日々雑感365「死刑制度に文句を言う条件」

 相手国の兵士を当然のように殺す戦闘行為を国が認めている。もちろん裁判を開くことすらなく。そうした国は自国の死刑撤廃をしたのだろうか。自国民は殺さない。他国民は殺してよい。そうした国のエゴイズムは正統化されるものではないだろう。
 当然、人命を重んずる「死刑撤廃の国や、死刑撤廃に向けて動いている国、あるいは、死刑撤廃の国ではないが、実質撤廃している国」は、戦闘行為も禁止しているのだろうと思うが、実際にはどうだろう。また、制度上でもどうだろう。
 そうした国々は、日本の自衛隊の如く、ほぼ発砲しない人々で軍隊を組織していなければならないはずだ。発射しないミサイル、発射しない砲弾、発射しない機関銃、そうしたもので武装していなければならないはずだ。発射すれば、他国民が死ぬからだ。だが、そんな話は聞いたことがない。
 自国民も他国民も殺さないのを前提にしている日本に対して、他国やその諸団体が人の命の尊さをもって死刑撤廃を強要する以上、その国の軍隊が日本の自衛隊並みの専守防衛の装備となるような努力がなされていなければならない。果たしてできるかな。できなくても、そうなるように、自国の軍事政策の根幹を変えるように努力していなくてはならない。そして、その諸団体はまず自国の政府を強く非難し、戦争放棄への道を歩ませる努力をしていなければならない。無辜の人々を守る、そうした基本的な努力があってこそ、初めて他国の犯罪者の死刑問題を口にすることができるのだ。
 また、人の命の尊さもって死刑撤廃を日本に強要する以上、自国の現行犯の犯人等に対する警察の対応を変えるように努力していなくてはならない。また、その諸団体は、その国の警察官が日本の警察官並みの発砲手順と規則となるように、まず自国の政府を強く非難し、現行犯の犯人等に対する銃器類を使用した警察の対応が、少なくとも日本並みの装備に抑えるとともに、発砲手順や規則も少なくとも日本並みに厳重となるように、強くはたらきかけていなくてはならない。特に、犯人逮捕時の発砲が、少なくとも日本並みに抑制されるよう、その政府に強くはたらきかけていなくてはならない。
 そして、日本に人の命の尊さをもって死刑撤廃を強要する以上、何より自国の憲法に、日本の憲法第九条の如き、戦争放棄の条項を加えなくてはならない。戦争は裁判なくして殺人を犯す、死刑以上の異常行為だからだ。その以上行為を容認する社会の風潮、その行為を正当化する法律、そうしたものを少なくとも日本並みに改善する努力をしていなくてはならない。
 少なくとも、これらの三つの条件がそろったとき、日本の死刑制度にクレームをつける準備ぐらいはしてよいだろう。いずれにせよ、少なくとも他国に強要するのは民主的ではないだろう。国ごとに事情は異なる。そのために国々に分かれているはずなのだ。合併して一つの国のようにしようと言うことなのだろうか。それぞれ国の成長の度合いも異なれば、国民の平均的な人としての程度も異なる。みんな少しずつ歩んでいくのだ。アドバイスは可能だが、強要するのは筋違いだろう。
 もし、死刑撤廃の動きが芽生える土壌が育ってきたところだとしたら、他国の強要によって、その芽生える土壌すら葬られることになってしまうだろう。そうした微妙な問題であるところに気づけないのは、さすがヨーロッパ諸国の血塗られた歴史に培われた文化を背負っている人々だ。そして何より、他国の自立の土壌を弱めるというのは、ヨーロッパ流の常套手段ということなのだろうか。そんなつもりはないと言うだろう。恐らくその通りだろう。そんなつもりはなくても、自然にそうしてしまうのかもしれない。遺伝的なものか、歴史の流れのなせるわざなのか、果たして如何に。
 もっとも、日本に対する死刑廃止の強要は、ごく一部のオピニオンリーダーが、何らかの理由によって動いているだけなのだろう。しかし、それに同調して賛同する民衆も多く出てくるはずだ。何とも罪なことだ。一通りにしかものを考えない人々によって人類の不幸は繰り返されてきた。そうした人々の層を厚くするエクササイズに結果としてなっていくのではないかと心配するのは、単なる杞憂だ。しかし、ある時代の、ある人々にとっては杞憂であっても、歴史の流れの中では、杞憂が杞憂でなくなることもある。それを不幸なことに人々はなぜか忘れてしまうのだ。
 まず、死刑制度だけに注目するのではなく、死刑制度も含めた国の様々な制度をトータルで考えなければならないという、常識的な思考をすることだ。一点に注目させて問題視するのは、それ以外の物事を無視する暴挙だ。
 人々に、そうした無視を土台とする思考法に慣れさせていく政治的行為とは何だろう。その目的とするところを考えれば自ずと答えは導き出される。しっかり目を覚ましていないと、ヨーロッパの人々は一部の人々による死刑制度撤廃一点張りの論理によって、手を変え品を変え、そして時間をかけ、物事を総合的に判断できない脳に改造されていってしまうおそれがある。
 それは思考を放棄するのと同じだ。それは最終的には狂信につながっている。現状は、狂信に陥らぬようにかろうじて今ある理性でストップをかけている状態に近いのではないだろうか。
 客観的で総合的な思考を人々にされては都合の悪い人々。古今東西、そうした人々はいるものだ。もし、そうした本来の目的なしに死刑廃止だけを目的に活動しているとするならば、既に愚か者ですらない。だが、あまりにもそれは考えにくいことだ。

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