朝鮮半島の北緯三十八度以南に住む人々は、日本の旭日旗のデザインと似たものを世界中から探し出して騒ぐので、世界のあちこちの人々が辟易とし始めている。
日本人にとっては、またかと思うようなことで、残念ながら嫌がらせにもなっていない。もっとひどい嫌がらせを受けているから、あまり感じないのだ。逆に、そんなことに血道を上げていて大丈夫なのだろうかと心配するほどだ。
報道されている情報からしか判断できないが、世界の人々の目には異常な行為としてしか映っていないことが読み取れる。これでは日本を貶めるつもりが、逆効果だ。そのあたりの計算ができていないところが、もし国民性であるとすれば、それは改善されにくいものであるだけに、今後も継続されることだろう。
これはもう自国の未来はどうでもよいと考えているような行為にしか見えない。もしかすると、自暴自棄の風潮が蔓延しているのだろうか。
いわれのない非難を受けた世界の人々が何を感じるのか、この行為が自分たちの国のイメージをどのように歪めてしまうのか。また、歪められた自分の国のイメージが一定の評価として築き上げられてしまうことの損害がどのようなものか。
これらのような相手側の変化や、行為の結果は、本来ならばすぐに想像できるので、実行しないのだが、それを敢えて実行するところまで愛国の精神だと思い込んでいる行為にのめり込み、その矛先を世界にまで向けてしまうという実態を、どのように自己評価しているのだろう。
まるで、日本を貶めようとして、逆に自分の国のイメージを悪くする行為が、愛国の精神に反するものだとは気づいていないかのように見える。
もし、それに気づいていれば異常な行為だが、もし気づいていないとすれば、それはなぜだろう。何が邪魔をして気づかせないのだろう。あるいは、何が邪魔をして気づかないのだろう。
勿論、理性的な人は、感情的な動機で他国を貶めるというような動機をよしとするような感性を持ち合わせていないはずなので、たとえば、「是を是とし、非は非とすべし」というような表面的な動機を、真の動機として自分に言い聞かせる心理を無意識にはたらせることにはなるだろう。
また、そうした自分の状況を客観視できるような人も、結局は自分の所属する団体である国を守る心理から、周囲と同調せざるを得ないという諦めを持つに至るしかないだろう。心中察するに余りある。
こうした逆効果の行為を、もし愛国心に基づく行為だと信じているとするならば、非常に残念なことだ。そして、他人事ながら心配なことだ。なぜなら、窮地の時の人気取りや、失政隠しのために、なりふり構わず無闇に進めてきた反日教育が、今裏目に出始めたことに気づけないからだ。
こうしたことは、「人を呪えば穴二つ」式に大きく自分に返ってくるものだ。忠告を批判と感じて身構え、行為の意味を省みることなく継続すれば、徐々に負のスパイラルが完成し、抜け出せなくなってしまうだろう。
行為が自分にとってどういう意味があるかを考えることは当然のことだが、行為が行為の対象やその周囲に至るものである以上、彼らにとってどういう意味があるかを考えることも、同様に当然のことだ。そこが決定的にかけているからこそ、自らの行為を省みることなく、負のスパイラルを自ら完成し、自らはまり込む原因なのだろう。
恐らく、反日行為は正義の行為だと信じているから、正義を省みること自体が、罪だと見做されるようになり、自縄自縛のまま落ちていく運命をたどり続ける、という理屈なのだろう。
しかし、信じるということは大事なことだという単純な理由で、無条件に反日の正当性を信じる人もいる。
また、さすがに無条件で信じるということは教養が許さないだろうから、提示された証拠を無条件に信じるというスタイルで、つまるところは無条件に反日の正当性を信じるという人もいる。
さらに、自ら研究して反日の正当性を信じる人もいるが、研究の前提や参考とする資料の解釈によって、反日ありきの研究となっていることに気づかない場合もある。
こうなると、それはお互い様だろうという発言が必ず出てきて、うやむやにする空気を出そうとする動きとなる。それはそれでよいが、次の段階が必要だ。うやむやにする空気に流されて誤魔化されてしまったり、諦めてしまったりするのではなく、お互いの証拠を出し合うきっかけとする段階だ。
互いの証拠をつきあわせて説明を尽くせば、一つの見解が出る。出なければ、保留にして、双方が研究し続けるという作業を繰り返せばよいだけだ。保留にしている間に、どちらが何をするかというところも全て記録して、研究材料としていけばよい。
現状のままでは、負のスパイラルに陥った者からの恨みしか生まれないだろう。そして、かわいそうなことに、その恨みは負のスパイラルを加速させていく原動力になっていく。
こんな皮肉な運命というものが果たして他にあるのだろうか。国民をこんな皮肉な運命に導いていく指導者の目的は一体全体どこにあるのだろう。疑問百出だ。
自国の未来を切り拓く結果を伴わない行為は、少なくとも愛国の行為ではなく、どちらかと言えば愛国の反対の行為だろう。
そもそも、国を愛する心というものは、自国が健やかに成長して発展していくことを祈る心だ。そこに他国の存在を持ち込むことは、愛国心を冒涜するものだろう。
ただし、特殊な愛国心、つまり、戦争用の愛国心には、他国の存在が必要だ。だが、戦争をしようというのではないから、戦争用の愛国心は棚に上げておかねばならない。それを持ち出して、他国に見せ、「さあ、どうだ」というのは、喧嘩を売っているのと同じだ。
それは、他国が喧嘩に応じるということはないだろうという想定の下に行われる、惨めな勇気に基づく行為で、ポーズだ。だが、このポーズを示すことに生き甲斐を感じるように仕立て上げられてきたのだから、反日教育というものの罪は重い。
反日教育は、あたかも、統率力の低い政治家が、敵対する他国があると国民に思い込ませ、そこから生まれた人工的な危機感によって、国内の失政の放置から目を背けさせたり、国をまとめたりしようとする手法の一つのようにしか見えない。
世界を見渡し、その歴史を確認すれば、同様のことがいろいろな形で行われていることがわかる。その部分の学習がなされていれば、自国が展開していることの意味合いが、相対的に把握できるのだが、知らせない自由というのか、教育的制限というのか、そうしたものが阻んで、自分の認識やら判断を狂わせていることは、計算に入れておかねばならないだろう。自国内で出版されたり、執筆されているものだけを資料とするのは危険だということだ。
日本は、その点で特殊な言語であるゆえに、逆に外の資料を求める姿勢を持っている人が多いように思うが、どうだろう。日本人の第二言語の習得率はかなり低いという自覚は高いが、だからといって、翻訳されていない他国の資料を積極的に流通させようという動きは起こらないものだ。これは、日本語の悲劇だ。使用者が少ない言語の国は、随分と大きなハンデを持ったものだ。
そうした意味では、両国とも、悲劇の言語かもしれない。理解し合うための追究力が、言語面で制限されているのだ。互いに、その制限されている不自由の隙を狙って、翻訳の仕方のマジックやら、情報量の意図的調整やら、なんでもできるという不幸もある。これはもう、根本的な悲劇だ。
さて、負のスパイラルから生まれた恨みから何が生まれたか。恐らく実態のないものを並べ上げて、成果とするしかないのだが、国民に必要なのは実態のある成果だ。それは、目に見えたり、数字で表現できるものに限られるという、随分と不自由なものだ。たとえば、それは、離島ゲットによる領土の拡大であるかもしれない。あるいは、お金かもしれない。
こうしたことに批判をすれば、恐らく、歴史を知らない者が何を言うか、不謹慎であるという理由で批判し、愛国心に欠けるという判断を下すのだろう。その歴史をどのようにして知ったのかとか、その根拠が議論されることのないように、大声で批判し続けるという手口で、白を黒に変える作業に血道を上げるしか、方法が残されてないからだ。
しかし、愛国心というのは、そのような金科玉条のごとき使われ方をするときは、およそ碌でもないことになるときに限られているのではないかと思う。愛国心を持ち出し、金科玉条の如く振りかざして、国民を我慢させたり、同じ行動をとらせようとするのは、国と国との対立を生み出して、戦争の原動力を国民から吸い上げようとするときだ。もしくは、国が滅びそうなときの、最後の希望として合い言葉に使おうとするときだ。
両方とも、碌でもないタイミングなので、愛国心というキーワードと使用頻度の変化は、歴史の流れが碌でもない方向へ変わるときのサインとなりそうだ。
もしかすると、とんでもない状況なので、そうした所謂「愛国心」と、本当の「愛国心」との区別がつきにくくなっている可能性もあるので、その混同の具合も分析すると、その変化のあり方を、将来の変化を予見する資料の一つとすることができるかもしれない。
「憂国の人」と「愛国の人」と「所謂愛国の人」と、いろいろな人がいるだろうと思う。「憂国の人」や「愛国の人」は、事実をもとに論理的に考え、国の将来を考え、客観的に分析してから今取るべき行動をとる人であるかもしれない。一方、「所謂愛国の人」は、風潮をもとに感情的に思いを募らせ、今したい行動をとるひとであるかもしれない。日本ではどうなのだろう。
とにもかくにも、「所謂愛国の人」は、愛国心を具体的な行動で示すことを優先とし、それが自国の評判を落とすことになるのかどうなのかは意に介さないようだ。それは本末転倒なのだが、ある意味で純粋な行為であり、その一点では評価に値するものかもしれない。実は、かの国にとっては、自重してもらいたくとも建前上は言えないので、痛し痒しといったところではないだろうかと想像する。
このままでは、大統領の支持率を上げること以外に何のメリットもなさそうな反日姿勢が裏目裏目に出ていくことになりはしないだろうかと、逆にこちらが心配する。
それは、彼らの国の不利益が、日本の不利益につながることもあるからだ。双方の不利益は、第三者の利益につながるものだ。「漁夫の利」というやつだ。この「漁夫の利」作戦は誰が立てているのだろう。それは、僕たちがこれまで意識しなかった国である可能性もあるだろう。
仮にそのような「漁夫の利」作戦があるとして、またこれもあるとすればだが、日韓分断作戦の一環であれば、それは実に順調に進められているように見える。作戦である以上、既に分断傾向が出た後の、次の段階に移る準備も進める段取りは、発動の指令が出る前にとっくになされているはずだ。それに対する日本の作戦も立てられているはずなのだが、どうだろう。
ちなみに、隣人を愛する教育ではなく、全く逆の隣人を非難する教育を授けられた人々に対し、その教育、すなわち反日教育を施した政府は、そのことによって被る不利益の責任をどのように取るのだろうか。どのようにも取れはしないし、取ろうともしないし、そもそも不利益を被ったのが、自分たちに施された反日教育のせいだと気づく人も、余程の学者でない限りはいないであろうから、これは無用の心配となるだろう。
ところで、世界情勢、経済情勢、そうした諸々の国家間の情勢は、情勢ゆえに変化していくものだ。その変化するものに対して、反日教育は固定的なものだから融通が利かない。そこに悲劇の元がある。
そのような決して融通を利かせられないものによって、国民の結束を図ったり、失政の責任の追及の矛先をそらせたりするのは、諸情勢を踏まえて生き抜いていかねば立ちゆかぬという本質を持って進化していくのが国家というものであるゆえに、そうした柔軟性に欠けるものを政策の柱とせざるを得ない状況を作ってしまったことを意味するので、百歩譲ったとしても賢いやり方とは言えない。
たとえ、「背に腹はかえられない」という、苦しい状況がそのような選択をとらせたにしても、引き返すことのできない道を選んでしまったということも含め、製作の根底にある矛盾の構造が、永遠に迷走する国家の未来を決定づけてしまったからだ。
通常の国ならば、結束を固めながら、諸情勢の変化によって生じる諸々の現実問題を解決する手段を見つける道を探ることに専念する。そうしなければ、次々と新たな問題が噴出し続け、しかかも手際よく処理して、次の段階に臨めないからだ。
その道を自らふさぐことは、何も解決できない国となることを意味し、それは国として機能するどころか、国が処理すべき問題を助長しながら、新しい世代に背負わせていくという、罪の重い組織体に成り下がることを意味する。これも悲劇だ。
その結果、噴出する問題を他国のせいにしたり、指導者のせいにしたりしなければ、収拾がつかなくなる。内部の調和、周辺との調和、全体との調和というものを目指さないことによって生じた混乱や問題を、一応は収拾させようとする態をとるための敵作りという、「万事休す」の国がよく使う、昔からある手法だ。
実際には何も解決していくわけではないから、状況は悪化するばかりとなる。しかし、敵を作って非難したり、恨んだりすることで、感情的に一時的ではあるが、他の鬱憤とともに発散させてしまうという、オマケの効果までが期待されるようになる。
こうなると、違法薬物のようなものだ。禁じ手なのだが、複数世代にまたがる、国レベルの集団でそうなるから、諸外国の人々から見れば、奇妙な行為であっても、回り回って結局は自国を貶める行為であっても、どれだけ的外れで無礼な行為であっても、国が政策の柱とした反日という大義名分を看板に背負っているという気持ちが、教育の成果によって上回ってしまう。これは悲劇だ。
何よりも、そのために世界で展開させている旭日旗を連想させるデザイン探しと抗議行動は、直接国が公認しているわけではないが、忖度によって、公認されたものと見做されていってしまう。黙認しているのだから、公認のものだという意識が生じても、不適当ではあるが、不思議ではない。
なぜ、集団でそうなるかは、単なる群集心理で説明がつけば救われる部分もあるのかもしれないが、そうではない香りがしないでもない。
他国のことだから、どれもあくまで想像だが、こんなことでは、活動の結果を受けて、「なぜ、こんな反応しか得られないのか」というような、虚しさが伴う変なストレスに、常に晒されているのではなかろうか。そして、ことが展開していかないことによって、訳もなく絶望感に襲われるということはないのだろうか。
訳もなく絶望感に襲われるのは、自分の頭で事実を基づいて思考するという習慣を教育によって訓練されていない場合や、指導によって制限されている場合が考えられる。
さて、教え込まれたことの全てを一度疑ってみるところから始めるという姿勢によって、さらに様々ものが見えてくるものだ。そして、絶望とは無縁の世界が広がってくるものだ。
自分の頭で考えて、現実との辻褄が合わねば、事実の再確認や、矛盾点の掘り起こしや、考え方の再検討などを行い、目に見える世界を広げ、目に見えない世界に光を当てる。
だから、様々なものが見えてくる。これは面倒な作業かもしれないが、本当のところは、どの国であっても、そうでもしない限りは見えてきそうにないように思う。
こうした作業の道筋を断ち切られた格好になっていることに、自ら気づくには、何らかのインパクトが必要だろう。しかし、気づかない間は、訳もなく絶望感に襲われることになるだろう。
だが、絶望感に襲われるということは、気づく素質が十分にあるということでもあるはずだ。僕の感覚では、そうした人の目は何か霞がかかっているように見える。
最も悲劇的なのは、こうした状況に陥っているという自覚がなく、なぜか意気揚々としている状況だ。
それは、沈痛のあまり鬱になってしまうよりはよいかもしれない。そして、意気揚々としていること自体もよいことのはずだ。
しかしながら、何かしら一途に意気揚々としていて、鼻息も荒いというのでは、危険な香りを否定しきれない。僕の感覚では、そうした人の目は何も考えていない目をしている。よく言えば、若い目をしている。だが、そのように、いつもただ美しく爛々と輝いている目の持ち主といったらどうであろうか。
これを最も悲劇的な目だと感じるのは、もしかすると自分がかつてそうした目を持っていた自覚があるからかもしれない。
次に言えることは、一度反日を訴えたなら、政権が変わって、どの国も力を合わせて頑張ろうという真の教育に戻さない限り、その方向は変更されないだろう。今後、たとえ教育が元に戻ったとしても、そこから三世代ほど経ないことには、効果も現れないように思う。それなりの覚悟があるということなのだろう。
では、何がそうした覚悟をさせたかというところに、問題の本質があるのかもしれない。
これからも、反日という蜜の味がする禁じ手を使い続けるしかない運命にある。そして、その一環として、旭日旗を非難し続けるだろう。そして、世界中の旭日旗を連想させるデザインを探し出して指摘し、旭日旗を連想するから不愉快だと指摘して抗議活動を行い、そのデザインが施されたとされてしまったものを撤去させることに全力を傾けていくだろう。
なぜか、そうしたところに、何か重要な意義を感じるからだろう。だが、その代償は背負いきれぬほどに大きなものになってしまう。そのように感じつつも止められない。
これはもはや主義主張を通り越したところまでいってしまったように思う。また、自分の不快感を催す物をなぜ据えておくのかという感覚、そうした不当な我が儘をも越えてしまったように思う。あるのは、当然としての行動様式だ。言わば、反日文化だ。取り敢えずの反日教育だったのが、行動様式にまで進展し、その裏ではたらく思考のパターンまで、規定するものになってしまったおそれがある。これは教育の負の成果で悲劇以外の何物でもなかろう。
日本も、これは是非「他山の石」としなくてはならないだろう。まず、学校の教科書の記述の変化を追い、その意図を探ることが大事だろう。ただ、反日は勿論のこと、反韓、反中、反米というものは、見つからないだろう。見つかるのは、何を記述するのを止めたか、あるいは、何を記述しないままにしているかというものだ。
そして、教室で一つの方向に流れた場合、指導者が逆の立場を設定するなどして、いくつかの異なる方向が生まれるように仕向け、生徒の見識の幅をまずは広げることが大事になるだろう。「他山の石」というものは、非常にありがたいものだと思う。
反日教育は、一つの方向しか生徒に示さず、それ以外を許さないものであったと想像する。これは相当の悲劇だ。
世界で個々の自国民が展開させている国家的事業的な雰囲気に見える行為が、世界の人々の感覚からすれば、歪んだ愛国心による奇行だとしか見られていないのも、悲劇だ。良かれと思ってしていることが、どこの世界でもまともな行為として評価されることがないからだ。
こうなると、本来ならば、自国以外では通用しない感覚だと感じないわけにはいかないだろう。だが、そうはならない。このままだと、世界の人々の感覚のほうがおかしいと思い始める可能性が出てくる。なぜ、旭日旗が認められているのだと。
このように、なぜ認められているのかに気づかないのも、そして、反日教育による思考停止のブロックが自分にかかっているということに気づかないのも、悲劇だ。
長年の教育によるものなので、改善の道のりは遠い。しかし、教育の結果であるのなら、お抱え学者や忖度学者ではない、真理の追究をめざす本物の学者が地道に研究をし、その成果を弾圧に負けずに示していくということと、国民が教養を高めて洞察力をつけることが、かの国の問題を解決するための基本的な環境作りとなっていくのではないだろうか。それは実現の可能性が、少なくともゼロではないということを意味している。
どの国でも、国家権力や周囲の同調圧力に屈しない、真の学者は、光のような存在として、これまで照らされていなかったものを明るく示していくだろう。
それでは間尺に合わないというのならば、宗教の力を借りるという手も考えなくてはならないかもしれない。かの国では、仏教寺院を破壊した実績をもつほどに、キリスト教の勢いや多くの信者があると聞いたことがある。国内で最も多くの信者を獲得しているのがキリスト教というわけだ。
キリスト教がどのようなものかは、聖書を何度も読み込んだわけでもないので漠然としている。また、その歴史についても、布教活動が熱心で強烈だということと、大きくカトリックとプロテスタントに分かれているということぐらいの知識で、情けないことこの上ない。
この大勢いるというキリスト教の指導者、あるいはキリスト教の考え方自体でいくと、反日行為はどのように評価されているのだろうか。
宗教は国という枠組を超える存在で、教えそのものだ。国は、純粋な教育もするが、何かのために特殊な教育をすることがある。しかし、宗教は、基本的に何かのために何かの教育をするということはない。教えのための教育を純粋にするだけだ。それは打算的でない真の教育だ。
では、日本や日本が使っている旗について、かの国のキリスト教の指導者は、どのような見解を持っているのだろうか。そして、海外へ派遣されている、かの国出身の宣教師たちは、派遣された国々で、日本や日本が使っている旗について、どのようなことを伝えているのだろうか。それも少し知りたいところだ。
そもそも、反日にしても反米にしても反韓にしても、不毛の思想だ。それどころか負の財産しか生まないのは、火を見るよりも明らかだ。現実がそれを証明している。
それを理解しない間は、自ら悲劇のルツボにはまり続け、ゆえに恨み続け、ゆえに不幸であり続け、ゆえに幸福を求め続けるのだが、解決の糸口は別の方向にあるので永遠に見つけられないという状況が続くのだろう。
今は、かの国とかかわると碌なことがないという感覚を日本人が持ってしまった。そうなるための嫌がらせを敢えて行ってきたのだから、かの国の計算どおりに進んではいる。
しかし、領土問題(これはいろいろな証拠が出てきているようだが、かの国が実効支配している状況が続いている)、従軍慰安婦の問題(これは皆喜んで自分から来て高い給料をもらっていたと当時の現場の人から聞いたが、一部かの国の人に騙された人がいたのかもしれない。)や徴用工問題(これについての聞き取りはできないが、これも給料をきちんともらっていたとは聞く)、レーダー照射問題(これは完全にかの国の言い分がおかしく、何をしていたのかを隠そうとするための対応にしか見えない)などを通して、ほとんどの日本は反韓の機運が高まる前段階であろうところの離韓を教訓とし始めている。
これは、かの国が自国で行ってきた若い人に対する一方的な反日教育とは違い、日本人がかの国の動きから自ら学んだ教訓だ。だから、これを消し去るのは、反日教育の影響を消し去るよりも、一層困難なものとなるだろう。
幸いにして、教養に支えられた分別のある多くの日本人は、今のところ反韓にまでは至っていないように見える。
影で動いている勢力は、日韓をいろいろなレベルで離断するためには、もう一手も二手も必要と考えていることだろう。
事をなすには正攻法だけでは不足だ。正攻法に加えて、禁じ手寸前のプラスアルファの手がいる。それ以上も必要かもしれない。そのような考えでやってくる外力がたくさんあるということを、ここ数年、実地で思い知らされた感じがする。それまで、自分がのんきであっただけなのだが。
備えよ常に、何事も。面倒なことになりやすぜ。こうなると、これまで日の当たらなかった人が、急に活躍するようになってくる。人口が適度に多いということは便利なものだ。これら外力に潰されないためには、その人口を保つのが第一という風潮に絶対なってくるはずだ。
そうなると、国の生き残りがかかっているから、セクハラも何もなく、「産めよ増やせよ」的な路線が必ず敷かれるだろう。それは、これから生まれる日本人が、今生きている日本人のしわ寄せをくう形になるということだ。
少し先の将来かもしれないが、それを拒めば、もうどこかの国に吸収されるしか未来はないように感じる。あるいは、国という概念を超えた何かの存在として生き延びるということになるかだ。いずれにしても、今の日本人の血は途絶えるという結果になるのだろうと思う。
どこにいるの?
カテゴリー
フォロー中のブログ
あと幾日
謎の日2018年12月12日謎の日がきました。メタ情報
-
最近の投稿
アーカイブ
- 2019年12月
- 2019年11月
- 2019年10月
- 2019年9月
- 2019年8月
- 2019年7月
- 2019年6月
- 2019年5月
- 2019年4月
- 2019年3月
- 2019年2月
- 2019年1月
- 2018年12月
- 2018年11月
- 2018年10月
- 2018年9月
- 2018年8月
- 2018年7月
- 2018年6月
- 2018年5月
- 2018年4月
- 2018年3月
- 2018年2月
- 2018年1月
- 2017年12月
- 2017年11月
- 2017年10月
- 2017年9月
- 2017年8月
- 2017年7月
- 2017年6月
- 2017年5月
- 2017年4月
- 2017年3月
- 2017年2月
- 2017年1月
- 2015年8月
- 2014年12月
- 2014年11月
- 2014年10月
- 2014年9月
- 2014年8月
- 2014年7月
- 2014年4月
- 2014年3月
- 2014年2月
- 2014年1月
- 2013年12月
- 2013年11月
- 2013年10月
- 2013年9月
- 2013年8月
- 2013年7月
- 2013年6月
- 2013年5月
- 2013年4月
- 2013年3月
- 2013年2月
- 2013年1月
- 2012年12月
- 2012年11月
- 2012年10月
- 2012年9月
- 2012年8月
- 2012年7月
- 2012年6月
- 2012年5月
- 2012年4月
- 2012年3月
- 2012年2月
- 2011年12月
- 2011年11月
- 2011年10月
- 2011年9月
- 2011年8月
- 2011年7月
- 2011年6月
- 2011年5月
- 2011年4月
- 2011年3月
- 2011年2月
- 2011年1月
- 2010年12月
- 2010年11月
- 2010年10月
- 2010年8月
- 2010年7月
- 2010年6月
- 2010年5月
- 2010年4月
- 2010年3月
- 2010年2月
- 2010年1月
- 2009年12月
- 2009年11月
- 2009年10月
- 2009年9月
- 2009年8月
- 2009年7月
- 2009年6月
- 2009年5月
- 2009年4月
- 2009年3月
- 2009年2月
- 2009年1月
- 2008年12月
- 2008年11月
- 2008年10月
- 2008年9月
- 2008年8月
- 2008年7月
- 2008年6月
- 2008年5月
- 2008年4月
- 2008年3月
- 2008年2月
- 2008年1月
- 2007年12月
- 2007年11月
- 2007年10月
- 2007年9月
- 2007年8月
- 2007年7月
- 2007年6月
- 2007年5月
- 2007年4月
- 2007年3月
- 2007年2月
- 2007年1月
- 2006年12月
- 2006年11月
- 2006年10月
- 2006年9月
- 2006年8月
- 2006年7月
- 2006年6月
- 2006年5月
- 2006年4月
- 2006年3月
- 2006年2月
- 2006年1月
- 2005年12月
- 2005年11月
- 2005年10月
- 2005年9月
- 2005年8月
- 2005年7月
- 2005年6月
- 2005年5月
- 2005年4月
- 2005年3月
- 2005年2月
- 2005年1月
- 2004年12月
- 2004年11月
- 2004年9月