日々雑感389「ネット隙間の世界」

 「ネット」の世界は広大無辺のようで小さい。「ネット」がなかった時代を経験している世代からすれば、最初に感じた、地球上の多くの人間とつながる「ネット」の大きさは、実は目眩ましだった。
 確かにネット社会となる前よりも格段に世界は広がり、便利なことも多くなり、豊かな情報源を持つに至った。踏まえる土台がネットによって変化してしまったせいで、逆にそこから見えてくるネットの世界の小ささに愕然とする。
 この愕然とすることが重要なのだろう。便利だなで終わっていたり、誹謗中傷の世界はごめんだなと思っていたり、ネットなしでは暮らせませんわなどと言っていたりするだけでは、このままになってしまう。
 今のネット社会、今のネットの力に満足している人は、果たしてどれだけいるだろうか。ネットの力にはいろいろあるが、ここでは、ネットで得られることのできる情報の総量を言うことにしようと思う。
 たった一つの情報でも、それが世界を揺るがしかねない力を持つことがあるだろう。今はそれを問題にすると別の話になるので、ここでは問題にしないことにする。そもそもそれは情報の力や、その情報を力に変える人や人々の力であって、ネットの力そのものではない。勿論、その人や人々もネットでつながっているのだから、それも含めてネットの力と言えなくもないが、今は情報の総量を問題としたい。
 調べたわけではないが、そうした意味でのネットの力に満足している人は、ネット利用を始めたばかりの頃なら、いざ知らず、普段から日常的にネットに支えられた生活をしている人の中で、その情報の総量に満足している人が、いったいどれだけいるだろう。一割を越えているだろうか。かなり少ないのではないかという印象を持っているが、どうだろう。
 情報の総量をそのままを実感するのも、カウントするのも無理だろう。数える対象の情報の単位を、仮にホームページのタイトルだけに限定すれば、何らかの形で数字を出せるかもしれない。しかし、実際には、一つのホームページの中に膨大な情報量がつまっていることが普通だ。
 また、ある人にとっては有益な情報でも、他の人にとっては意味のない情報であったり、有害な情報であったりすることもある。もしかすると、誰にとっても価値のない情報もある。しかし、今は何の価値もない情報も、将来的に有益な情報となる可能性もゼロではないだろう。
 中には、人心を惑わすことを目的とした情報もある。勘違いや単純な間違いを含んだ情報もある。ある時期には正しかったのだが、古くなって有効でなくなった情報もある。世界的に一般的ではない言語で記述されているために、限られた人々しか活用することのできない情報もある。表現の仕方が未熟で、誤訳されやすかったり、誤った伝わり方をしたりするような、困った情報もある。
 そうしたものも、情報と言えば情報だが、現在のネット利用者が感じるところの「ネットの情報の総量」として予感されるものからは、排除したくなるだろう。
 しかし、その「情報の総量」と見做されるものの多さや、判定するのが難しいことから、実際には人それぞれがいろいろに感じる玉石混淆状態となっているのを、検索をかけたときのヒット数などから判定して順番に表示していくことで、実質的な排除の努力をしているというのが現状だと思う。
 実際に何かを検索したとき、検索結果ページの三,、四頁目あたりまでは、それらしきホームページ名を眺めても、それ以降の検索ページを開くことは極端に少ないのではないだろうか。時間の制約の中で、自然に情報量を狭めているのは自分たちでもある。
 こうなると、随分と閲覧するかもしれないであろうホームページが随分と限定されて少なくなってくる。その中から更にそれらしきホームページを選んで、実際に中を閲覧するのは、調べているものにもよるけれど、ほんの数サイトに過ぎないのではないだろうか。よく開いても十サイトをあまり越えないのではないだろうか。
 さらに、二つ目三つ目と開いても、それぞれのホームページから得られる情報が、似たり寄ったりの内容であれば、更に四つ目、五つ目と念を入れて閲覧するということは極めて稀だと思う。
 ここにネットの「情報の総量」の落とし穴がある。量自体は膨大であっても、実際には似たり寄ったりのホームページをみんなで閲覧している可能性も高い。しかも、それらが孫引きの関係にあることもある。恐ろしいことに、今後は孫引きし合うというあり得ないような状況も、可能性としては出てくるかもしれない。そんなことは普通は起こらないが、ネットなら可能性はゼロではないだろう。
 クロス検索をかけても、似たようなことになるだろう。上位頁に入ってくるホームページは、同様にやはり流動的では有るものの、案外と固定的であるように思う。結局、情報がすかすかな状態で漂っているのと同じような状態になっているように思うのだが、それは言い過ぎだろうか。
 それは恐らく、上位頁に入っているホームページの作成者が、表示の順位が転落しないように工夫して、文章を読みやすくするのは勿論のこと、検索された段階で示されるタイトルを魅力的なものにしたり、ホームページの第一頁(結局、ホームページ)の見栄えをよくするからではないだろうか。
 そうした努力が、最終的に表示順位に反映されることになるだろう。その上位ページの作成者たちによる努力で、ますます表示順位が高くなる確率に格差ができるはずだ。そうなると、ますます上位ページのホームページが集中的に閲覧される傾向が大きくなるだろう。
 その傾向が日々強くなり、検索して閲覧する者にとっては、ますます実質的な「情報の総量」が減っていくといってもよいのではないだろうか。その結果、ますますネットのネット足るべきネットらしさが、次第に薄くなっていくように思われてならない。刻々と、アップロードされる情報は増えていくのにもかかわらずだ。そうしたこともあるのだろう、表示の順位を上げるための仕事が存在すると聞いた。「なにをかいわんや」だ。
 ところで、インターネットのネットはネットだがネットではない。点と点が結びついて線となってつながっているという形のイメージだけだ。もともと情報網の網だから、つながりあっているというだけのことで、本当のネット(網)のように、何かをカバーしたり、何かをすくったりするという意味合いではない。
 それをいつの間にか、あらゆる事が網羅されているものに、アクセスすることができるという幻想を時折抱いていることに、ふと気づくことがある。つまり、全ての情報を無限の大きさのネット(網)でカバーしているとか、無限の大きさのネット(網)ですくい上げて見せてくれるとか、そうしたあり得ない幻想だ。
 それは言葉のせいもあるだろう。インターネットではなく、インターネットワークなら、そうした幻想は起きにくいだろう。それが更に省略されて、ネットになってしまったから、頭のどこかでネット(網)とネット(インターネット)がリンクして、インターネットが、隈無く網の目のように張り巡らされて、何かをカバーしたり、救ったりするようなイメージが湧いてしまうのだろう。
 その外れたイメージのままで言うと、「隈無く」とはほど遠く、その網の目にもムラがあり、多くのものが網の目からこぼれ落ちていたり、すくい上げられずにそのままになっているのが現状だろう。
 これに加え、とあるグループの国々では検閲もある。その時点で情報となるものが偏っているのは言うまでもないだろう。
 そんなこんなで、現在ネットで検索した結果に満足している人というのは、本当に少ないと思う。
 それを不満に思うことがまずは大事だと思う。ネット由来の情報で、自分の世界が広がっていく、そのときには満足できるだろう。しかし、自分に必要な情報だけが入手できるようであれば、それで満足だということで終わってしまっては、当然いけないはずだ。いろいろな点で、充実してきたネットも、ああこれからなのだなとわくわくする。
 焼き直しではなく、僕たちが予想だにしなかったことを発想して実現するだけでなく、きちんと商業ベースに乗る形で、人々の生きる姿を根本から進化させるような変革を実現する天才たちの出現がまだまだこれから必要だ。
 昔々のその昔、とある企業内グループが描いた世の中に少しずつ近づいている。その入り口に立った感じだろうか。
 だから、予想から二十年以上は遅れている。その理由は何だろう。通信される内容や社会の制度の進化がバランスよくなかったのだろうか。勿論、経済の停滞という土台中の土台が大きな原因だとは思う。だが、そうしたことも含めて、今後の社会を大きく支えることになるのが、やはり「ネット」だろう。肝腎の支えられるものが不十分だと話にならないが、それはあらゆる分野にわたっているから、ネットを必要とするものからあり方を次々と変えていくということになれば、それは加速度的に進展していく可能性があるように思う。
 ただ、一般論として、その進展にも計画性がないと、合理的な進展ができない。あのときにこうしておけばこうだったのに、その千載一遇のチャンスを逃したために、後に禍根を残したということは、よく聞く。その規模が大きければ大きいほどに、影響は大きい。後で莫大な無駄予算を組まねばならないということにもなりかねない。また、世の中の方向を変えかねない。それは人の生き方さえも変えかねないものとなる。ネットはあらゆるものに関わってくるだろうから、考えないと危ないように思う。当然そんなことは承知で計画的に進められていると思うけれど、それはどこかに示されているだろうか。
 さて、「ネット」だけの世界は、広いようで小さい。ネットだけで始末していれば、それに適応した生活となり、それで十分と思われるような感覚が生まれてくる。そこが落とし穴だ。
 実際に検索してみれば、隙間が目立つ。ヒットしたものだけで済ます癖がつくと、危ういことこの上ない。用は足りても、ネット情報だけでは情報不足だからだ。「ネット」で検索できる内容は、実際には極めて少ない。様々な検索サイトで様々に検索しても、目的に合う情報は本当は数少ない。ただ、情報が多く感じるのは、検索すると同時に、目的外の情報も無数に示されるからだろう。錯覚だ。
 目的の情報が掲載されている頁を幾つか見つけても、「そうだったのか」と新しい事実を知らされたり、「なるほど」と頷かされるたりするものばかりであることが多い。そうした情報を得ても、ほぼ役には立たないから、手にした情報から外さなくてはならない。また、「それはないでしょう」と首をひねるものは、最初から役には立たない。
また、「そうかもしれないけれど」と思ったものについては、新たな疑問が生じて、改めて調べ直さなくてはならなくなるので、直ぐに役に立てることができない。
 そうしてみると、「ネット」の世界を小さくしているのは、検索している者の目的の特異性や、期待される情報の稀少性によるということになる。勿論、検索語としての語彙量の少なさが、最も大きな原因だろう。
 これらは人間側の問題だ。では、「ネット」側の問題は何だろう。
 多くの人の関心事であったために「ネット」ですぐに情報がヒットし、目的が達成される場合や、もともと「ネット」上にあげられないタイプの物事であったために全く目的が達成されない場合や、間違った情報しか「ネット」上になかったために誤った情報をつかまされる場合などがある。他にもたくさんあると思うが、主なものはこの三つだろうか。
 そこからどんな問題が生まれてくるか。やはり直ぐには実害を感じられないが、長期にわたって影響し続けて、人の根本的な部分を侵していくタイプの深刻な問題だと思う。主なものだけを思いついた順に挙げてみる。

① ネット利用者の関心事に対して同じ情報が一様に流布されてしまう問題
② ネット常用者の関心事でなければ情報が得られない傾向を助長してしまう問題
③ ネットにアップされない世界がネット利用者の関心事から外れてしまう問題

 多くは、検索する人の検索前の能力としての語彙力、それを検索のために役立てる発想力でカバーできる問題かもしれない。また、検索後の結果を比較して情報の確からしさを判断する力でカバーできる問題かもしれない。しかし、個々のレベルでは「焼け石に水」レベルだ。

 ①の問題は、グーグルやヤフーなど、検索エンジンを変えて検索することで少しだけ解消するかもしれない。検索結果の順位は検索エンジンごとに異なるからだ。似ているが、それほど同じではないのは、情報の順位付けが同じではないということだろう。また、検索エンジンは情報を集めて順位付けをして示すだけではなく、選択的なところもあるように感じる。片方の検索エンジンでは顔を見せる情報も、もう片方では顔を見せないということがあれば、それは順位付けだけの操作ではないと思うのだ。
 そうなると、やはり複数の検索エンジンを利用することで、下位、もしくは表示されない情報の活用が少し増える可能性が出てくることになる。「焼け石に水」かもしれないが、やらないよりはよいだろう。逆に、やらなくても済んでしまうところに問題の根の深さを感じる。
 ②③についても、①の問題と同じように、何らかの方法で対応できると思うが、皆が対応しないことには、妙な問題が妙な流れを作っていき、その流れの中に皆がいるため、気づかないうちに皆がよくない方向に向かっていく感じもする。
 しかし、だからといって、ネット販売の商品のように評価をつけたり、警告文をつけたりすることは難しい。
 商品と情報とは性質が異なるからだ。情報のほうは評価がまちまちになり、評価する意味がなくなる。また、評価の傾向が出たとしても、その評価が低いからといって閲覧しないという手はない。
 もし、評価をつけるとしたら、総合的な評価ではなく、写真が多いか少ないかとか、文章が長いか、短いかとか、そうした比較的客観的な観点の評価だろうか。あるいは、最終更新年月日とか、そうしたデータだろうか。
 実際の出会いとは別物だ 実際の出会いを拒否しているもの同士の、危ういつながりも生まれる。ネットを道具として使う人と、ネットに包まれて溶け込む人とがいる。 その境目にいる人もいる。
 ネットを道具として使いこなしている人は、ネット情報の嘘や誤りや偏向に、すばやく気づく嗅覚が発達していくと同時に、いつしかネット情報に終始するという轍を踏む危険性を背負う。
 ネット空間に溶け込んでいる人には、ネットを道具として使いこなしている感覚が生まれていく。境目にいる人は、うまく現実とネット空間とを渡り歩いている感覚が生まれる。全てがそうであるように、それぞれの感覚に、それぞれの危険性がある。それを意識しているかどうかが問題なのだろう。
 さて、ネットの隙間はいろいろある。甘えの構造の中で、なんとなくアップされているだけで、その間に生まれ出る比較やら批判やらの様々なものが、それらに関連づけられて示されるわけではない。楽しくなくなるからだ。
 しかし、学術的なものはどうだろう。楽しい楽しくないは無関係なので、対立してもよいと思う。ただ、それはネット上でやるのはマナー違反ですよということになっているかもしれない。ただ、それは誰でも眺められるので、そこに隙間があるように見えるということになる。
 また、ネット利用者の地理的密度による隙間がある。地理的にカバーしていないことによる情報の隙間が、そこに生じる。
 また、ネット利用者の年代別密度による隙間がある。年代によって生活経験が異なるので、同じものを見ても全く違う感覚で情報化する。年代によって密度が大きく変われば、情報の隙間が、そこにも生じる。
 その他、いくらでも隙間があり、破れたネット(網)状態だ。何かスケールをつくって、どのあたりが埋まっていないか、どのあたりの情報が少ないかということが、示されない以上は、その隙間を埋めようとする努力はなされないだろう。図書館の分類のようなものは、世界を網羅しているはずなので、それに基づいたものがつくられて、グラフ等で示されることはなされてもよいように思う。隙間の見える化だ。
 放置状態の野生の情報が最も自然なのかもしれないが、自然であることがベストであるわけではないだろうと思う。隙間は隙間だ。
 そのネットの隙間とは、一言で言えば、皆がまだ関心を持たない状態の情報が、それ故に本来は関心を持つような状態にあらねばならぬのに、ネット情報であるがゆえに低ランク、もしくはランク外並みに位置づけられ、人の目に触れない状態に陥っていることだ。
 それがネット以外のシステムと結びついていればまだよいのだが、ネットに終結する情報ということになると、「かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の淀みのうたかた状態で、結局は消滅する運命にある。
 一度、膨大な情報を分類整理して、分類の穴を見つけたらどうだろうか。一度と言ったが、ネット利用者が分類ごとの情報量を必要に応じて常時モニターできるとよい。どの分野に人々が目を閉じているのか、どの分野ばかりに目を向けていて、それで平気でいるのか、そうしたことを感覚として得たいのだ。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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