変な疑問219「五輪の塔の不思議」⑰

 「遺体」には、もう一つ大きな問題がある。それは「遺体」の変化だ。脱力、硬直、硬直の解除、腐敗。そうした一連の変化だ。 
 変化に対する策は何種類あるのだろう。
 まず、「遺体」の存在をなくす方法。そのために、見えないところにもっていったり、骨だけにしたりする方法。そうなれば、もう変化を見ることはない。原因除去、またはそれに相当することを行うわけだ。
 次に、「遺体」を冷凍保存する方法。これも、解凍しない限りは基本的には変化しない。細胞を壊さずに冷凍する技術を用いるのは勿論のこと、今後開発されるであろう最新の冷凍技術を駆使することになるのだろうか。
 次に、「遺体」に防腐剤を用いる方法。保存環境を厳重に管理すれば、これも変化しないだろう。
 次に、「遺体」に「人体の不思議展」で問題となったような合成樹脂を用いた方法。
 これらに、「古典的な遺体加工の方法」を加えれば、五種類となる。これは、たとえばミイラにするための方法だ。
 さて、焼く、沈めるなど、「遺体の存在を事実上なくす方法」については、無理やり焼いたり埋めたりと、骨だけにしたり存在を隠したりする方法だ。そのようにして自然な遺体変化を拒否するのだから、方法としてはかなり乱暴だが、効果は抜群で、現実的な方法でもある。最初に一度大きな変化を人間の手によって与えてしまえば、その後の通常の自然な変化、すなわち腐敗に至るまでの悲惨な状況を回避することができる。このようにして、事実上「遺体」の存在をなくすのは、金銭的にも空間的にも最も経済的だと思う。
 それに対して、「遺体を冷凍保存する方法」は、比較的大がかりな設備が必要で、電気料や管理費などの経費がかさむため、個人管理が難しく、通常ならば会社なり公共団体の手によらねばならないものだ。
 しかし、そこまでして「遺体」の変化を拒む人の数はいないので、会社の設立もなく、公共団体の事業にもならないですんでいる。
 ところが、時代は変化する。絶対にこんなことするはずはないというようなことが、現実になるものだ。
 時代に合わなくなった古い宗教や乱立した新興宗教が淘汰され、全く新しい宗教が台頭してくるとき、その新宗教が「遺体」をどうとらえるかという問題がある。「遺体」は放置すべきだという考えかもしれない。「遺体」は従来の通りのやり方でという考えかもしれない。「遺体」以外に崇めるべきものはないとする考えかもしれない。
 そうなると、過渡的な対応としてかもしれないが、「遺体」の冷凍保存がひろく行われる世の中がくる可能性はゼロではないだろう。そうした事業を支えるスタイルの社会の到来は、現代人の感覚からすれば受け入れがたい奇妙なものだが、未来人にとっては自然な成り行きなのかもしれないのだ。 
 また、宗教がらみではなく、その他の「人類の特別な事情」で「遺体」の冷凍保存が必要となる可能性もゼロではないだろう。「人類の特別な事情」にはさまざまあるが、「ソイレント・グリーン」の世界に近いものも含まれるだろう。
 そうなると、対象規模の関係で会社が設立されたり、公共事業としての取り扱いとなる可能性もある。
 「遺体」にこだわる人情を利用してのインチキ事業を営む会社も現れるに違いない。お寺や葬儀社の考える「遺体価値」とは異なるものが捻出されないとも限らないのだ。
 ところが、いくら会社がコントロールしても人心は変化する。その結果、経営困難に陥ると、安定した「遺体」冷凍保存の管理が困難となり、最悪の場合、忽ちにして膨大な数の「遺体」が同時に腐敗し始めるおそれがある。
 会社自体は「遺体」をさっさと放棄し、別会社となって今度は「魂」に目を移すかもしれない。これは「遺体」と異なり、保存に莫大な経費をかけないで済むが、消費者のニーズに合わせて「魂」の可視化、「魂」の進化、「魂」との交流、「魂」の融合など、きりなく現実離れしたものを現実化して見せるだろう。まやかしも数多く行われれば、現実の思考に難なく組み入れられることもあるだろうから、決して侮れない。
 そうした「人類の特別な事情」による「遺体」の冷凍保存は、公共団体の事業だとしても、恐らくは強行採決による新規事業のごり押しとて始まるだろう。財政が厳しくなってくれば、生きている人間よりも「遺体」に税金を使うことの意義を真っ先に問いただされることになるだろう。
 これも選挙の結果次第では一夜にして事業停止決定が下される可能性がある。すると、最悪の場合は、正規の「遺体」処分以前に闇で行われるであろうところの、事前処分が実行されることすらあり得るだろう。
 闇から闇へということだ。正規の方法をとれば時間も費用もかかるはずだから、それを避けるための非合法処分だ。既に死んでいるから問題ないということにはならない。つまるところ単なる気分の問題なのだが、それが意外と重要なのだ。気分なんていいかげんなものだが、何事も根本にはこの気分というものがあり、それが大きなはたらきをすることがある。
 もっとも、「人類の特別な事情」による「遺体」の冷凍保存は、最初から闇の部分を多く抱えているわけだから、非合法なのだが合法的というバランス感覚が担当者の中で保たれている限り、闇の処分がいくら促進されようとも、何の問題も起こらないだろう。
 このように闇から闇へという「二度死に」のような、亡くなった本人はともかくとして、はた目からでもかなり悲惨な運命をたどる「遺体」もあれば、その逆の道を歩む、名誉ある「遺体」もありそうだ。
 たとえば、公共団体が「遺体」の冷凍保存を請け負うという無理を強行採決するときの裏条件となる可能性の高かろうと思われる「医療事情に係る冷凍保存遺体の有効活用」の対象となる「遺体」だ。
 秘密裡に、例によって粛々と実行される「遺体」活用。要は切り売り、ばらされての活用だ。生きていかねばならぬ人々に幸せをもたらす、医療資源ともいうべき道をたどるのだ。「ソレント・グリーン」の世界が生体リサイクルで成り立っていると言えるなら、これは生体リユースということになるだろう。生体売買や冷凍保存は卵子や精子で行われているのだから、既に第一段階はクリアしていることになる。常識や普通の感覚というものは、いつの間にか変更させられているということだ。
 単なる「闇から闇へ」の道を歩むのではない。過程はそうであっても、結果としては明るい道を堂々と歩むのだ。名誉ある「遺体」、二度葬られることなく、他人の一部となって生きる「遺体」だ。
 考え方によっては他人との共存ということにもなる。複数人数から多くの部分を移植された一人の人間は、一人でありながら「群れ」といったほうがよさそうな存在だ。移植された人が生存中であれば、それは完全な共存体といってよいように思う。
 この場合、部分的に活用された「遺体」には「魂」が宿っているか、という問題がある。「魂」ではなく、体に「記憶」が宿っているという前提で考える人もいるかもしれない。
 ただ、「魂」も記憶の一種かもしれない。それは書き換えられない種類の記憶かもしれない。漫画作品で見るような、移植手術後の不思議な体験のようなものも頭をよぎる。
 さて、仮に「遺体」にも「魂」が宿っているとするならば、どうだろう。例えば四つの部分が活用されたら、本体分も含め、全部で五つの「魂」がそれぞれに宿ってしまうことになる。
 そうしたことは、それぞれの「魂」が干渉しあうとか、それぞれの「魂」が一つに融合するとかによる、思考や行動の障害等が、何らかの方法で観察されたり記録されたりしなければならない。元々確かめにくいものだ。
 もし、何らかの障害が認められたとしても、「魂」由来のものだという明確な因果関係を確かめるための一般的に認められる方法がなかったり、最初から全く別の現象だとして問題にされなかったりで、話題にするほどの価値がないだけでなく、少し口にするだけでもオカルトマニアがここにいるぞとレッテルを貼られるのが落ちだろう。俎上に上らないというわけだ。それはそれで科学的なようでいて、実は科学的ではない。
 科学の進歩は日進月歩。現代の科学の水準では、線引きをして対象外にしておいたほうが無難でも、近い将来にはあらゆるものを対象とし、その正体を説明できるようになるだろう。
 では、「生体」には「魂」が宿っているのだろうか。当たり前だという人も多かろう。しかし、本当にそうか。「遺体」は「魂」が抜けたもので、「生体」は「魂」が宿ったものということで本当によいのだろうか。
 たとえば、生体肝移植なら「遺体」の部分を移植したわけではないから、移植した肝臓に「魂の一部」が宿っていたり、移植した肝臓に「肝臓専用の魂」が宿っていたりすると考える人がいるかもしれない。
 それに対して、「魂」とはそのようなものではないと訴える人もいるだろう。では、どのようなものなのか。切り取られた肝臓以外の肉体に宿っているというものなのだろうか。
 恐らく「魂」は脳に宿っているに決まっているじゃないかと言い始めるだろう。それは本当だろうか。「魂」は体全体ではなく、脳に集中して宿るものなのか。
 病気で次々に肉体を切除しなくてはならなくなったとき、自分に残された少しの肉体の中に、窮屈そうに「魂」が宿っているということなのだろうか。切除されて廃棄された自分の肉体には「魂」は宿っていないということなのだろうか。
 こなると、だんだん「魂」の存在や「魂」の性質自体が怪しくなってくるが、それでも「魂」はあると考える人が多い。
 では、「魂」は脳に宿っている、もしくは脳を中心として宿っているとしてみよう。
 しかし、脳の損傷で多くを切除しなくてはならなくたった人たちがいる。でも、生きながらえているのだ。
 すると、切除された脳と一緒に魂の一部が排除されるということではなく、残った脳に魂が待避して手術前の「魂」が窮屈になった脳に宿り続けるということなのか。
 つまり、「魂」は伸縮自在の宿り方をするということになってしまう。これは便利な考え方だ。逆に、伸縮自在なのだから、脳だけに宿っているのではなく、体全体に宿ることも可能かもしれない。もっというと、切り取られた部分に何らかの理由で魂が移行してしまったりするという、「魂」が逆行する事故もあり得るのかもしれない。
 もう、こうなると無茶苦茶だ。「魂」は裁断されることを嫌う。「魂」は待避する。「魂」は移行する。
 説明するまでもなく「魂」というものを想定すると便利なことがある。しかし、よく考えてみると、所詮は想定されたものであって、神秘的でもなければ、恐ろしいものでもなければ、何でもない。単に、説明しがたいものを説明しやすくしたりするものであるように思う。また、目的を果たすための手段として便宜的に想定する存在であるようにも思われてくる。
 神秘的であったり恐ろしかったりするように思われるのは、そのように実態がないものであるために、色も形もにおいも性質も不確かで、とらえようがないためだろう。
 ただし、「魂」が実際に存在するしないにかかわらず、「居場所を必要とする」「危険を回避する」「目的に従って移動する」という性質、さらに「汚れた魂」「救われぬ魂」「迷える魂」というように、人特有のものという性質はもたされているようだから、「魂」について語ることができないわけではない。
 もともと「魂」の存在自体が不確かなものであるのに、語ることはできるものであるから、厄介なことになってくる。
 説明しにくいことについて「魂」由来の話としてまとめていく傾向は今でもある。そして、説明したいことについても「魂」由来の話としてまとめていく傾向もやはり今でもある。昔からある怪談話や教訓話から現代の精神論まで、種々の話が語られることになり、ますます「魂」の意義が多様化していったように思う。
 「魂」は説明のための方法から、独立して一人歩きを始め、性格を持ち、目的を持ち、存在感を高めていくことになる。
 だが、つまるところ、肉体が存続しようとする努力、これが「魂」の本性ではないかと思う。したがって、本当の「魂」は生きていることが前提の存在だ。死後の「魂」は生きていた頃の「魂」の延長線上にある幻影だ。元々目に見えぬ不確かなものなので、幻影であっても、生前の「魂」の延長線上にあるものとしての相性は悪くない。
 「霊魂不滅」というのは、だから成立することかもしれない。そもそも想定された存在だから必要とされている間は滅することはない。肉体が滅んで本性としての「魂」が滅しても、間髪入れず幻影としての「魂」が存在し始め、記憶ある者が生存する限り、その生存者に所属する幻影としてあり続けるだろう。
 亡くなった後の「魂」と生きている間の「魂」とは、どのような違いがあるのだろうか。亡くなった後の「魂」を「霊魂」というが、生きている間の「魂」は「霊魂」とは言わない。
 だから、亡くなった後のものを「霊」と呼ぶ。「霊」は肉体がないから、肉体の形を幻影として見せる。もしくは、幻影として見ようとするということなのか。
 「魂」は、「武士の魂」「大和魂」「入魂の一作」「魂の抜けたような」等々、どれも生きていること前提の精神の傾向、精神の力を表現しているように見える。精神活動の中心は脳であるから、そうしたときの「魂」は脳の反応の傾向、脳の力を表現しているように感じる。
 それは肉体の力とは異なるもので、肉体が滅んだ後も生存者の記憶として残ったり、亡くなった者の書き残した文章などに残ったりする。これは幻影としての「霊」の存在を支えるものとしてはたらくだろう。
 その記憶の内容は、懸命に働く姿であったり、生き延びようと努力する姿であったり、そうした活動を通して得られたであろうところの、笑顔であったり、苦悶の表情であったりするだろう。また、書き残された文字としては、願いであったり、計画であったり、無念であったり、告白であったり、懺悔であったり、呪いであったりするだろう。
 しかし、江戸時代はともかくとして、それ以前など、誰もが字が書けたり読めたりしたわけではない。伝わっていくのは理解しやすい個人的な強烈な思い、愛憎の類だ。それもインパクトのある事件や背景からのものは、伝えがいがあり、また記憶にも残りやすいので、そうした憎しみやら、怨念ばかりやらが、幻影の「霊」を強化していくのだろう。
 遺髪、遺灰、遺骨の類に「魂」が宿るのではなく、それを見たり思い出したりしたことを契機に、亡き人の思い出が記憶としてよみがえるのだろう。また、その思い出された内容が生きている者の生き方に影響を与えるということは当然あることだ。すると、その見えないものの存在が俄に実感を持ってくることになるだろう。
 しかし、それを「魂」が宿ると考えるのが、間違いのもとになっているのかもしれない。
 宿るということは、宿らない状態があるということを認めることにつながる。つまり、主に死ぬことによって「魂」が抜けることだ。抜けるということは、消滅するのではなく移動するということだ。すると、不滅のものになってしまう可能性が出てくる。
 「生霊」などというのは、抜けたのちに戻らねばならぬ運命にある。肉体という束縛がないから、どこにでも現れ得る。そういうものらしい。しかし、昔の人が言った「生霊」も霊的なものでなく、何とか合理的な説明のつくものではないかと思う。
 ところで、「魂」は宿るもの、「霊」は現れるものという区別があるように感じる。「魂が現れた」とは言わないだろう。「魂」は抜けたり入ったりして、宿る状態や宿らない状態になるという了解がなされていたのだろうか。そして、「魂」が抜けて、幻影として出現したものが「霊」として感じられるという了解がなされていたのだろうか。
 もし、遺髪、遺灰、遺骨の類に「魂」が宿るなら、切った爪にも、洗い流した垢にも、抜け毛の一本一本にも「魂」が宿っていることになってしまう。もっというなら、糞尿ですら「魂」が宿る可能性がある。そうなると、無数の「魂」が地球上に満ちていることになる。気体になったら場所も高速で移動する、もう「魂」のインフレーションだ。
 しかも、腐るなどして細分化されればされるほど、さらに分子、さらに原子レベルになってほかの動植物の栄養となれば、もう完全に「魂」失格だ。
 もっとも、人食い人種と呼ばれた人たちはそうは考えなかったらしい。勇者を食えば、その勇敢なる魂を得られるという単純で分かりやすい考え方だ。
 つまるところ、「遺体」が、埋葬に至るまでの処理や時間の経過によって分解され、原子レベルの状態になれば、「魂」が宿れない状態となるということだ。原子レベルに解体されたことによって、ほかの由来の原子と同等になり、生物の肉体としての個性を持つことができなくなったのだ。十把一絡げの存在状態だ。
 原子レベルの状態になるということは、既に人ではなく、別のものになっていく予備段階の状態だ。その後どうなるか運次第だ。鉱物、植物、動物の一部になったり、液体になったり、気体になったりと、いずれにしても「魂」の宿る余地はなく、したがって、「霊」としても出現することがない。
 「五輪の塔」は、原子という単位をまだ知らない時代の人たちの世界の単位、解体された究極の要素、つまり「五大」の象徴だ。
 この仏教で言うところの「五大」を供養塔とするということは、故人は埋葬されて「五大」にかえったのだと、遺族が故人の死を納得し諦めるための装置であるだけでなく、「五大」からの再生に淡い期待をかける希望をつなぐ装置としての機能を持たされていたのかもしれない。勿論、本人としての再生ではない。本人自体は再生できないように、既に肉体は処分ずみだ。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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