誤字脱字衍字・内容不適?13「イラストでわかる日本の仏さま」

 2014年発行「イラストでわかる日本の仏さま」(中経出版編集、KADOKAWA発行)は、仏教入門としても、仏像入門としても、非常にわかりやすい文体で要点を説明し、イラストも素敵でかわいらしく、小学高学年ぐらいから大人まで十分に楽しめる良書だ。電子書籍にもなっている。
 しかし、残念なことに、「阿弥陀如来」のイラストにつけた文章の文字には誤字かと思うような疑問が多くある。幅広い年齢層の要求に応えることのできる良書であるがゆえに、青少年も読む機会が多いであろう事を考えると、少なくとも誤字はまずかろう。また、売り物である以上は、何としても次回の版では修正していただくとともに、電子書籍版は、すぐにでも修正していただければ、ありがたい。
 しっかりした業者を通したものであるから、その辺りの配慮が少ないと、校閲した会社の信用に関わるのは勿論のこと、青少年が漢字や語句を間違って覚える原因になる。これはその青少年が学校のテストで減点されたり、世間で恥をかいたり、将来の自分の子供に間違って教えたりする可能性を考えると、何とも罪深かろう。
 また、苦労した作者もマイナスのイメージがつき、折角の作品も少し残念な評価になってしまう。これは非常に惜しいことだ。出版してお金をもらうということの責任を果たせば、作者にも読者にも作品にも迷惑がかからなかったはずだ。次の版がなくとも、電子書籍版では速やかに改訂して販売にあたるのがよいだろう。読者はお金を払って本から学ぶ。学ぶのは、内容だけでなく、文字や文章の書き方も含まれているのだ。

①第二章「如来」
「如来のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「クルクルの髪には知慧がつまっているのです」の疑問点

疑問1「髪」
 「髪」とあるが、よく見ると、左上の部分が「長」という字形になっている。書き癖でそのように見えるのだろうか。書き癖は誰にでもあるが、特にこの部分を「長」と書いたように見える書き癖はまずいと思う。一画多くなってしまうので、間違った文字に見える。
 髪については「くるくる」を「クルクル」とカタカナが気にしたのはなぜかという疑問もあるが、かわいらしさを出そうとした工夫であるととらえればよいのかもしれない。

疑問2「知慧」
 「知慧」とあるが、「知恵」と「智慧」とが合体したようなハイブリットな熟語になっているのはなぜだろうか。「知恵」と「智慧」とを区別して考えるということは、仏教の世界ではよくあると聞く。敢えて合体させた意味があれば、その説明が欲しいところだ。
 二つの意味の異なる単語を合体させるということは、新しい意味を表現する上では有効だと思うが、まだ合体させた熟語が一般的になっておらず、辞書にもない。熟語を新作した以上は、新しい意味の説明と、熟語の成り立ちの説明を必ず同じページに書き添えなくてはならないと思う。 

★「人の恐れやこだわりをまるっととり去ってくれるありがた~い手のポーズ」の疑問点

疑問1「恐れ」
 「恐れ」とあるが、これでよいのだろうか。このポーズは「施無畏印」という印相なので、この「恐れ」は「畏れ」ではないのだろうか。「恐れ」と「畏れ」との意味の違いは大きい。
 「恐れ」が正しければ、仏に向かい合う人々が直面している何かに対する恐れを表現していることになる。それは病気であったり死であったり、自分に害悪をなす人であったり、自然災害であったりだろう。
 しかし、「畏れ」が正しいとすれば、仏に対する畏れだろうと想像する。仏は普通の人を超えた存在だから、向き合ったときに萎縮してしまう。「私を畏れなくてもいいよ。心を開いて困っていることをお話しなさい」という態度を示している手のポーズだろう。「大丈夫だよ」という感じだろうか。
 「施無畏印」という印相の名前だけから判断すると、そのまま「畏れ」としたほうがよいようにおもうのだが、どうなのだろう。

疑問2「とり去って」
 「とり去って」とあるが、通常は「取り去って」だろう。敢えて最初の「取」をひらがな表記にしたのはなぜだろう。漢字を減らしても、ひらがなばかりにならないようにする場合は、最初の漢字を漢字にしておいて、次の漢字をひらがなにするのが普通だと思う。
 たとえば、「取り去る」は「取りさる」、「飛び跳ねる」は「飛びはねる」、「探し回る」は「探しまわる」のようにだ。恐らくその理由は、語句のスタートを漢字にすることで、語句のスタートを示すということだろう。仮に語句の途中を漢字にして、スタートをひらがなにすると、見た目の文字のつながりが、区切れ目のはっきりしない流れとなって目に入ってくるから読みにくいのだ。
 また、前の文節のひらがなで書かれる助詞や助動詞とつながって違った単語としてとらえられてしまう可能性が出てきてしまうと思うのだ。別の単語に見える可能性は低いかもしれないが、似たような紛らわし単語に見えてしまい、誤解を生んだり、一瞬迷ったりするということは十分にあると思うのだ。
 勿論、最初の漢字が難しい漢字の場合には、最初の漢字であっても、その難しい漢字のほうがひらがな書きになるということはあるだろうけれど。「取り去る」の「取」は難しい漢字ではないだろう。 
 ただし、本書の場合は、「とり去る」は行頭にあり、前のひらがな部分とつながって見えるという心配は無い。だからといって敢えて「取」をひらがな表記にした理由は想像がつかない。

②第二章「如来」
「阿弥陀如来のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「眉間の白い毛は光明を放っているそうな・・・・」の疑問点

疑問1「眉間」 
 「眉間の 白い毛は 光明を放っている そうな・・・・」とあるが、この「眉間」の「眉」の部分が明らかに誤字となっている。なぜこの原稿がパスしたのだろうか。
 一見正しい字に見えるのだが、「眉」の上部、第二画目は縦画一本のはずだが、本書のイラストに添えられた、この手書きの「眉」は、第二画目の横に、同じ長さの縦画をもう一本書き足した誤字になってしまっている。
 つまり、本来の第三画目は、第一画目の横画部分と平行に書かれる横画のはずなのだが、本書のイラストに添えられた、この手書きの「眉」の第三画目は、第一画目の横画部分の中程から、第二画目の縦画と平行に書かれた、第二画目と同じ長さの縦画になっているのだ。
 それによって、「眉」の上部に「目」を横倒しにしたような部分が出現することになってしまった。「眉」の下部は、元々「目」が書かれているので、合計二つの「目」が向きを違えて上下に並んでいるという体裁だ。

疑問2「放って」
 「放って」とあるが、この「放」の右上がつながっているように見える。単なる書き癖だと思うが、一画少なくなるので、まずいといえばまずいのではないだろうか。

★「OKサインと似てるけど」の疑問点

疑問1「似てる」
 「似てる」とあるが、「似」の部分が明らかに明らかに誤字となっている。中の点がないのだ。だから、一画少なくなってしまう。修正液が落ちて消えてしまったのだろうか。
 修正液が落ちたにしては、中の点なので修正液の量が微量でなくてはならない。しかし、修正液が落ちるときは、一滴落ちるのが普通だ。しかし、一滴の修正液の分量は、文字の中央の一点だけを消すに余りある分量だ。だから、周りの点画も消えたり、欠けたりしてしまうはずだ。だが、そうしたことにはなっていない。ということは、文字の中央の点に対して、意図的に注意深く修正液を塗ったということになる。だが、それは不自然な行為だ。どういう理由でこうした文字になったのかが理解できない。

③第二章「如来」
「薬師如来のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「如来さまの見分け方は」の疑問

疑問1「見分け方」
 「見分け方」とあるが、「分」の部分が明らかに誤字となっている。書き癖かもしれないが、上の部分が「八」ではなく、山型になっている。書き癖だが明らかに誤字だ。書き癖を出版社が指摘しなかったのはどうしてだろう。

★「ハリウッド映画もびっくり・・・」の疑問

疑問1「映画」
 「映画」とあるが、「映」の部分が明らかに誤字となっている。右下が「人」になっている。というよりも、「央」の上半分を書いてから、改めて下半分を付け足して書いている字になっている。これでは一画多くなってしまう。この誤字は発見しづらかったかもしれないが、見つけて修正してほしい字だ。

④第三章「菩薩」
「文殊菩薩のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「学問の神様らしく巻物は智慧の象徴」の疑問

疑問1「神様」
 「神様」とあるが、「様」の部分が明らかに誤字となっている。右側が上下に分解されている。右下に改めて「水」に似た字を書き足したものになっている。確かに昔の「様」の右側は、上下別々に書いたこともある。特に右下は「永」という字を書き足したものになっているものも見たことがある。
 しかし、現代の日本の漢字は、そのようには書かない。今でも旧漢字を使い分けることが稀にあるようだが、こうした本でわざわざ旧漢字を使うこともないだろう。そもそも旧漢字は右下が「永」だから、このイラストの漢字は旧漢字でもない。しかし、異体字として詳しく調べればあるのかもしれない。ただ、あったとしても、敢えてここで使用する意味があるのかといえば、ないだろう。画数も一画多くなってしまっているということもあり、やはり誤字とすべきだろうとは思うのだが。

疑問2「智慧」
 「智慧」とあり、これは正しい。しかし、そうなるとやはり「如来」のところで使われた「知慧」との違いが説明されなければならない。しかし、その説明は本文の中にも無い。
 すると「智慧」とここで書き、「如来」のところで「知慧」と書いたのは、書き分けたのではなく、単純な書き間違えだったのだろうか。しかし、そのようなことはあるのだろうか。筆跡はどう見ても同じであるように見える。別人が書いたのならば、片方の人が間違って書いたと理解できるが、別人とは思われない字だ。しかし、同一人物で、新しい漢字の組み合わせで敢えて「知慧」と書き、また同じ本の中で、「智慧」と書くということは可能性としては極めて低い現象だ。

★「受験や資格試験の前にはお参りしよう!」の疑問

疑問1「受験」
 「受験」とあるが、「験」の部分が明らかに誤字となっている。右側の部分が旧漢字に近い。横一文字の「一」途中からスタートして下に向かう縦画が書かれなければならないが、スタートの位置が「一」の途中からではなく、「口」の横画くの途中からになっている。
 確かに旧漢字は、「一」の下に二つの「口」が横並びになるスタイルを取っているから、「一」に接する画は無い。だからといって現代の新字体に、そうしたものを取り入れるということが理解できない。旧字体は旧字体、新字体は新字体で統一して書かれるべきだ。ましてや一文字の中に旧字体と新字体が混じるようなことは避けるべきだろう。
 ただ、「試験」のほうの「験」では、「一」と「口の中間点辺りから縦画が書かれ始めている。すると、単なる書き癖でもなさそうだ。やはり修正液が少量飛び散ったものが、この辺りに落ちて、「一」と「口」の間の線を消してしまったのに気づかなかったか、単に漢字の書き方が不安定であるかのどちらかということになるだろう。
 ちなみに、同じページに「手にした剣で煩悩をまっぷたつにしちゃう」の「剣」の左側の部分では、確実に「一」の中程からスタートして縦画を書き始めている。すると、同じページに三種類の書きぶりがあることになり、不思議な感じがするが、結局字がかわいいからよいのだろう。書物に載せて販売する場合は、それではまずいのではないだろうか。
 細かなことは気にせずに書く方がのびのびとして良い字になるということはあるだろう。でも、それが同一の本、同一のページで三種類あるということはやはり考えた方がよいのではないだろうか。一応文字は記号だ。小さな記号なので、少しの形の違いで意味の違いを表現していることもある。やはり、気にした方が気にしないよりもよいという無言のメッセージを発しているもののほうが質が高いのではないか。どういう人が読むのかが不特定であるのが出版物の宿命だ。質の高いものの提供が望まれる。

⑤第三章「菩薩」
「優填王のイラストに添えられた手書きの文字」について

★「優填王」の疑問

疑問1「優填王」
 「優填王」とあるが、「填」の部分が明らかに誤字となっている。もしかすると、昔こうした字があったのかもしれないが、現代認められている漢字としては、一画少ない。右側の「目」の部分の最後の一画が無く、その代わり、「目」の下の、「一」と合体している。本文では、折角「優塡王」と書いているのだから、イラストにも「塡」を使うべきだったと思う。なぜ、敢えて新字体にしたのが疑問だ。新字体のほうが画数が少ないため、わかりやすいとは言える。しかし、記号なので、少なくしすぎるのはどうかと思う。

⑥第三章「菩薩」
「虚空蔵菩薩のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「虚空無限に広がる大きな心を持ちます」の疑問

疑問1「虚空蔵菩薩」
 「虚空蔵菩薩」とあるが、「虚」が誤字だ。部首「とらがしら」の右端は左斜め下にはねるのだが、はねてない。文部科学省は漢字のはねやとめは適当でよいと言い始めているので、それに従えばどうでもよいことかもしれない。
 しかし、文部科学省はきっと学校教育の場での話を云々しているはずだ。そうでなければ、これまで営々と続いてきた漢字文化の否定につながる発言を一国家の省庁が主張したということになってしまう。
 中国ではあまりに大胆に漢字を簡素化してしまった。国の体制上仕方ないのだが、大鉈を振るうことになり、漢字のよい点まで削ぎ落とされてしまった感がある。見ただけでも、およその意味や発音もわかり、数ある漢字を習得する場面で合理性を発揮していたのだが、その漢字本来のよい点を失ってしまったように思われるのだ。
 この本は教科書ではないので、文部科学省の管轄外にある。だから、昔からはねているところははねておくべきだろう。文部科学省の発言は漢字の異体字を増やす端緒となるもので、禍根を残すものとなるだろう。
 折角、異体字をなくしたのに、再び過ちを犯すという形だ。直ぐにはそうならないが、長い歴史をこれからも刻む国であるということを前提にすれば、為されるべき発言ではなかったかもしれないのだ。それとも、そこまで長期にわたって続く国ではないという思いがあるのだろうか。まさかそんなことはあるはずはないが、そのまさかが起こるのが歴史だ。
 まさかの判断が為されるのは、近くばかりを見ているという油断に原因がある。一応近くばかり見ていれば、直ぐに成果の上がることも多いので、文句を言う人はいないからだ。
 しかし、百年の計という。遠くを見て動くべきだ。遠くといっても百年だ。これを長期間を見据えた計画と思ったらまずい。百年ではもはや短期だろう。「百年の計」は古い昔の言葉だから、数字を変えなくてはならないのではないか。
 今は人生百年時代といわれている時代だ。その時代に百年の計というのは、どうにも短期だろう。人一人の一生分なのだから。十年など直ぐに過ぎてしまう。これは超短期計画のスケールだ。
 その十年よりももっと短い計画、たとえば自分の任期などを最小スケールにしている人であればよいが、自分の任期などが最大スケールになっている人が重要ポストに就いていたら、考えることなすこと、将来的にどんな弊害をもたらすものとなるかわからないものを、平気でしかも大真面目に手がけるおそれがある。
 先が見えない時代だから仕方ないという人もいる。どうせ見えないのならば、決めてしまえばよい。そのための長期計画だ。それは作戦になってなければ、ただの表に過ぎない。酷い長期計画になると、夢物語の年表だ。
 とにかく部首「とらがしら」の右端は、はねておくのがよいだろう。はねないことで簡素化したと思っても、その実感があるのは、その時だけで、その実感を持たない世代は、別の簡素化を考えるようになるだろう。その積み重ねで意味なく進化し、異体字の増加による混乱は勿論のこと、その他の弊害が将来的に必ず出るだろう。
 そして、それを改善しようとして、結局は改悪してしまうのが人間らしいところだ。つまるところ、はねる、はねない、この両方を認めるのがまずいということだ。これを出版物でやってしまうのは、厳禁だろう。

⑦第三章「菩薩」
「准胝観音のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「清い母性を表す柔らかい表情」の疑問

疑問1「母性」
 「母性」とあるが、「母」の漢字が明らかな誤字だ。「海」という漢字の右下部分と同じ形になってしまっている。筆の勢いでつながったのかと思ったが、どの角度から見ても、そのようには見えない。これを見逃したのはどうしてだろう。
 
疑問2「柔らかい」
 「柔らかい」とあるが、「柔」の漢字が明らかな誤字だ。上半分が「矛」でなければならないが、「矛」の最後の二画分が明らかに欠損している。なぜ、二画少ない漢字になってしまったのだろう。

⑧第四章「明王」
「制吒迦童子のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「制吒迦童子」の疑問
 
疑問1「制吒迦」
 「制吒迦」とあるが、「制」の漢字が誤字になっている。左側の部分が上下に分かれてしまい、一画多い漢字になってしまっている。一見して明らかなので、どうして編集段階で見落としたのだろう。

⑨第四章「明王」
「降三世明王のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「忿怒の形相で偉業の髪を踏みつける!」の疑問

疑問1「忿怒」
 「忿怒」とあるが、この「忿」が誤字になっている。上半分の「分」は「ハ」に「刀」だが、山形に「刀」となっている。ありがちな間違いだが、何とかしてほしい。
 「金剛夜叉明王」の説明では、きちんと「忿怒」と書いてあり、同じ手による文字にしか見えないのだが、あるときには誤字、あるときには誤字でないというのはどういうことなのだろうか。習性が部分的になされた結果として、このようになったのだろうか。

⑩第五章「天」
「梵天のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「顔は四面 腕は四本」の疑問

疑問1「腕は四本」
 「腕は四本」とあるが、四本あっても構わない。しかし、「腕」の漢字が誤字になっている。これはまずい。真ん中の「夕」が、「然」の左上の形になっている。「夕」に一画足して、画数が一画多くなってしまっている。これは見つけやすい誤字だったはずだが、どうして編集時にチェック漏れが生じたのだろうか。

⑪第五章「天」
「帝釈天のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「仏界一の色男」の疑問

疑問1「仏界」
 「仏界」とあるが、「界」が「界」に見えない。上半分は「田」で、下半分は「介」のはずだ。「介」だから、「界」を「かい」と読むのだろう。しかし、「介」であるべきはずの部分が、線が四本並んでいるように書かれている。下半分の最初の二画は山形になっていなければならないが、随分と離れ、下半分の三画目と四画目を中心に、それらの外側にまで左右に分かれてしまっている。山形が、完全に左右に離れすぎた「ハ」になってしまっているのだ。これはまずい。この文字だけを見せられたら、とても「界」としては認識できない可能性が高いように思う。

⑫第五章「天」
「増長天のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「手を腰に当てて忿怒の表情」の疑問

疑問1「忿怒」
 「忿怒」とあるが、例によって「忿」が誤字になっている。折角、「金剛夜叉明王」のところでは、正しい漢字に戻ったのに、「増長天」のところで、また誤字になってしまった。このようにぶれるのはどうしてだろう。やはり別の手になるものなのだろうか。

⑬第五章「天」
「鬼子母神のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「優しい母の姿」の疑問

疑問1「優しい」
 「優しい」とあるが、「優」が、誤字にしか見えないものになっている。ここまでの「優」はよかったが、この「鬼子母神」のところでは、誤字になってしまっている。右上の部分が「百」にしか見えない。横画が一画少なく、一画少ない漢字になってしまっている。ここに来てどうしておかしくなったのだろう。

疑問2「母の姿」
 「母の姿」とあるが、「母」が誤字になっている。⑦第三章「菩薩」の「准胝観音のイラストに添えられた説明」の中の「母性」の「母」と同じ間違い。「海」の右下の部分の形になってしまっている。つまり、画数が一画少なくなってしまっている。

★「清い母性を表す柔らかい表情」の

⑭第五章「天」八部衆
「迦楼羅のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「龍を食べた金色の鳥」の疑問
 
疑問1「龍を食べた」
 「龍を食べた」とあるが、「龍」が誤字になっている。右下部分は三本の横画が並ぶはずだが、二本の横画しかない。他の部分では正しく「龍」の漢字が書かれているのに、どうしてここは誤字なのだろう。

⑮第五章「天」八部衆
「夜叉のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「夜叉」の疑問

疑問1「夜叉」
 「夜叉」とあるが、「叉」が誤字ではないけれどもおかしい。手書きなのだが、活字の飾りがついている。「叉」と書くべきところを、なぜか第三画目の始まりのところで一度屈折してから右払いに移っていく。確かに活字では、毛筆の入りを飾りのようにしていた時代があった。いつの話だろう。明朝体の一種だったと思う。手書きなのだから「叉」というように第三画目の始まりに飾りをつけないのが普通だろう。活字癖を持った書き癖ということなのだろうか。
 例によって勝手な想像だが、この活字の装飾部分を手書きにまで反映させるということは、三画目の書き始めに装飾部分のある「叉」の形状の情報を、相当数得ていた経験があるのではないだろうか。さて、それはどのような経験だろう。
 こうした「叉」が頻出する文献を探してみてところ、高橋留美子の漫画「犬夜叉」が群を抜いて突出している。全五十六巻ということもあり、「叉」の使用回数をカウントしなかったが、およそどのページを開いても「叉」が出てきそうな勢いだ。このシリーズを読んでいる間には、三画目の書き始めに装飾部分のある「叉」が頭に刷り込まれていったとしても不思議はないと思う。ここで、この作品の愛読者である可能性が浮上してくる。

⑯第五章「天」八部衆
「龍のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「龍」の疑問

疑問1「龍」
 ここの「龍」はなぜ正しいのだろうか。正しいのが当たり前なのだが、⑭第五章「天」八部衆
「迦楼羅のイラストに添えられた手書きの説明」の中の「龍」が一画少ない誤字であるのに、ここでは正しく手書きされている。
 これは非常に不思議なことだ。二人以上で分担して手書きしているようにも見えないのだが。

⑰第五章「天」十二神将
「真達羅のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「真達羅」の疑問
 
疑問1「真達羅」(シンダラ)
 「真達羅」とあるが、「真」が誤字になっている。先述の「填」の右側の間違いと同じ。画数が一画少ない。

⑱第五章「天」十二神将
「摩虎羅のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「摩虎羅」の疑問

疑問1「摩虎羅」(マコラ)
 「摩虎羅」とあるが、「虎」が誤字になっている。第二画の欠損。そして部首「とらがしら」の右端、つまり第四画の最後は左斜め下にはねるべきだろう。
 第二画の欠損により、一画少ない漢字になってしまっている。

⑲第六章「垂迹」
「僧形八幡神のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「こう見えて実は神様です!」「神様ですヨ」の疑問

疑問1「神様」
 「神様」とあるが、同じページで二か所の「様」が誤字になっている。先述の第三章「菩薩」の「神様」と同じ。

⑳第六章「垂迹」
「青面金剛のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「虎皮のふんどしをつける」の疑問

疑問1「虎皮」
 「虎皮」とあるが、「虎」が誤字になっている。先述の通りだが、第二画の欠損はなく、部首「とらがしら」の右端のはねが無い。
 部首「とらがしら」の第二画が有ったり無かったりするのは、やはり複数の人の手によるものなのだろうか。それにしても手は同じに見えるのだが。

㉑第六章「垂迹」
「三宝荒神のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「三宝荒神」の疑問

疑問1「かまどの神様」
 「神様」とあるが、先述の「神様」と同様の間違い。

㉒第六章「垂迹」七福神
「福禄寿のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「経巻」の疑問

疑問1「経巻」
 「経巻」とあるが、「巻」が誤字になっている。第五画が、第一画と第二画の間に大きく突き出る形で左払いが書かれておらず、第三画の中程からスタートしている左払いになってしまっている。書きにくかったのだろうか。

㉓第七章「羅漢・祖師」
「鑑真のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「何度も荒波を越えてきた」の疑問

疑問1「越えてきた」
 「越えてきた」とあるが、「越」が誤字になっている。文字の中程に本来は無いはずのものが書かれている。したがって、それは「成」という漢字に見える。「そうにょう」に「成」は誤字だ。

㉔第七章「羅漢・祖師」
「法然のイラストに添えられた手書きの説明」について

★「四国に流されたこともあります」の疑問

疑問1「四国」
 「四国」とあるが、「四」が誤字になっている。書き癖かもしれないが、「目」が横倒しになっている形になっている。少しの違いかもしれないが、部首の「あみがしら」のように見える。下に何も無く、単独なので、「あみがしら」とは見られないだけの話だ。

 ここで指摘した漢字の多くは常用漢字なので、小中学生が見た場合、意識しなくても記憶のどこかに入り込み、書き間違える原因になっていくことだろう。
 また、「智慧」の「慧」、「忿」、「叉」は常用漢字ではないので、学校で習わない可能性のある人もいる。すると、学校で間違えやすいポイントを教えてもらう機会が無い人もいるということになり、その人はこの本で見たままの漢字をノーチェックでインプットしてしまうおそれがある。
 さらに、この漢字の間違いに気づいた小中学生は、面白く「なるほど」と読み進めてきたところで、「あれ?大丈夫かな」と感じてしまう。これは大きなマイナスだ。内容までが疑われてしまう。読めば読むほどに仏教に対する興味が湧いてくる「入り口本」としてとてもよい本だけに惜しいことだ。
 是が非でも、次の版があれば改定してほしい本だ。もし、重版がなければ、電子書籍版だけでも何とかならないものだろうかと心底思う。お金を払って読む人のために。

★イラスト自体の疑問
 ちなみに、「八部衆」の阿修羅のイラストだが、六つの持ち物を持った姿で描かれている。
 明らかに興福寺の何も持たない阿修羅像を描いたと思われるデザインなのだが、このイラストはどうして持ち物を持っ姿で描かれているのだろうか。
 有名な興福寺の阿修羅像の姿を借りて、本来の阿修羅の姿を再現したということであれば、それは問題ないと思う。
 しかし、イラストでは二番目の右手に剣を持っている。これが不自然だ。二番目の左手の弓はよいと思う。だが、弓だけでは用は為さない。弓矢でセットのはずだ。
 弓矢は攻撃中心の武器だ。弓矢のある場では、剣は基本的には自分を守るものだ。だから、弓矢と剣で攻防のワンセットとなる。それはそれでよいのだが、この三点セットのうち、矢を欠いている状態ではセットの意味をなさず、攻防の備えが破れてしまう。
 弓矢のない場では、剣が攻防の役割を果たす。だが、それでは不都合なので、攻撃中心の槍とセットになって攻防の備えをなす。
 弓折れ、矢尽きた場合には、攻められるしかない。そうなれば剣で身を守る。体力があれば剣で攻撃をしかけていく。辛抱強く守っている間に助けが来れば、命が助かる。しかし、剣で攻撃に出れば、的の弓矢の餌食になる可能性が高く、助けが間に合わない。敵も弓折れ、やつ来た状態であれば、互いに剣で攻撃に出て、華々しく散ればよい。
 しかし、それが許されないような戦闘員不足の場合は、簡単に命を散らしてはならない、ただ、戦闘員不足というよりも、全滅に近い深刻な状況に陥った戦況の中では、華々しく散って、伝説的な名を残すという選択肢もあるだろう。
 通常なら、そこに至るまでの弓矢の攻防、次に槍の攻防、そして最後の剣の攻防という手順というものが踏まれると思うのだ。ところが、阿修羅は戦う神だ。攻撃力の大きい戦の中心的存在である弓矢を持たねばならないはずだ。武士は弓矢取る身と自称するように、戦の象徴は剣ではなく、弓矢だからだ。したがって、戦でないときの武士は弓矢を持たず、剣を帯びて身を守る備えを怠らないという心構えを持つ。それは戦の神の阿修羅としては不似合いな姿だ。
 興福寺の阿修羅像をよく観察してみればわかるように、二番目の右手の指は修復が施されている。しかし、修復がなされていない手指の部分を見れば、それは剣を持つ手指の格好ではないことがわかる。仮に、剣を持っていたとすれば、剣先が自分の方に向いてしまう角度に見える。
 剣を持つ仏像は多くあるが、剣先は仏像に向き合う人間に向いていることはなく、仏像自体にも向くことはない。剣先の向こうは敵でなくてはならないからだ。
 興福寺の阿修羅像の二番目の右手は、もし物を持っていたとすると、それは矢でしかない。最低一本、矢尻を身体の外、つまり、小指側の方に矢尻、親指側の方に矢羽根という向きで持っているはずだ。そうすれば、手首の回転と、少しの右手の送りだけで、素早く弓に矢をつがえることができる。
 したがって、右手小指と矢尻との距離は長いほうが有利なはずで、美的な造形のバランスを崩さない程度に身体の外側に向けて矢尻が出ているデザインにした方が、戦の現実感を表現することができるだろう。
 それより何より、二番目の左手は、弓に矢を今にもつがえんとする手首の角度が、阿修羅の攻撃性をより一層表現しているように見える。弓を持っていない阿修羅像でも、その手首の角度、指の姿で、目に見えない強力な弓の扱いが十分に想像できるようになっているように感じる。
 逆に、矢尻を身体の内側、つまり右手の親指側の方向に矢尻あるように持ってしまうと、矢をつがえるときの右手の大きな動きが一つ余分に必要となる。その動きの無駄は、時間あたりの発射本数を減らしてしまう。それは敵に後れを取るということを意味し、勝敗を危うくするものだと思う。
 もちろん、現在の弓道の競技は、戦とは状況がまるで逆になる。まず百%的は自分を攻撃してこない。攻撃を受けるのが前提の戦。絶対に攻撃を受けないのが前提の弓道の競技。たくさん矢を発射することが大事な戦。生き物という大きな目標に当たればよい戦。決められた本数の矢しか発射してはいけない弓道の競技。的という小さな目標に当てなくてはならない弓道の競技。喧噪のなか、流血の中で行われる戦。静寂の中、汗一つ流れない弓道の競技。阿修羅はいざ知らず、防具に身を固めて屋外を走り回って射る場所を決定する戦。防具一つなく無防備のまま、平らな板の間の室内の決められた位置から動いてはならない弓道の競技。観戦する者や敵に配慮してなならない戦。観戦する者や相手に失礼があってはならない弓道の競技。殺傷能力の高い矢尻の戦。殺傷能力の低い矢尻の弓道の競技。
 何から何まで逆ずくめだ。持つ矢の向きを逆にして効率を高める方法をとっても何ら不思議はないだろう。
 ただ、戦の場合も弓が折れたり弦が切れて、その替えも尽きたりすれば、そして、負傷したり、既に重い刀を振り回す力も残っていなかったりすれば、辺りに落ちている矢を拾い、親指側の方向に矢尻を持ち、片手でも短い槍のようにして戦うしかない。弓持たぬ阿修羅像なら、そうした矢の持たせ方をした方が、鬼気迫るものがあるかもしれない。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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