変な疑問245「打ち出の小槌で願いが叶う理由」①

 大国様というか、大黒様というか、とにかく「打ち出の小槌」を持っている方がいる。この「打ち出の小槌」とは何が原形だろう。振ると何でも出てくると聞く、こんな便利なものはないだろう。どんな恐ろしい悪魔が五万と出てきても、「あの悪魔を懲らしめる道具を出して」と念じながら振れば、その道具が出てくるはずなのだ。
 その打ち出の小槌自体を降り出せば、もう一つ手に入るから、ダブル小槌となり、出す効率を倍にできる。そんな「打ち出の小槌」は、どうして願いを叶えられるのだろうか。
 物ばかりではない。一寸法師などは、身体を大きくしてもらっている。こうなると、広く願いが叶う道具としての小槌というように、能力が一段階上がってきているようだ。この勢いだと、「良い世の中になれ」と念じたときには、世の中まで革命的に変わってしまいそうだ。
 ところで、なぜ小槌から希望の物が出てきたり、願い事がかなったりするのか。そのような発想が生まれたのか。そもそも、小槌はどのように用いることが可能なのか。
 いつものように十種類捻り出してみる。勿論、小槌が何であるかなどには、当然まことしやかな諸説がある。しかし、その諸説以外のまことしやかな説を、怪しげなものも含めて考え出さねば、何も面白くないだろう。
 所詮、諸説ありの状態で行き詰まっているのだから、その根拠は薄いに決まっている。明確な根拠がないのなら、同じく明確な根拠のないものを列挙しても迷惑はないだろう。
 そもそも、諸説ありとはいっても、よくよく考えてみれば、五穀豊穣を願うのであれば、常識的には、あの打ちつける面積の広い木製のハンマーは古いタイプの脱穀ハンマーであってほしく、背負った袋には米が入っていてほしい。
 恐らくは、大黒天の存在意義を編集していく過程で、袋に米以外のものが入っていると考えたとき、俵入りの米を登場させることになったのではないかと想像する。そして、五穀豊穣の象徴である米俵の上に大黒天を乗せたのは、その米の精のごとき存在として、位置づけたからこそだろう。
 問題は、そうした存在に至る前の段階のものを、まだ大黒天が引きずっていて、それが目に見える持ち物やその用途に、内在する形で引き継がれてはいないだろうかということだ。それを見透かすための一つの試みとしても、所謂諸説に含まれていないであろうところのものを、想像の力を借り、様々に捻り出したい。
 そこで、まずは小槌の怪しい実態の候補を、例によって十種類、以下に無理やり想像して、適当に並べてみる。

① 埋蔵物探索用の打診器具
 埋蔵物や空洞や水脈や鉱脈などを打診して探る道具。
 地面を叩いたときの感触や音を敏感に聞き分け、高価な埋蔵物や水やお湯を効果的に探査して富を得ることができるため、望みの物を手に入れることができる。
 試し掘りをしなくてもよいので経済的だが、相当に熟練していないと探すのに大変な時間がかかる。下手をすると、何も得られずに終わる落ちとなる可能性もあるだろう。
 勿論、この小槌だけの力だけではそうなるだろうという想像だ。実際には大国様なり、大黒様なりの人間離れした聴覚能力が発揮されて有効にはたらくものだろう。福耳のように見える大きな耳は、その象徴だろう。したがって、この像には、効率の悪い山師的作業に従事する人の願望が込められているということになりそうだ。

② 強奪のための拷問用器具
 人を脅したり、拷問したりして、効果的な恐喝を実現する道具。
 逮捕されるまでは、多量の金品を我が物とし続けることができる。埋蔵物を探索するよりも直接的ではるかに効果的だが、犯罪なので禁止されている。
 小槌とはいうものの、柄以外は不自然に大きく、その分だけ威力があり、恐喝相手に大怪我をさせるおそれがあので、実際には振り上げて脅すだけという使い方になる。振り上げで脅すたびに欲しいものが我が物となって増えていくという寸法だ。慣れれば全力で小槌を打ち下ろし、顔面で寸止めすれば、より脅しの効果が高い。
 脅す効果は、顔の表情が和やかであるほどに高い。ギャップ効果だ。動作は脅し、顔は親しげと、正反対の食い違いがあるため、やる方もそれなりに練習する必要がある。また、脅しの慣れを防止するため、時々寸止めに失敗して直接肉体に打打撃を加えるという荒技も必要とされる。
 危険であり、犯罪でもあるが、法律は人間にしか適用されないので、小槌は大黒天しか使わないほうがよいだろう。ブラックな大黒天という設定になってしまうが、そうした大黒天を祀る人間がいるということになると、マハーカーマ、大黒天だけにブラックだと駄洒落てもいられない。

③使用人呼び出し合図用器具
 呼び鈴と同じ用途の道具。
 要求を言い渡すため、使用人を呼び出す。その呼び出しの合図の音を叩いて出すのに使う。主の要求を果たすのが使用人の務めなので、主の経済力や権力を用いて対応できるものである限り、欲しい物は手に入れて献上するのが当然だ。
 仏教の世界にそのような経済力の要素はないという人もいるかもしれないが、家内安全、健康長寿、商売繁盛を神仏に願って精進努力を誓うのが人の常だ。そして、富の象徴である米俵の上にどっかりと尻を乗せて座っていたり、両足や片足で踏みつけて乗ったりしているスタイルは、誰あろう大黒天、大黒様だ。
 米俵が、農民の願いである五穀豊穣の象徴であるというのが普通だが、果たしてそうだろうか。どうもそうは思われないのはどうしてだろう。何しろ一粒米をこぼしたり残したりしたら、目が潰れるほどのいいようをする時代に、大黒様は何と米俵ごと足で踏みつけているのだ。
 踏みつけるということは何を意味するか。それは一度踏みつけられてみるとわかるだろう。そんな厳しくも辛い体験をしなくても、立ち姿の仏像が足で踏みつけているのが大抵邪鬼の類であることからも容易に想像できる。
 江戸時代の初期に展開されたキリスト教を弾圧の中で登場する「踏み絵」というものがある。キリスト像を彫った板などを踏めるか踏めないかで、隠れキリシタンを見つけ出すのだ。踏むことに関する感覚は同じもので、不正なるものや邪なるものの類であるとして、異教の価値を認めないことの意思表明であった。それは存在の否定だ。
 にこやかな顔をしながらも、農民感覚の手塩にかけた大事な米自体の存在を否定して排除し、その結果として手に入れることのできた金銭の価値こそが絶対のものであるという意思表明として受け取ることができそうだ。その穏やかな眼差しの奥に、丹精込めた米、稲作に懸命に励む農民の姿、そうしたものが映っているようには感じられない。それどころか、米を踏み台にのし上がる札差のような、抜け目なき笑顔の商人の姿が彷彿としてくるのみだ。その盤石な経済的基盤に守られ、あるいはそれを武器として活用する人々、商人の象徴であるように見えてしまうのだ。
 つまり、日々の要求を人を使って望みを叶えていく姿としての像にしか見えないのだ。大黒天に対して、それは罰当たりの感覚だろうか。
 ちなみに、大黒天の原形である忿怒相のシバ神的大黒天だが、その大黒天が踏みしだいているものは、仏教にとっての異教の神々、シバ神やその近しきものだ。この自傷行為、自殺行為に見える表現は何だろう。悔い改めた、反省した、そうした自暴自棄にも似た自己批判の表現だろうか。それとも、自己批判の後、仏教のために働きますという隷属の誓いを表明しなければならぬ自分自身に対しての内面的怒りの表現なのだろうか。シバ神的大黒天には、そのような悲しくも屈折した怒りの噴出を感じる。
 江戸時代、第三次産業の中心であった商人は、形の上では身分が低かった。それが、大都市部などで成り上がっていく。一方、人口のほとんどを占める第一次産業の中心であった農民は、士農工商という身分制度があったとすれば、形の上では商人よりも身分は高かった。
 しかし、それが、自然災害や飢饉、そして年貢の取り立てなどの社会制度の中で貧困化していく。その大多数の人々の生み出した一粒一粒の米。五公五民なら、税率五割で、その流通や換金は第三次産業任せになる。武士が経済に暗かったり、武士と手を組めば、悪徳商人は笑いが止まらなかっただろう。
 時代劇を見過ぎているわけではないが、その悪徳商人の笑いが、忿怒相のシバ神的大黒天に仮面として被せられているように見えてしまう。これは何を意味しているのだろう。
 ともあれ、第一次産業、第二次産業頼みであるにもかかわらず、第三次産業の商人が高笑いをする、そんな類の商売繁盛をにおわせかねないのは、神としての大黒天にとっては不本意だろう。だが、そうしたいろいろな屈折の歴史を背負っているように見えてしまうのは、数あるスタイルの中でも、やはり土足で米俵の上に仁王立ちしている姿を最初に思い浮かべてしまうからだと思う。

④ 音による通信用器具
 これは③の使用人を介さない小槌の使い方となる。使用人を使わないので、何かを必要とするときには自分で動いて、手に入れる算段をするしかない。使用人が雇えないか、要求が多すぎるか、あるいはその両方の原因で、こうした状況が生まれる。
 恐らく本人が単独で東奔西走するわけにもいかないので、そこから遠くの現場に小槌を打つ音が聞こえるように、叩く方向と叩かれる物の材質や構造を工夫する必要がある。
 いつ何がどれだけ必要か、それを誰に伝えるか。そうしたことを小槌で打つ回数やリズムなどで行うことになるが、最初の叩きで、誰に伝えるかを伝え、次に何をどれだけ届けてほしいかを伝え、そして、いつ届けてもらうかを伝えるのがよいだろう。
 勿論、返事も重要だ。聞き手が聞き取って了解したという返事や、どれだけ待ってほしいとかの音の合図は、聞き手として当然行わねばならない。
 音速で遠く離れたところへ発信するので、使用人を動かすよりも高速に伝達できるため、便利なことが多い面もある。今と異なり、街や交通の騒音、家電の騒音、テレビやラジオの騒音などがなく、大きなビルのような遮蔽物もないので、要求の伝達自体の勝手はかなり良いだろう。
 ただ、合図の解読一覧表のごときものがなければ、周囲に音が響き渡るため、混乱が起きるだろう。また、なりすましの合図を第三者から出されてしまうと困るので、パスワード的な取り決めも必要となるかもしれない。細かいやりとりも困難なので、お決まりのものを好きなときに入手するというようなときに、より適した方法となるものだ。

⑤ 依頼用事籤の振り出し容器
 これは③の使用人の負担を減らす工夫と、大黒天自身が楽しむための道具。
 打ち出の小槌から降り出されるのは、お御籤風の細い棒で、その棒に欲しいものや、してほしいことの リストが反映されている。
 予めリストが示されているので、使用人は常に準備万端の状態で待機していることができる。勿論、無い物ねだりの防止にもなる。これでかなりストレスフリーに近くなる。
 一方、小槌を振る側は、無い物ねだりができない代わりに、振り出されるお御籤棒に何が書かれているか、出てくるまで分からないので、振っているときの期待、思い通りのものが出たときの嬉しさ、外れたときの楽しさなどが味わえる。そのリストは自分で作成したものなので、外れても自分が欲するものや、してほしいことであることに変わりはないので、問題が少ない。
 欲しい物と、やってほしいことのリストを作成する時点で、使用人との十分な協議が必要だが、それが使用人との相互理解を高め、よりよい関係を築き上げていくもとになるだろう。

⑥ 隠しスペース利用の演出道具
 願い事がかなう行事の演出用の道具。
 小槌を刳り抜いて、手品で取り出すものを入れておく隠しスペースとする。小槌を振るときに金具が外れて口が開き、中のものが振り出されるという仕組みだ。中に仕切りを取り付けておけば、表裏の二箇所に物を隠し入れることができる。
 これは物であってもよいが、何かを書いた紙片でもよい。紙片ならば、小槌に入らないものを目録として書き入れることもできるので、後々手渡せばよい。また、物でないものは文章表現して入れておけばよい。それは何かを許可したり、約束を交わしたりする書類であってもよいだろう。
 これならば、パーティー的な会で使える。振ったときに、小槌の中からさっと出てくるので、打ち出の小槌らしいパフォーマンスを実現できる。振る前後の文句やパフォーマンス、降る場所やタイミングによっては、仕掛がばれていたとしても、かなり効果的な演出となり、いただいた者は普通にもらうよりも、大きな感激を得られるだろう。
 欲しいものや、してほしいことは、普段からの観察や会話、近いものからの情報などから割り出しておき、サプライズとして提供することになるから、結果として願い事が叶う「打ち出の小槌」ということになる。
 ①から⑤までの打ち出の小槌が、小槌の持ち主の願い事を叶える道具であるのに対して、⑥は小槌の持ち主の周囲の者たちの願い事を叶えるための道具になるところが、大きく異なる。

⑦ 音聞かせの貯金箱
 ⑥と同じように小槌を刳りぬくが、貯金箱としての役割を持たせたもので、その音を聞いたり聞かせたりするための道具。
 小槌の持ち主にとっては、小槌を振ってお金の音を聞き、たまり具合を確かめては、「つもり貯金」への意欲を高める手段としたり、節約のため「手元にはもうこれしかないんだ。」という諦めの気持ちを自分でつくったりするときに使える。また、不評と反発を恐れなければ、音を聞かせての「つもりお駄賃」に使えないこともない。
 いずれにしても、小槌にお金を入れる小さな投入口を細工しなくてはならない。「つもり貯金」は、想像ショッピングだから、商品化されていないものまでも買えるだけでなく、圧倒的有利な展開で値切っていくこともできる反面、つもり貯金の額も極めて少なくなるという問題点はある。
 しかし、小槌が重くなると、腱鞘炎になったり、手首自体を痛めたりすることになるので、やはり注意して重量調整をしなくてはならないという面倒は避けられない。
 周囲の者にとっては、小槌を振られてお金をいただいたつもりになるだけだから、満足が得られないのは当然だ。だが、そこは持ち主の普段からの心がけ、声かけ、目配り、心配りなどによって、誠意を尽くすことによって、周囲の者たちは、「いつかはより多くのものをいただけるのだろう。」とか、「くれようとする、そのおつもりがあるだけでありがたい。」とか、そのように思ってくれるものだ。⑥の使い方と併用すれば、効果抜群となるだろう。
 また、お金を少しずつ増やして鳴る音を変化させていき、期待感を持たせる工夫もあるだろうが、少しずつ減らして鳴る音を寂しいものに変化させていき、台所事情が苦しいことを訴える工夫やらを、効果的に組み合わせ、結束力などを高めることなども可能だろう。
 ただし、腱鞘炎にならないように普段から手首を鍛えておくことは必要だろう。大黒天は人間じゃないから大丈夫だとは思うけれど。

⑧ 薬物振り出し容器
 幻覚作用のある薬物を振り出すしかけのある道具。
 幻覚作用で何でも願い事が叶ったような気持ちになるという、禁断の方法。ターゲットとなる者の薬物が抜ける前に、願い事が元の木阿弥になってしまったのは、自分のせいだとか、誰かのせいだとかは、小槌の持ち主が暗示をかけておけばよい。一度は入手したが、何者かによって奪われたとか、誰かに預けてあるとか、日常生活での辻褄が合うように心を操るのだ。
 問題は、禁断の方法であるにもかかわらず、小槌の効果に依存する者が増えていくことだ。しかも、実は何も得られてはいないという本当のことを伝えることも難しい。依存者は、本人も騙されていたいという気持ちが強いように思う。そして、結局は薬によって直接命を縮めたり、現実に基づく努力ができないために人生を駄目にしたりしてしまうのが、最大の問題だ。
 ゆくゆくは、何でも望みを叶えてくれる小槌の伝説ばかりが誇張して伝わり、小槌に怪しい者たちが群れるようになる。結局は害悪ばかりで、何のためにもならない犯罪行為に過ぎない。
 
⑨ 太鼓判の象徴としての取って付き判子
 次々と提出される稟議書を高評価で決済した意を表すための道具。
 太鼓判を押して稟議を積極的に通させ、必要なものを次々と手に入れていくイメージ。その太鼓判の象徴としての巨大判子をバランスよくデザインしたら、結果として小槌に見えたという話。
 太鼓判のイメージを象徴的に表現したところ、あのような大きさのあのような形状のものになったわけだ。実際の寸法の判子を像で再現使用とすると、手で持った部分で判子はほとんどが隠れてしまい、また指先から少し飛び出して突起した部分も小さすぎて、何であるか全く判別のつかないものになってしまうからだ。
 まず、太鼓判というほどだから、太鼓なみサイズの判子をどう持たせるかが問題となった。そのような大きな判子を、人間タイプの像に持たせようとした場合、手や腕までも巨大化させて表現しないと、巨大判子とのバランスが崩れてしまうからだ。
 だが、そのような体形は如何に頭や腕がたくさんある仏像群と比べても病的であって、美しいものに見せることはできない。
 そこで、大黒天自体の変形を可能な限り抑え、あとは他の方法をとるしかなくなった。結果として、太鼓を小槌サイズの判子に縮め、その小槌サイズの判子を通常の手で持たせるため、グリップを直角に交わるように取り付けることとなった。
 とにかく、イメージとしての太鼓判効果を持った印影が輝いているため、書類が次々と上に通り、必要なものの購入許可が得られていくのだ。すると、必要なものが次から次へと購入してもらえる結果となり、願いが叶うということになる。
 ただし、裏で話が通じていると疑われないようにする配慮が必要だ。これは要領のよい悪徳なやり方なので、褒めるところが少しもなく、内部告発に怯え続けなくてはならない。そのような戦々恐々の日々を送ることになる不幸を背負わねばならないのだ。
 
⑩ 記憶書き換えのための殴打用の武器
 対象者の頭部を適度に殴打して記憶喪失状態にするという危険な道具。
 失われた記憶を回復させる過程で欲しいものが全て手に入ったのだと刷り込む。これも犯罪なので、褒められるところが少しもなく、訴えられることに怯え続けなくてはならない。
 そもそも、記憶が戻らない危険性があるどころか、植物人間になってしまったり、死亡してしまったりする危険性も高いので、禁じ手の中の禁じ手だ。
 
 ①から⑩までの中には、人間が日常生活の中で用いる小槌の使い方として不適切なものも含まれている。通常なら、そうしたものは当然のことながら省かねばならないが、実際の事始めは、そうした不適切なものからであったのかもしれないので、削除はできない。
 仏教では、人にとって悪い神が、人にとって良い神になっていったりするように、スタートは悪でも、最終的には善というパターンは、よくあるストーリーだ。何でもそうだが、キリスト教的に言えば「悔い改める」ことが大事なのだろう。
 ところが、振り上げた道具は変わらない。人ではないから悔い改めることができないのだ。だから、その道具は実際に使うものではなく、願いを叶える象徴としての存在と考え直さなくてはならない。人の手に持たせれば、①から⑩までのようなものとなってしまうだろうが、ありがたい効果だけが人ならぬ大黒様の手によって人々にもたらされるというわけだ。
 勿論、願いが叶うのは、袋にも秘密があるような気がするので、小槌と袋との関係も想像してみなくてはならないことになる。実に厄介なことだ。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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