日々雑感385「世の中は回るけど」

 世の中は回る。回るのが世の中だといってよい。
 海流も回る。地球も回る。宇宙も回る。逆に、目に見えぬ小さなもの回る。回らないものはないと考えて間違いない。物として存在するものはみな回るのだ。
 では、物として存在しないものも回るのか。勿論、物が回るようには回らないだろう。そこで時折思い出す一節がある。

  世の中は回る
  車のように
  上になったり
  下になったり
  運が悪いと嘆くでないよ
  何でもお見通しの神様が
  善人を見捨てるはずがない
 
 小さい頃といっても小学生の頃だが、この一節が頭の中で回っていた。そういう意味では、目に見えないものも回っている。
 この中で回るのは「世の中」だ。ここでの「世の中」とは何だろう。社会情勢のようなものだろうか。
 社会情勢は日々刻々と変化していき、その中では自分の価値も評価も変化することになる。その変化のことを回るというのだろう。
 回るのだから、また戻ってくるのだ。自分によい風が吹くときが、世の中が回っている以上は、いずれ必ず戻ってくるという感覚。まだ一度もよい風が吹かなくても、いずれは、よい時期が巡ってくる。そういう慰めの感覚だ。
 慰めにしか過ぎないが、この慰めがあると希望を抱いて頑張れる種類の人たちもいる。その人たちは確実に救われるのだ。少なくとも、心は救われるだろう。
 問題は、回り方のサイクルの長短だ。それは努力によって短くできる場合もあれば、努力によって長くできる場合もある。
 現在、よい風が吹いているという自覚がある人は、回るサイクルが長くなるように努力するだろう。逆に、悪しき風が吹いているという自覚がある人は、回るサイクルが短くなるように努力するだろう。
 両者に軋轢が生じるのは当然だ。その軋轢がドラマを生み出す。スケールの大きな社会的なドラマから日常的な小さなドラマまで、何世代にもわたる長いドラマから一瞬の短いドラマまで。それらが原動力になって、ますます世の中のいろいろなものが回り出す。
 その全てに目を凝らして見ようとしても無理なのだが、それは人間が見ようとした場合にはだ。いずれすさまじき性能のコンピュータが、目を凝らして全てを見つめるようになるだろう。
 しかし、人は「世の中は回る」と一言で済ませる。人間はそこがすごいところだと思う。
 ただし、回るとわかっていても、事後では意味がない。事前にわかっていて、回るからどうすればよいのかと考えることができて初めて知識の価値が生まれる。
 株価はどうか。上下し続けることを、回るといってよいだろう。
  
  株価は回る
  車のように
  上になったり
  下になったり
  運が悪いと嘆くでないよ
  何でもお見通しの神様が
  善人を見捨てるはずがない

 だが、欲に目がくらんで、お金ばかりに執着する人を、神様は善人とは評価しない。つまり、見捨てられるだけなのだ。神様は、仏様と違ってシビアなのだ。
 学生の成績はどうか。上下し続けることを、回るといってよいだろう。

  成績は回る
  車のように
  上になったり
  下になったり
  運が悪いと嘆くでないよ
  何でもお見通しの神様が
  善人を見捨てるはずがない

 だが、学生の期間は短い。高等学校の生徒なら、実質二年と少しで、進学先の範囲は決まってしまうだろう。これは大学生でも似たようなものだろう。東大に理系の勉強をしようと入学しても前期の成績如何では、下克上状況が生じて、途中から文系に変更せざるを得ないことになる場合だってある。自分のリズムに合った回り方を待つなどという猶予などはないのだ。
 短期間では、回るものも回らないことがよくある。勿論、勉強の度合いによっては、よい風が吹き、その風に乗ってますます成績を上げていけるだろう。回りが早くなって、積み重なるものが多くなっていくからだ。
 しかし、目の前の欲に負けてしまい、遊んでしまったり、先延ばしにしてしまうと、トータルでは同じ努力をしたのにもかかわらず、身につくものが少なく、その結果、逆回転の方向へ回る力が働き始めかねない。
 仕事でも学業でも、波に乗るというのは、回わろうとする努力と回り方が、うまく一致していることをいうのだろう。波に乗るには段階があって、それは自動車のシフトアップに似ている。時速10キロメートルのときに、トップギアに入れる人はいないだろう。
 トップギアに入れるまでには、それなりの状況を待たねばならぬ。先延ばしにしていると、待つことなく、トップギアに入れざるを得なくなり、大した成果を上げることもできなくなるものだ。サードギアにしても、時既に遅く、それなりの成果しか上げられずに終わる。
 最終的に、労力が同じだとしても、成果を上げられないので、自分の評価を低く考えるようになって自信をなくしたり、反対に奮起したりする。逆に、仕事や学業の努力なんて、しても仕方ないと、自分ではなく、対象の方の評価を低く考えるようになったりする。
 最終的に労力は少ないのが普通だが、短期間に努力したものだから疲労感と焦る気持ちが強いため、なぜか他人よりも頑張ったという自覚さえ生まれてしまう。そうなると、ますます自分の評価は相対的に高く感じがちで、しかも、仕事や学業に対する価値観を低く見る傾向も生まれ始める。
 そうなると、残念ながら、すべては悪い方向へ回っていくことになるだろう。ただし、劇的なことも起こる。突如としてよい方向へ回り始めることがあるのだ。
 それは、何でもお見通しの神様が、見捨てなかったと理解してもよいような状況の訪れだ。しかし、何でもお見通しなので、やはりどこかに非があれば、劇的なことが起こりそうでも起きないに違いない。
 結局、うまく回らないときに、どう転ぶかは、本人の性格の問題と、友人やら家族やらの何気ない言葉の何に反応したかという問題、そうした実にありふれた問題で決定していく。面白いといえば面白いが、つまらないといえばつまらない。
 さて、神様は何をお見通しなのだろう。人知れぬ努力であるかもしれないし、それを支える高い志かもしれないし、何かはわからない。だが、劇的なこと、神がかったことも、不断の努力がなければ、偶然にも起こりえないことだけは確かだ。大勢の人々を長期間見てきてそのように思う。
 そこで、善人とは何かということになる。まあ、これ自体が答えの一つには違いなかろう。
 

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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