ(蓬をヨモギとするのは大間違ひだ)
・於多福グルミ(於多福グルミ)
・栗とクリ(栗は日本になくクリは志那にない)
・アスナロノヒジキ(吾れ先づ採りしアスナロノヒジキ)
・キノコの川村博士逝く(キノコの川村博士が逝いた)
・日本の植物名の呼び方・書き方(日本の植物名は一切日本名で呼び、また一切カナで書けばよろしい)
・オトコラン(勇ましい名のヲトコラン)
・<目次にはなし。文章中には文章と同じ大きさの活字で「風流で盗賊防ぐ思い付き」とは記されている>(風流で盗賊防ぐ思い付き)
・中国の椿の字、日本の椿の字(支那の椿の字、日本の椿の字)
・ノイバラの実、営実(ノイバラの実を営実といふワケ)
・マコモの中でもアヤメ咲く(マコモの中でもアヤメが咲くのか)
・ワクワウリの記(マクハウリの記)
・新称天蓋瓜(新称天蓋瓜)
・センジュガンピ(センジュガンピの語原)
・片葉のアシ(片葉のアシ
・高野の万年草(高野の万年草)
・コンブとワカメ(コンブは昆布ではなく、ワカメこそ昆布だ)
・『草木図絵』のサワアザミとマアザミ(飯沼慾斎著『草木図説』のサハアザミとマアザミ)
・ムクゲとアサガオ(ムクゲをいつ頃アサガホといひはじめたか)
・欸冬とフキ(欸冬とフキはなんの縁もない)
・薯蕷とヤマノイモ(薯蕷は果してヤマノイモか)
・ニギリタケ(ニギリタケ)
・パンヤ(パンヤ)
・黄櫨、櫨、ハゼノキ(黄櫨も櫨もハゼノキではない)
・ワスレグサと甘草(ワスレグサを甘草と書くのは非)
・根笹(根笹は絶やし難い厄介者だ)
・菖蒲とセキショウ(菖蒲はシャウブではなくセキシャウである)
・海藻ミルの食べ方(海藻のミルはどのやうにして食ふのか)
・楓とモミジ(楓はモミヂか、モミヂは楓か)
・蕙蘭と蕙(蕙蘭と書く蕙とは何んだ)
・製紙用ガンピ二種(製紙用のガンピには二つの種類がある)
・インゲンマメ(今日のインゲンマメは贋のインゲンマメ)
・ナガイモとヤマノイモ(ナガイモはヤマノイモの栽培品か)
・ヒマワリ(ヒマハリが日に随つて廻るとはウソだ)
・シュロと椶櫚(日本のシュロは志那の椶櫚とは違ふ)
・蜜柑の毛、バナナの皮(蜜柑は毛を食ひバナナは皮を食ふ)
・梨、苹果、胡瓜、西瓜等の子房(梨、苹果、胡瓜、西瓜などは枝の端を食つてゐる)
・グミの実(グミはどこを食つてるのか)
・三波丁字(三波丁字)
・サネカズラ(サネカヅラ)
・桜桃(桜桃の真物は支那の特産)
・種子から生えた孟宗竹(種子から生えた孟宗竹の藪がある)
・孟宗竹の中国名(孟宗竹の支那名は何んであるか)
・紫陽花とアジサイ、燕子花とカキツバタ(紫陽花はアヂサヰではなく、燕子花はカキツバタではない)
・楡とニレ(楡は日本のニレではない)
・シソのタネ、エゴマのタネ(シソのタネ、エゴマのタネ)
・麝香草の香い(香ひあるかなきかの麝香草)
・狐ノ剃刀(狐ノ剃刀)
・ハマカンゾウ(日本の特産ハマクヮンザウ)
・イタヤカエデ(なぜイタヤカヘデといふのか)
・三度グリ、シバグリ、カチグリ、ハコグリ(三度グリ、シバグリ、カチグリ、ハコグリ)
・朝鮮のワングルとカンエンガヤツリ(朝鮮でワングルと呼ぶクヮンヱンガヤツリ)
・無憂花(無憂花とはどんな植物か)
・アオツヅラフジ(止めよアヲツヅラフヂと呼ぶことを)
・ゴンズイ(ゴンズイと名づけた訳はこれ如何)
・辛夷とコブシ、木蓮とモクレン(辛夷はコブシではなく、木蓮はモクレンではない)
・万年芝(万年芝の一瞥)
・オリーブとホルトガル(往時はオリーブをホルトガルと称へた)
・冬の美観ユズリハ(冬に美観を呈するユヅリハ)
・序文に代う<序文相当なのになぜか巻末にあり>

 こうして比較してみるといろいろなことが分かる。また、いろいろなことが想像できる。一つ一つ書けば膨大になるので省略するが、どちらが魅力的なタイトルか、どちらが著者の思いがこもったタイトルか、一目瞭然だ。
 旧仮名遣いを現代仮名遣いに直すのは問題ないだろうけれど、随筆、特に随筆集にとって重要な役割を果たす一つ一つのタイトルを、ある志向に揃えるためであろうか、敢えて変えてしまったのは、一体それはなぜだろう。
 著者本人の遺言によるものか、それとも変更可能な「支那」をできるだけ「中国」に書き換える必要があったのか、それとも一つ一つのタイトルに見られる文字数の長短の差や表現方法の様々を、不統一と解釈したためか。
 もちろん、僕は青空文庫の底本とされている1998年発行の「植物一日一題」を手にしているわけではなく、あくまでも底本の親本である1953年発行の「随筆 植物一日一題」と青空文庫とを比較しているだけなので、本当はもっと何か紆余曲折があることに気づいていないだけなのかもしれない。
 しかし、誰でもがこの三冊を比べながら読むなどということなどしないはずだ。それを前提として、青空文庫の編集者は文章改竄と思しきことの理由などを示した、何かそれとわかる文章を付け加えておくべきだろう。
 なぜなら、青空文庫の「植物一日一題」の奥付で、<※底本は、「保土ケ谷町」のそれをのぞいて、ものを数える際や地名などに用いる「ケ」(句点番号5-86)を、大振りつくっています。>というような細かい説明を付け加えているからだ。そうした説明をするならば、底本の親本を示した以上、底本の親本から底本への異同があること、あるいは底本から青空文庫への異同があることも示すべきではないだろうか。
 僕は、これらの改竄によって、各タイトルと各文章の相乗効果がなくなり、牧野氏の論調がかなり減衰させられてしまったと感じている。それが博品社によるものか、青空文庫によるものかは、まだ分からないのだけれど、仮に悪意はなかったとしても、問題は悪意の有無、善意の有無ではなく、読まれた結果がどうであるかというというところにある。
 勿論、読まれた結果は読み手によってことなるものだ。しかし、残念ながら、少なくとも僕にとっては、マイナスの効果、つまり改善ではなく改竄としてしか、まだ受けとめられないものになっている。
 その改竄理由があれば、その目的に応じた恐ろしさも湧こうというものだ。実際に、BBCの放送作品が日本語訳されて放映されるとき、意図的に放送タイトルが改竄され、「原発反対の根拠」となる内容が、「原発推奨」の足がかりともなる内容に解釈されるものとなった例がある。
 日本語タイトルの大きな字幕の裏に隠されるかのような英文タイトルは、よほど注意深く見ていないと分からなかったはずだ。手品と同じでどこに注目させるかがポイントだ。それによって見える世界が変わってしまうのだ。そして、現実を見ているようで見ていないという事実を振り返らないので、その人工的な不自然な世界にはまり込み、まんまと騙されてしまうのだ。
 これは改竄理由とその目的が見え透いているけれども、その目的の国民生活に及ぼす影響力の大きさと、隠蔽力の巧みさと、視聴率の高さと、信用度の大きさから考えて、恐ろしさはマックスに近いものだった。
 しかし、逆に改竄理由がなく、何となくよかれと思ってそうしたというのならば、平気で行われている分だけに、そして幅広く末永く行われていくであろうから、別の意味でより一層恐ろしいように感じる。たとえそれが、一冊の古い本であれ、何がどこへどうつながっていくかは、意図しない者は勿論のこと、意図した者にも本当には分からないのだから、なおのことだ。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
カテゴリー: 恐怖シリーズ パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中