変な疑問268「< べらぼう >の語源の珍説出せるか」⑧

 ところで、心しておかねばならぬことがある。それは、誤解と語弊を恐れず言えば、「差別=悪」という単純な理屈を、無条件に正しいものだとするには無理があるということだ。もともと無条件に正しいものなど、どの世にも恐らく存在しないだろう。
 宇宙は差別によって成り立っている。神話風に言えば、重いものは下におりて固まり、軽いものは上に昇ったというような、重さによる差別の始まりだ。宇宙に上も下もないが、塊から見れば、動きの方向による上下はある。星々も基本的にはそうしてできたものだろう。
 そこには光と影による差別もある。光のもととなる恒星などから、遠く離れれば離れるほど、光の恩恵にあずかることができない。勿論、逆に言えば、光に晒されなくてもよくなる。距離による差別が自然に生まれる。
 だが、極寒の星も灼熱の星も、だからといってどうということはない。恩恵も何もなく、いろいろな温度の星、それがありのままの状態だ。極寒とか灼熱とかは、そこに人間が住もうとすれば大変だというだけの、元を正せば人間尺度の評価でしかない。
 そのように、人間尺度で勝手に決めつけるのが当たり前になっているのは、人間が人間の発想で物事を捉えているのだから当たり前と言えば当たり前だ。
 しかし、人間が人間特有の欲望を叶えようとしたときには、このような感覚だけしか持っていなかったとするならば、真の差別、つまり「不当な差別」を平気で行う素質が十分にあることを意味している。人間ならば、人間らしく人間を超え、「不当な差別」を糾弾して無くそうとする動きもとれる存在を目指しているべきではないかと思う。
 人間尺度、国家尺度、職業尺度、大人尺度、子供尺度、男性尺度、女性尺度などと、急に変化することのなさそうな尺度については、固定的なものの見方を生み出す土台になっているように思う。
 その固定的なものの見方は、当然のものの見方となり、それに合わないものを、差別し、非難したり、排斥したり、傷つけたりする。合わないものは排除する。これは至極当然の理屈だ。それが同じ尺度を持つ集団の正義となるからだ。しかし、当然のものだからこそ、そして確固たる正義だからこそ、疑う価値が高いとも言える。
 また、宇宙には星が多く集まっているところもあれば、何もなさそうなところもある。そうではあっても平等に場所が使われているのだとは思うけれども、星に注目してみれば、見た目そのようには見えない。もしかすると平等になろうとしている途中なのかもしれない。
 だが、これも本当は差別でも何でもない。ただそうなっているだけのことで、当然の状態だ。
 ところが、これら重さやら何やらが、物から転じて人間版の話になると、やはり当然の状態だと言い続けるわけにはいかないことが多いように思う。人間のレベルによっては、体重や体形を嘲笑の種とする場合もあるからだ。それは見下すということにつながり、ひいては差別になっていく。自分と違う感じのものが嫌なのだ。
 周囲に被害者を作りがちな、何かと他人を差別しやすいというタイプの人もいる。そうした傾向はどのようにして生まれるのだろうか。
 人間も宇宙の一部品だから物なのだけれど、もの思う存在であるがゆえに、思い込みやら、思い違いやら、思い至らぬやらの症状が多発し、それも日々変化したり、集団となって程度が甚だしくなったりする。
 そして、そのような同じ雰囲気の中で何度も差別的に思うことによって自家中毒のように、ものの見方がおかしくなって、人の道を踏み外す人も出てくる。また、それらの歪んだ思い込みなどによって、差別する意識や、差別されている意識がより確かなものになり、信条のようなものにまでなっていくおそれもある。
 要するに、自分や自分が所属しているものが持っている尺度に合わない個人や集団を差別するのが大好きなのが人間だ。最近は紳士淑女が増えてきたので、あからさまに差別を表明する人は一握りに人たちになってきたが、差別の種類によっては、まだまだ無意識の差別をしている可能性が大いにある。勿論、自分が常識的な言動だと思っていても、そうではない可能性が多いと思わねばならない。
 さて、差別するのが大好きというよりも、そう見えるだけのことで、心の底では、「他人を差別している間は、自分は差別されない。だから、止められない。」というような醜い保身術の一種かもしれない。
 そうした感覚は結果として差別し合うという状況を生むだろう。しかし、それならそれでジャンケンの「あいこ」と同じだから構わないとは思う。しかし、お互いに不快な思いをし続けなくてはならないので、賢い選択とは思われない。
 では、実際にはどのような感じで差別が生まれ、その裏にはどのような心がはたらいているのだろう。
 たとえば、「神仏を信じていないだなんて、人間じゃないよね。」などと、相手を見下して差別する人がいる。
 本来は普段の言動によって人を判断すべき人間性の評価に対してだ。恐らく多勢に無勢ゆえに自分が優勢と見たのだろう。否定されることのない億単位の大集団である宗教を持ち出し、その安全地帯から堂々と相手の人間性を否定するという差別的態度を平気で示すことがある。
 人間じゃないとまで言わなくても、程度の違いこそあれ、似たような宗教的差別が、隙あらばなされているのではないだろうか。
 また、「権力に逆らわないなんて、腰抜けだな。」などと、相手を見下して差別する人がいる。
 本来は個人単位で評価すべき生き方の問題に対してだ。恐らく自分が権力に逆らう少数派に所属していることが、実は心細いと感じているのだろう。少しでも多く同類の仲間を増やそうとしたり、自分を鼓舞したりするために、少数派の価値観を一般化された判断として押しつけ、行動を煽るという差別的態度を、滑稽にも誇らしげに示すことがある。
 こうしたことも程度の違いこそあれ、似たような生き方差別がなされているのではないだろうか。
 また、「お前とは人種が違うんだよ。(お前たちは劣っているんだ)」などと、相手を見下して差別することがある。
 本来は個人単位で比較すべき能力に対してだ。恐らく自分個人と比較する自信があまりないのだろう。少しでも大きな括りの集団を持ち出してきて「虎の威を借る狐」の如く、まるで人種の代表者のような顔をして威張ることがある。
 こうしたことも程度の違いこそあれ、似たような人種差別がなされているのではないだろうか。
 また、「男のくせに、だらしないな。男らしく立派にやり遂げろよ。」などと、相手を見下して差別することがある。
 本来は個人単位で評価すべき行動の立派さに対してだ。恐らく性別集団に伝統的に割り振っただけの価値観で評価するほうが、低い評価能力でも容易にできるからなのだろう。そして、人類の約五十%という大集団を持ち出すことによって、また、人種と同様に変更が難しい性別という比較的絶対的なものであることを根拠とすることによって、自分の発言に確固たる力を持たせるとともに、相手に対する強制力も持たせたいという目論見があるのだろう。
 同様に、「高等教育を受けていないくせに、口を挟んでくるなよ。」とか、「仕事に命をかけない非国民め。」とか、「その年で遊んでるの恥ずかしくないの。」とか、変更が難しい集団や条件を持ち出しては、それを背景にいろいろな判断を独善的に下す。そして、その内容の発言をすることによって相手より自分が優位にあることを、結果として証明したかのような形に持ち込む。つまり、相手を見下して残念がらせようと試みるのだ。
 そして、相手が言い返せないと、楽しい気持ちになるという浅ましい根性を持っている。
 差別的な発言内容につなげての発言は困難だから言い返せない。差別的発想の論理からの展開させても、その発想を前提としたものの言い方になりやすいからだ。
 しかし、問題となっていることの本質から説き起こせば、簡単に言い返せる。ただ、それは差別的な発言をする人の人間性を否定したり、能力の低さを証明してしまうことになるため、ひどく逆上することになるだろう。見下したつもりが、自分が見下されるべき人間だということが明確にされてしまうからだ。
 差別的は発言をするような人が逆上したときには、さらなる事態の悪化を招き、問題を厄介なものにしてしまうから、そのように言い返さないということが多いのではないだろうか。
 悲しいのは、相手が言い返してきたり、見下したはずなのに論破されたりして、自分の優位性を表明できないと感じると、「うるさい。だまれ。」などと、自分の優位性だけを主張しつつ負けを認めるしかない悲しい存在になってしまうことだ。
 優位性を示す最低条件は、会話の実質的なトリをとるということだろう。最後の決め言葉、殺し文句的なものは、できるだけ一般的に言い古されている短いフレーズのものが効果的だ。
 だから、見下した決めぜりふのようなもので会話を終わらせようとする雰囲気を感じたら、予め用意しておいた「切り返し」の言葉を言う心構えをして、その決めぜりふの直後に言い返し、冷静に会話のトリを取り返すことだろう。
 こうした努力を多くの人が怠るようになると、差別意識が高まっていき、それが広がっていき、社会の空気となっていく。そうなると、差別意識を示す者の人間的成長を待ち、社会が成熟するのを待つ以外に、方法がなくなってくる。それが今の世の中だろう。
 相手を見下して差別意識を示す者が、自分の優位性を表明することに成功し、中身のない満足を得たとしても、所詮は自分や自分が所属しているものの尺度に合わないだけという、みすぼらしい判断基準によるものだから、それは相手にとっては不快なだけの「不当な差別」でしかない。
 しかし、見下している当の本人はそうは感じていないはずだ。自分や自分の所属しているものの尺度を客観視できない人には、自分の尺度が全てだ。そこに他の尺度があって別の価値観が生まれているなどとは、つゆほどにも思わない。
 したがって、他の尺度を持った人にとっては「不当な差別」であるにもかかわらず、当の本人にとっては「当然の差別」という意識しか持てない。そこに大きな問題がある。
 さて、「見世物小屋」で人気を博した「べらぼう」をはじめとする「見世物キャラクター」たちは、どのような目で見られていたのだろうか。
 たとえば、「べらぼう」は他の「見世物キャラクター」たちからどのような目で見られていたのだろうか。看板キャラクターだったようだから、羨望の眼差し、尊敬の眼差し、嫉妬の眼差しなどで見られていただろう。
 たとえば、「べらぼう」は親方からどのような目で見られていたのだろうか。看板キャラクターだったようだから、大黒柱、つまり稼ぎ頭的な存在を見る依存の眼差し、大事な宝物を見る寵愛と執着の眼差し、借りものであれば、何とか自分のものにしたいという独占欲の眼差しなどで見られていただろう。
 たとえば、「べらぼう」はお客さんからどのような目で見られていたのだろうか。初めて見るものに対する驚嘆の眼差し、正体不明なものに対する恐怖の眼差し、奇異なものを不快に思う眼差し、奇異なものを喜ぶ眼差し、単純な好奇の眼差し、多くの疑問を抱いた探求の眼差し、楽しませてくれるものに対する温かい眼差し、普通の存在ではないものに対する哀れみの眼差し、自分との共通点を見出しての親しみの眼差し、幾らで買えて幾らで売れるかと値踏みする商人の眼差し、どのように育てるのかという農民の眼差し、急所や制圧方法を探る武士の眼差し、この存在は何の仲間であるか、いかにして生まれたか、本来の生態はと思いを巡らせる学者の眼差し、これは人間が中に入っているのではないかという疑いの眼差し等々。人それぞれというわけだ。だから、人が集まり「見世物小屋」が繁盛するのだろう。
 たとえば、「べらぼう」は「べらぼう」自身をどのような目で見ていたのだろうか。これは「べらぼう」の正体が何であるかによるだろう。また、知能の高いものの特別に知能の低い状態のものか、知能の低いものの特別に知能の高い状態のものか、もともと通常の知能のものかという問題もある。鏡を見て、それが自分であると認識できる知能があるかどうかというラインを超えているかどうか。人々を楽しませたということだが、結果として人々が楽しめたのか、「べらぼう」が楽しませようとしたから楽しめたのかという問題もある。
 それらの眼差しから「べらぼう」を見下して差別するような意識を読み取ろうとすると、他の「見世物キャラクター」の嫉妬の眼差しの心は勿論のこと、お客さんの奇異なものと見る眼差しとか、哀れみの眼差しとかの裏に隠れた心の中にあるような気がする。
 しかし、お客さんの楽しませてくれるものに対する温かい眼差しの裏にあるものも無視できない差別の種があるように思う。
 また、お客さんの中で、「べらぼう」の存在と自分の存在の共通点や類似点を発見してしまった人は、そこに自分との絶対的な違いを見つけなくてはならなくなるはずだ。そのための敢えての見下しを行い、差別的発言や態度を示して、暗に「俺はあいつとは違うんだ」ということを自分にも周囲にも示さなくてはならないという強迫観念にとらわれる可能性が高いようにも思う。
 自分と違うものも、自分と似ているものも嫌なのだ。何とも勝手なものだ。逆に言えば、自分と微妙に違い、そして自分と微妙に異なるものが心地よいのだろう。その微妙さをどのように読み取って、どのように実現するかで、「見世物小屋」の繁盛具合が決まるのかもしれない。
 これは服装に似ている。一人だけ違う種類の服装も嫌だが、誰かと似ている服装だったというのも嫌なのだ。
 一人だけ違った服装をしていると、後ろ指を指されたり、嫌みを言われたりすることがある。誰かと似ている服装だと、恥ずかしい感じさえして嫌だ。少しでも違うところを一生懸命に探して、自分のほうがセンスがいいとか思い込むようにしたりする。そんな自分に気づいてまた嫌になるのだ。
 制服などはデザインを全て同じにしてしまうから、そうしたことは不問とされる。だが、他の会社の制服と比較するようになる。そして、どこかに欠点を見出して、見下す道筋を立てる。
 自社ではどうか。同じデザインなので、サイズや着こなしに欠点を見出して、やはり見下す道筋を立てる。人間らしいと言えば人間らしいのかもしれないが、人間らしさの愚かバージョンだ。愚かしい楽しさをそのように見出さねばならないところに問題がある。
 制服に線を入れ、その数で階級を表すということもある。これはうまく計算されたやり方だと思う。この微妙な違いに、もしかすると双方に「心地よい差別」が実現されている可能性がある。
 さて、ここまで「見世物」「べらぼう」に対する想像をいろいろと並べてみたが、そのあたりから出てくる差別や人権という厄介な問題にもっと触れていかねば、「べらぼう」の語源の周辺にはまだまだ辿り着かない感じがする。やはり珍説を捻り出す材料がまだまだ不足だ。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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