変な疑問274「< べらぼう >の語源の珍説出せるか」⑭

 さて、一般生活でも誤解や曲解に注意しながら、「差別」という言葉を敢えて多く使うようにすれば、「差別」という言葉に対してアレルギーを持っていたり、反射的に関わらない態度を示したりする人たちも、次第に「差別」という言葉を適切に使えるようになるかもしれない。所謂、相手の非難する言葉としての「差別」という狭い使い方だけからの解放を目指せば、「差別」に正面から向き合って、分析できる姿勢が生まれると思うのだ。
 いつまでも「許されないタイプの差別」がなくならないのは、どうしてかということを、そろそろ考えた方がよいのではないか。要は、外堀が埋まってないのに、内堀も埋めたつもりになって、いきなり本丸を狙おうとする奇妙な努力は、パフォーマンスだけにしておくのがよいだろう。まずは現実的な対応を、対症療法的な方向だけでなく、進めるのが普通だ。そうしないと、本丸すら見誤る恐れが出てくる。そうすれば、自然についてくる人も多く集まるだろうに。
 そうしないのは、逆に邪魔な動きをしていることに気づけないからだろうか、それとも、パフォーマンスがいつの間にか目的になってしまい、当初の目的を忘れてしまったからだろうか。
 しかし、民主主義の世の中が続く間は、そうした特別な意識のあるでも、その人々を多く合法的に集めることができれば、踏むべき手順に従って物事を改変させることができるだろう。長い年月かかるだろうが、それは人の意識を変え、社会の仕組みまで変えることだから、当然だ。何世代もかければよい。
 そのために必要な時間というのは、問題によってそれぞれのはずだ。それを一様に三か年計画とか、五か年計画とか、見るからに人工的な期間の設定をするのは、全体のことを考えれば、碌なことにはならないだろう。特に、人の意識にかかわり、社会の仕組みに関わるであろうことは、物づくりや土地開発ではないのだから、より慎重を期さないと、とんだしっぺ返しをくらうことになるだろう。
 まずは、学校教育なのだろうが、ブラック企業を越える別次元の勤務を強いられている現代日本の学校に、全てを負わせると、お題目だけか、中途半端な形だけの指導になりかねない。だが、そこを起点としなければ、始まらない話だ。そこで起用される教材には、「見世物小屋」の話があってもよいかもしれない。
 たとえば、とある子供が「見世物小屋」の親方に引き取られる場面、そこでの生活、脱走、脱走後の生活、などと、いろいろな場面を紙芝居にして、場面ごとにどんなことが起こるか、どんな人がどんな思いになったのか、などと子供に考えさせるという手もあるだろう。どうして「見世物小屋」が、その世の中で成立していたのかとか、今はどうして「見世物小屋」がないのかとか、少し大きくなった子供には問いかけてもよいかもしれない。「べらぼう」を主人公にしてもよいだろうし、親方を主人公にしてもよいだろう。いろいろなタイプの指導の目的別、年齢別のストーリーができあがりそうだ。
 細かいことはさておき、まずは「差別」という言葉に耳を慣らすことが重要だというほどに捉えておけばよいのかもしれない。問題に関わりたくないために、「差別」という言葉自体を口にしない風潮があるからだ。その逆に、すぐに「差別」という言葉を発する風潮もある。これは矛盾していない。なぜなら、敢えて問題化して面倒なことになるのを避ける人々と、それとは逆に、敢えて問題化して面倒を巻き起こしたい人々の両方が存在するからだ。
 「差別」という言葉を使い慣れる。そのためには、これはどういう目的と方法によって施される「差別」なのかということを、確認することだ。その目的と方法は、一般的にも、対象となる本人にとっても、許されざるものであるか否か。これらをいちいち面倒でも確認することだ。それは大事なコミュニケーションで、それを怠れば、後々のトラブルを自ら招くことになるだろう。
 こうして何世代か、少なくとも二世代三世代はかかるだろうが、「許されない差別」に何が何でもつなげるという理不尽な傾向については、少しずつ是正されていくだろうと思う。
 このように、「差別」の目的と方法を分析し、その是非を話し合うことが、まずは「差別」という言葉の解放につながるはずだ。勿論、「差別」以外に、それと似た状況に置かれている言葉があるとすれば、同様の努力が必要だろう。
 使い古されていく間に、その言葉に使用傾向が生まれるのは当然のことだが、それによって基本的な意味が失われたり、派生的な意味として受け取られたりすることは、防がなくてはならないと思う。
 自分に都合よく使うことばかりを考えていると、多義語化が甚だしくなっていき、しかも時を経るとともに、使われ方の頻度もまちまちになってしまう結果、後世の人たちに混乱が生じるだけでなく、予期せぬ誤解や悪意ある曲解を招き、より厄介な問題を抱える原因となりかねない。
 後世に受け継いでもらうのは、命だけでなく、文化としての言葉もだ。命だけでは果たしきれない役割が、人間にはある。その言葉に対するメンテナンスを怠ると、次第にまずいことになると思う。
 ただでさえ、百年もしないうちに、大きく変化をしていってしまうのが、話し言葉の運命だ。そして、今やその話し言葉が、そのままほぼ書き言葉と大方一致している状態だ。そのようにしてきたからだ。
 今から百年ほど前はどうだろう。書き言葉と話し言葉がまだ役割分担をしていたのではなかったか。それを言文が一致しないのは合理的ではないということで、書き言葉と話し言葉とを一致させるという努力がなされ、今に至るのだが、さて、書き言葉と話し言葉との合理的なあり方を追求して得られた合理性は、果たしていかほどのものだったのだろうか。
 言文一致の有効性は否定はしないが、それによって失われたものを意識しているかどうかということの確認が常々大事であろう。こうした、どうでもよいようなことにこそ重要なことが隠れていることが多いと感じる。このどうでもよさは、もしかするとかなり重要なことである可能性があると見ておいた方がよいように思う。
 もっとも、隠れていて見逃されやすいものであるからこそ、時を経て結局は重要なことになってしまうというのが、本当のところだろうけれど。
 取り敢えずは、書き言葉と話し言葉を両立させていた理由と、図らずもその結果得られていた効果の両方を、何とか確認する必要はあるだろう。何かを失って、何かを得ること。その逆も、日々の常、歴史の常だろう。だが、その何かが、何であったのかを自覚しているかどうかということが重要なことだろうと思う。そうしないと、ただ流されていくだけの存在となってしまうからだ。それは、楽と言えば楽だが、愚かと言えば愚かだ。まずは知って、必要でなければ、一度忘れたらいい。
 何を得たために「見世物小屋」を失ったのか。あるいは、何を失ったために「見世物小屋」も失ったのか。さらに、「見世物小屋」を失って何を得て、何を失ったのか。それが問題だ。
 意識の変化がそこに必ずあり、その意識の変化が何かを創り出したり、何かを破壊したりする。いろいろな意識の変化が寄り集まって、より大きな流れをつくっていく。もうそれが歴史だろう。
 そうした歴史の中で「見世物小屋」も「べらぼう」も埋もれたが、それ自体は埋もれても、その時に果たしていた役割が無意味になったわけではないだろう。
 また、「見世物小屋」や「べらぼう」も過去に埋もれてしまったものではあるけれども、その経営精神の底に流れていたであろうところの、人間というものの捉えとか、それらに取って代わるものの台頭を促した文化的な推進力とか、後の世に影響を与える膨大な事柄の中の一角を僅かながらにでも占めていたと思うべきだあろう。

広告

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
カテゴリー: 変な疑問 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中