日々雑感384「反日は旭日旗では高まらぬ」

 反日気運を世界で高める目的であったか、告げ口外交を盛んにした国がある。今は、旭日旗を連想させるデザインを探して、世界に訴えかけようとしている。しかし、逆効果だった。長い目で見て、自国を貶める結果になっていくしかないものだろう。
 最初は鵜呑みにした世界の人々も、もうどういうことなのかを理解し始めているように思われる。ロビー活動がお得意だが、その効果は確実に逆転していく。人は考える生き物だからだ。
 では、なぜ、反日が必要なのか。その裏と表の理由のうち、おそらく若い人々の一部は、反日教育のため、表の理由しかまだ知らない可能性がある。そのため、ピント外れの反日になりかねない。たとえ、それが世界からの笑いと顰蹙を買っていることに気づいていてもやめられないようだ。
 つまり、反日のための反日は弊害しかなく、国内結束のための反日は国内のストレス解消と結束力を高めるという一定の成果を上げつつも、国際社会では、その幼稚な国民操作の手法を見下されてしまうという弊害があるのを、冷静に計算できないような脳の反応パターンが形成されてしまっているという状況にあるように見える。これはどういう目的で仕組まれたものであろうか。
 国民の不満を無くすのが政治の仕事だが、不満に思わないように問題を解決するのが本当の政治の仕事だ。それを不満の矛先を別のところへ向けることによって表面的に問題が解消したような状態と似た状態をあらわすというのは偽物の政治だ。ただ、多くの政治はそこから出発して、次第に高みにのぼっていったのだと思う。
 不思議なことに、なぜか二十一世紀がスタートラインというわけだ。そこはまだ理解できないところだ。建国の経緯にその謎を解く鍵があると思う。建国がスタートなのだが、建国に至るまでのステップが重要だからだ。それは、建国に限ったことではないだろう。
 全てにおいてそうだ。ある準備が如何になされたか、そのためにどれだけの知恵を絞ったか、どれだけの苦労を自ら背負ったかが、その後の歩みの全てにかかわっていくのだ。
 国というものも、今現在、目指すべき高みが見えているかどうかということと、そこへ到達するための自己努力をしているかどうかというところが問題なのだろうと思う。最初から完成品などないのだから。
 しかし、志の程度が低かったり、自己欺瞞が多かったりすると、国の完成度が低くなってしまうおそれがある。それは一個人の人生でも同じことだ。
 ストレスの解消のため、原因となる問題点を正しく解決すればよいのに、その原因が把握できなかったり、正しく解決する能力が無かったりすると、ついストレスの解消のため、ストレス自体を発散させてしまう。これでは、問題が解決を棚上げにしていることになるから、志が高い政治だとは言えないだろう。
 もし、解消と解決の区別がついていないようならば、重傷だ。だが、さすがに国と名付けられた集団が、そのような状態にあるとは到底思われない。
 ただ、個人のレベルではしっかりできることが、大集団になると容易にはできないことがたくさんある。集団における高レベル化と低レベル化だ。低レベル化にはまっているとすると、集団的不幸に陥り、黒い風の吹く国になってしまうだろう。恐ろしいことだ。
 ストレス発散は、一時的なもので、根本的な解決をしているわけではないから、ごまかしだ。ごまかしてばかりで、問題の解決を先送りにしていると、次第に解決のタイミングや協力を得られなくなり、最後は自己催眠にかかったように、埓のあかないあらぬ方向へ走り、落ちるべきところへ落ちていくしかない。これは、自己欺瞞にまみれた国の末路だ。
 そうした悪夢のパターンに自らはまっていることに気づいている人は多かろうが、若い人はまだ気づけない可能性が高い。生きている時間が短いので、比較すべきさまざまな記憶が頭に十分に蓄積されていないからだ。したがって、ごまかしの政治であっても、それしか知らないので、政治のあり方や政治の結果を、当たり前のことだと思っていたり、仕方ないと諦めたりしているのかもしれない。
 とにもかくにも、どの国であっても、他国に対する必要以上に激しく一方的な何かの動きが発現したら、それは自国に生じている問題点のうちの何か、あるいは全てを隠蔽して誤魔化すものであると疑う目も持たねばならないだろう。それはどこの誰もが昔から国民としてわきまえている常識だろう。
 さて、旭日旗に似たものを無理やり見つけて探して騒ぐというのは、自作自演の騒ぎということになろう。何か見つけるノルマでもあるかのような探しぶりではないかと錯覚させるような執拗ぶりで、お国柄をよく表している。
 その立派なエネルギーをどこに向けたらよいかを考えれば、生産性も、幸福度も向上するのだが、考える前に反応する感じがするので、隣国の一国民としては大変残念だ。近くの存在から学ぶべきものは学ぶというのが理想だが、それが難しいため、独自に発展すべく身を削らねばならないのが日本だろう。この国がガラパゴス化するのは、そうした要素もあるからだと、つい想像してしまう。
 五十年以上も前に、祖父母や父母のそれぞれ異なる体験から聞いたお国柄は、言葉にするには失礼に過ぎるので発言しにくい。ただ、事例は少なくても、強烈な記憶であるということから、隣国のお国柄をよく表していると判断するのは好ましくないはずだ。
 また、重ねていうが、自分は現地調査をしたわけでもなく、この国で彼らの直接の被害に遭っていないということもあり、現時点では、思い込みというレベルにしておくのがよいだろう。年齢的に、当時の人たちは他界して、新しい人々で経営されている国になっているだろうからだ。
 随分困らされたという話の祖父母や父母だが、とにかくよかれと思ってしたことも全て悪く受け取って因縁をつけてくるらしい。そして、払うべきお金を払わないうえに、あらぬ事を連想して執拗に意地悪をしてくるというのは、驚くほど今の隣国の姿勢と一致している。印象がそのままなのだ。もしかすると個人的なことではなく、お国柄だとして認定したとしても、強ち間違いではないのではないかと、今のところは感じられてしまう。
 勿論、調査機関に調査を依頼したわけでもなく、資料をもらったわけでもない。自分が直接体験したことでもないので、今のところは思い込みに過ぎないと思い込んでいたい。何しろお隣の国なのだから。そう信じたいところなのだ。だが、その思い込みとか、信じたいというところがポイントだ。
 そこから先をどうするかということだ。思い込みか、思い込まされか、どうなのかを検証する国や人なのか、それとも、思い込みや、思い込まされに任せ、激情しながらわめき立てる国や人なのか、その分岐点になる重要なところだ。信じたいというのがそれだ。
 もしかすると、大昔、命がけでこんな災害列島へ避難してきたのは、後者のタイプの人による被害を被らないため、そして新たな道を新天地で切り拓いていく、飽くなきパイオニアたらんとしたためなのかと想像してしまう。難破して死ぬことよりも、その道にかけた先祖の心意気を想像すると、涙が出そうだ。そうした分岐点を乗り越えたためか、両国は、地理的には勿論のこと、精神的なあり方までもかけ離れた存在になってしまったような気がする。どうにも関わりを持ちたくなかったというか。潔かったというか。この島暮らしを選んだのだ。
 だから、愛国心は高い。国を駄目にする判断を次々に下してきた与党や、更に拍車をかけて駄目にしていこうとする野党。そうして国を駄目にすることが歴史的になされてきて、ちょうど程よくなるぐらいの愛国心の高さだと思う。もし、これまで政治が腐敗していなかったら、溢れる愛国心のため、逆に問題が起こったかもしれない。
 始末の悪いことに、その愛国心は政府とかの圧力や、忖度でできあがったものではないように思う。だから、政治的な調整ができない性質のものではないかと直感する。根拠はない。そのように感じるのだ。
 さて、旭日旗という他の国の旗についてとやかく言うのは、恥ずかしいことなのだが、それは恥ずかしいとは思わないようだ。自立していない国であるならば理解できる。他国に何かもの申すことで、自国の存在価値や、まとまりをつくるしか手はないからだ。
 したがって、普通の国の国民ならば、他国の国の旗についてとやかくは言わない。恥ずかしいからだ。恥ずかしいだけでなく、国としてのレベルを疑われ、信用を無くし、最終的には経済的な影響が出るところまでいくことは、一般人でも想像がつくからだ。
 しかし、恥ずかしげもなく、旭日旗に似たデザインを探して非難するという幼稚な行為をするという事実がある。恐らく愛国心ゆえにと考えてのことなのだろう。本気でそのような大義名分を感じているからできることなのだろう。
 ただ、愛国心というのは、少なくとも他国の使用している旗と似たデザインを全く別のものの中に見出して騒ぎたてることではない。また、不買運動をしたり、ものを壊したりと、感情的になることでもない。これを個人に当てはめれば、思春期になるかならないかぐらいの十代前半の症状だろう。
 諸外国のまっとうな愛国心の教育を受けている人々から見れば、信じられない行為だろう。どの国でも、愛国の行為はもっと崇高な行為や、家族を愛する心の延長線上にある日常的な微笑ましい行為で表現されるものだからだ。
 さて、今回の問題は、とにかく赤と白の放射状のデザインに難があるのではなく、そこから日本の旭日旗を連想する人がいるから問題であるようだ。今の旭日旗は自衛艦旗なのだから問題ないのだが、そこからの連想が問題となっている。
 連想の結果によって、気分が悪くなるのなら、連想しなければよいのだが、今は似たデザインを探しているのだから、自ら連想しようとしているわけだ。矛盾しているのだが、矛盾していることは、なぜかそれほど問題にはしないらしい。
 連想の結果として辿り着くのは、個人の感性の問題だから、「それはそれ、これはこれ」と、見たままを受け入れる素直な感性を目指してもらうしかない。
 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という古い川柳がある。枯れ尾花の視覚イメージから連想して幽霊を認識したか、枯れ尾花の触覚イメージから連想して幽霊を認識したか、それはわからないが、感覚からの認識がずれるのは、偏見のせいだ。こんな夜には幽霊が出るという、夜と幽霊に対する偏見が最初にあり、そこに視覚イメージか、触覚イメージが加わって、変な認識が生まれるというパターンだ。
 放射状のデザインだと見たままに認識すればよいところを、偏見によって旭日旗を連想し、自ら気分が悪くなるというのと同じだ。その偏見は、諸外国のいろいろなデザインに対する偏見となって、それを撤去するように迫るという理不尽さを生んでいる。日本人は慣れているから何でもないが、諸外国は呆然としてしまうだろう。
 そして、諸外国の関心が高まり、隣国の理不尽さを理解し始める。今は、その途中だろう。諸外国で、悪口外交を前の大統領が展開したあたりから、それはスタートしているように感じる。それは隣国の国益つながるものではない。国益につながらない行為は、愛国の行為とは言えないという単純な理屈も通らないような国では、国同士の対等のつきあいを国際社会で展開しにくくなるだろうと思う。
 仮に気分が悪くなる連想を発生させる教育をしているとするならば、それを止めるか改善すればよい。気分が悪くなる連想を促すような教育がなされていないのならば、純粋に個人の感性の問題だから、それを政治的な問題に敢えて結びつけることの目的が問われなくてはならないだろう。
 誰かが旭日旗のデザインに似ていると騒ぎ始めてから、自分も気づいて気分が悪くなく日本を連想する人も多いと思うのだ。その特定の連想を宣伝し、多くの者と気分の悪さを共有しようとする行為は、その連想を個人の感性の問題から、とある目的のために敢えて進展させて、社会問題化しようとする行為にほかならないだろう。その結果、個人の感性の問題であった内なる問題が、政治問題化の道を歩み始めることになる。
 個人の感性の問題が、とある目的のために、無理やり政治問題化させられてしまったという形だ。そのために、さまざまな問題が派生して噴出することになる。それは自爆的な悲劇だ。
 そうした精神的傾向が国家レベルで形成されているとしたら、それは大変な不幸だと思う。それはよその国にその怒りをぶつけたくなる気持ちは理解されるべきものではなく、個人個人がどうしてそうした感情を自分が持つのかを内省するところから、個人内で解決をしなくてはならないだろう。
 また、それが国家レベルで形成されているということならば、国の政策や歴史に関係があることなので、国の政策によって解決することかもしれない。それはどの国でもそうだが、自己責任で賢く解決すべく、知恵を絞るしかないだろう。
 何人かの大統領によって反日教育を強化しているが、それは自国を崩壊させないためであるように見える。
 つまり、手段であったのだ。なんともみっともなく、悲しい手段であることか。そんな手段に頼らざるを得ない状況に国がおかれていることに少し同情する日本人もいたかもしれないが、もういないだろう。その手段が目的化してきたために、そのコントロールさえできていないように見えるからだ。もうそれは悲劇なのだが、喜劇に近いものも見え始めてはいないだろうか。
 取り敢えず、今回の旭日旗に関連する隣国人の悲劇のパターンとして、例えば、以下のようなものが想像される。

① 意図的に、あるいは結果として政治問題化を目指した形を取ることにしてしまったために、不快に思わなくてもすんでいた無関心なものまで、指摘された以上は一律に不快に思わざるを得なくなるという悲劇

② 意図的に、あるいは結果として政治問題化を目指した形を取ることにしてしまったために、結局は決着がうまくつけられなくなって、不快感が継続してしまうという悲劇

③ 意図的に、あるいは結果として政治問題化を目指した形を取ることにしてしまったために、国民としての義務を果たすべく、不快感の元を自ら増やし続け、不快感を高めていくことになってしまうという悲劇

④ 意図的に、あるいは結果として政治問題化を目指した形を取ることにしてしまったために、個人内の健全で常識的な感情の解消プロセスの代わりに用いられた社会的な行動という外に向けるタイプの解消方法が、感情の解消プロセスに対しては不適切にはたらく可能性を持ってしまうという悲劇

⑤ 意図的に、あるいは結果として政治問題化を目指した形を取ることにしてしまったために、不快感を解消するための行動が、命令や批判という外力によって抑制されざるを得ない状況に陥る可能性を高めてしまうという悲劇

⑥ 意図的に、あるいは結果として政治問題化を目指した形を取ることにしてしまったために、仮に個人的に不快感が解消されたとしても、それを表明して活動から抜け出したり、その活動を振り返って客観的立場で評論したりすることができないという悲劇
 
⑦ 意図的に、あるいは結果として政治問題化を目指した形を取ることにしてしまったために、個人の行為が国を代表しての行為という性格を持たされることになり、その結果として自己評価が高まるので、ますます行為の歯止めがかからなくなって、越えてはならぬ一線を越え、行き着くところまで行ってしまう可能性が高まるという悲劇

⑧ 意図的に、あるいは結果として政治問題化を目指した形を取ることにしてしまったために、大義名分を得た形となり、往々にしてなりふり構わぬ態度をつくってしまいがちになるという悲劇

 他にもまだまだ悲劇の形はあると思う。最も大きな悲劇は、全て自爆悲劇になっていくという悲劇だろう。
 職場や学級の中で、「あの人はこんなことしてたんだよ。」「あの色の服を見るとあの人を思い出してしまう。不愉快だから皆もあの色の服を着ないでね。」というようなことを言い続けている同僚や級友がいたら、表面的にどのような対応をするだろう。そして、内心どのように思うだろう。彼がいないときに皆で何を話し合うだろう。そして、今後「あの人」にどう接してあげるだろう。
 いろいろなデザインから旭日旗を連想する能力があれば、このように連想することもできると思うのに、それができないという限定的連想力の悲劇も加えたらよさそうだ。
 この二つを加えれば、全部で十種類の悲劇となる。これらから派生していく悲劇を数えるのもたいへんだ。本来なら、隣の席の同僚やら学友やらが、「あのね」と声をかけて諭し、悲劇から救うところだ。しかし、残念ながら、そのポジションにいる隣の席の人を「あの人」といって非難の対象として憚らないのだから、もう真剣に救う人もいない。それもまた深刻な悲劇だろう。いったいどうするのだろうか。隣国ながら心配だ。
 また、自爆悲劇の自覚があるかないかだが、その自覚があってもなくても、どちらにしてもそれなりの悲劇が待ち受けている。この二つを加えれば、全部で十二種類の悲劇を数えることができる。
 さて、旭日旗が連想されるもので、まだ標的にされていないものはなんだろう。
 まず、エビが頭に思い浮かぶ。茹でられたら赤と白の縞模様だ。腰を曲げたエビらしい姿であれば、まさに放射状の赤白縞模様だ。
 もう韓国はエビに遺伝子操作を施し、赤と白にならないようにしなくてはならなくなってくる。赤と白でなくても旭日旗を連想するそうだから、エビの腰が曲がらないようにコルセットを一匹一匹はめるか、串刺しにして直線状にしなくてはならない。もしかすると、腰が真っ直ぐのエビを遺伝子操作で作り上げることができるかもしれないが、恐らく食す気分にはなれない。
 簡単な処理としては、エビをミンチにするか衣をつけてフライにしてしまう方法がある。むき身のエビを茹でたりするのを禁止すればよい。ご苦労なことだ。
 変な連想をするものだと笑ってはいけない。勿論、日本人も連想はする。例えば、古い話になるけれど、徳川家の三つ葉葵のご紋が、胡瓜を輪切りにしたときの模様と似ているということから、輪切りを食べることは、徳川家を食うということで、謀反の意ありと決めつけられかねないというものだ。飛躍した連想もあったものだが、事実のようだ。
 だが、社会問題にして自爆する性質のものに仕立て上げたものではなく、あくまでも個人の感性の問題として、胡瓜の輪切りを避けたというだけのことだ。社会問題にしたら、藩の取りつぶしという、国を滅ぼす行為にまでを、徳川家に選択させる事変に発展していった可能性はある。「事実は小説より奇なり」だ。何が起こるかわからない。だが、知恵あるものは道を踏み外さないものだ。
 しかも、こうした江戸時代からいろいろな面で既に日本人は脱皮している。内容的にも比較すべき性質のものはなく、連想というただ一点において共通しているというだけの話だ。
 ちなみに、隣国の子供がお絵かきするとき、太陽はどのように描写するのだろう。色は赤だったり、黄色だったりするのだろうが、旭日旗を連想する韓国式の感性だと色はあまり関係ないようだ。要は、放射状の模様が不愉快なようだから、太陽を丸く何色かを使って描くだけなのだろう。周囲の放射状の線は、指導によって消されるに違いないからだ。だが、日本の漫画の影響もあるから、放射状の線を書いている可能性はあるだろう。どうしているのだろうか。
 そうなると、映画などでワープ航法をする宇宙船は、放射状の光の中を驀進するから、とても許せないはずだ。線がいっぱいあるからだ。ワープの船外描写は、ぼかしの処理が施されているのだろうか、まさかそうではあるまい。要するに、都合の良いものだけをターゲットに攻撃を加えるという姑息なやり方で、徹底的ではないようだ。
 やるからにはやる、という気概に欠けるわけではないのだろうが、誰かが何かに旭日旗イメージを見出して叩くのを待ち、その結果を見て動くという、そんな尻馬に乗るタイプが多いというわけでもないだろうに。
 日常生活にも放射状のものはたくさんある。それはどうするのだろう。スパゲッティーを茹でるとき、くっつかないように鍋の中央にパスタの束を立てて放射状にばらけさせて入れるということはしないのだろうか。それは「旭日旗」を焼きはしないものの、茹でてしまうのだから、隣国の反日行為の意にかなったものではないのだろうか。
 また、爪のひっかき傷などどうだろう。ひっかいたところが赤くなる。手を握りしめながらひっかけば、赤い放射状の五本線になる。これはもう旭日旗にかなり近い。人をひっかくときには波線にひっかくなど、どんな傷跡を残すのかを配慮する必要がありそうだ。これは感情が高ぶっているときには難しい作業かもしれないが、少し理性的な人ならば可能かもしれない。
 扇風機のガードの金具も放射状だ。ガードを外すと危険なので、何らかの工夫をしなくてはならないだろう。
 ただの放射状ではなく、渦巻き方にするとか、放射状の金具の特徴が隠れるように、放射状の金具と直角に交わる感じで、ガードに同心円状の金具をたくさん取り付けるとか、いろいろの工夫をすればよいだろう。
 数学の時間も、傾きがまちまちの一次関数で、切片がゼロのものを、グラフ用紙に複数書着込むのは問題がありそうだ。
 既に、二本の座標で放射状の線が四本描かれていることになるが、それだけで放射状の線を意識することはできない。ところが、原点を通る一次関数の線を二本書いただけで、合計八本の放射状を認識するに至るだろう。旭日旗は、白地に赤い放射状の線が十六本あるのが普通だから、六本だけ書けば、座標軸と合わせて八本になり、その二倍が十六で、旭日旗と放射状の線の数が一致してくる。
 自衛隊旗ともなれば、放射状の赤い線は八本だ。すると、二本書くだけで自衛隊旗の放射状の線の数と同じ本数となる。普通はグラフに一本だけ書くというのは珍しいだろう。
 だからといって、学習の流れで、二本目を引かないわけには行かない。自衛隊旗になってしまうからだ。これはもう、どのような工夫を凝らして回避しているのだろうか。頭の中で、「これは二本の自衛隊旗を書いているわけではない!」と何度も念じながら、一次関数の学習をするしかないだろう。
 まさかとは思うが、じゃんけんは大丈夫か。グーチョキパーの「パー」は何となく旭日旗に似ている。おつりをもらうときの手は指の間隔はゼロなので問題ないが、じゃんけんの「パー」もおつり式の手でやっているのだろうか。もっとも、じゃんけんは、グーチョキパーだけではないから、他のものを使えばよい。
 出血も問題だ。床に落ちた血液が旭日旗のように放射状の線を持つときがある。流血したときは、できるだけ出血部分を低くし、落ちてから飛び散らないようにしなくてはならない。しかし、そうすると心臓よりも出血部分が低くなるので、出血量が多くなったり、噴出したりして、逆に飛び散る血液が多くなり、たくさんの旭日旗もどきができあがる可能性があるだろう。すぐ誰かに拭き取ってもらえば済むからよいだろうけれど、吹き残しがあれば、乾いてなかなか取れない。
 ところで、もう旭日旗のデザイン探しはあまり話題になっていない。それはもう旭日旗での反日は、自爆だということが理解されてきたからなのだろうか。それとも、自身で反日をエスカレートさせていかざるを得ない人に、国民が危機感を持ち始めたからなのだろうか。半分手遅れかもしれないが、自分たちで何とかしないと。それが愛国心というものだろう。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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