自己分析シリーズ48「公園で」

 僕は公園に行くことがある。何年かに一度だけれど。目的はない。公園には散歩するご老人、幼子を連れたご婦人、時ならぬお勤め人、通りすがりの街の人がいる。
 ご老人は、第一線から退いた余勢そのままに闊歩するかのごとく、風を切って逞しい。だが、どこへ向かうのかといえば、また最初のスタート地点。還暦は一巡だが、巡回コースは無限の広がりで、老いた人を誘うかのようだ。無限回廊の楽園は、そのままこの世の終わりを美しく表現している。
 ご婦人は、時のさざ波の上でスカートを広げている。幼子は無意味な世界に自分の世界を描いている。母親の眼差しは常に幼子に向けられているわけではない。しろつめくさを摘んだり、木にもたれて伏し目がちに物思いにふけったりしている。母と子と公園。これは一枚の絵になる美しさだ。だが、そのような絵画をまだ僕は見たことがない。
 お勤め人は、時に刻まれている。せかせかと鞄の揺れを気にしながら先に進んでいく。公園はショートカットの通り道なのだろう。出勤時間ではないので、外回りの営業か、出張の行き帰りか、とにもかくにも先を急ぐ。彼の目には何も映っていないはずだ。考えることもなく、振り返ることもなく、ただ歩いているのは、そうしなければやりきれないからでもあろう。
 街の人は、自分の庭のような顔をして公園を愛している。一歩一歩が自分の土地であることを醸し出している。買い物に行くふうでもなく、散歩とも違う、何かわからぬが、何かを確認したり、探したり、実際にそうしているわけではないのだが、そのような生活の臭いがする。それは嫌な臭いではない。懐かしいでもなく、美しいわけでもない。自然な存在とでもいうべき、公園の一部とでもいうべきものだ。
 そして、それを眺めている僕がいる。世捨て人ではないが、心のどこかが世捨て人の心に侵されているのを感じて、それを切断しようとしている僕がいる。そのためには、人を待てばよい。公園はそうしたシチュエーションを提供してくれる格好の場所だ。
 その公園は地元の公園ではない方がよい。自分と関係なく生きてきた人を眺めていると、鏡のように自分が見えてくる。過去も現在も未来もだ。そして、その鏡は多い方が好ましい。
 人生にはいろいろなことが不意に起こるが、不意に起こるのが常なので、心乱れることもなく、受け入れられる。しかし、乱れることなく、高まることはある。高まったまま、そこからどうしてよいかわからなくなる場合もある。それは哀れな状態だ。だから、あらかじめどうすればよいか決めておくのだ。作戦行動に近い方法をとることが平常心を保つ秘結なのだろうと思う。
 以下は、二十代後半の書きつけだ。作戦はおろか、本当の目的も持ち得ずに、上辺だけで生きていた。平常心だと思っていたものが、ただの無知鈍感によるものであったと漸く気づき始めた頃だと思う。
 
「公園で」

赤い花が散る
黒い雲が飛ぶ
風に包まれ
ひとり
公園の
かたすみ
ブランコで
また君を待ち
顔も名もなき
僕はやさしく石になる

去年の秋の
ちょうど今頃
一通の知らせを聞く

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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