変な疑問275「< べらぼう >の語源の珍説出せるか」⑮

 「差別」という一言で批判する風潮は、あまり好ましくないものだ。しかし、強烈な印象を与えることのできる単語である「差別」を、タイミングよく使うのは、非常に便利だ。その言い切った感じが、相手に与える力は、今のところ大きい。先に使った方が勝ちのようなところもある。お互いに「差別だ」と言い合うという、お粗末な展開にお目にかかることもあるが、それというのも「差別」を適切に使わないことによるか、適切に使えないことによるかの別はあるかもしれないが、問題を解決しようという姿勢よりも、自分が単にその場で言い負かされたくないという、小さい子供の感覚がお互いに頭をもたげてしまったことによるものだろう。
 だが、いつまでも人が愚かであり続けることはない。賢く「差別」をなくしたり、賢く「差別」を軽減したり、賢く「差別」が生まれないようにしたりする仕組みを考えるのと同時に、「差別」であることの指摘一辺倒なうえに、その言葉の力に依存してきてしまった人たちへの対策も講じていこうとしているはずだ。
 ただ、今のところは、どうだろうか。ほとんど頭を使わなくてもよいだけに「差別」であることの指摘一辺倒のほうが、人数的にも優勢となりやすいからだ。
 多数決は議論を尽くしたうえでの手段、議論がまとまらなかったための、どちらかというと悪手寄りだ、というほどの気持ちを敢えて持っていないと、民主主義は守れないのではないだろうか。だが、絶対多数ならぬ多数決絶対の雰囲気は、油断していると自然に生まれてきてしまうものであるように思う。
 なぜならば、議論を尽くすということは、能力も、気力も、時間も、資料も、そして回数も必要で、一時的なものならばいざ知らず、日常的には大変なことだからだ。
 そうした大変なことは、十分な議論を尽くすことのできる資質をそなえた、人間的に立派な人間であることは勿論のこと、その他の条件も揃っていなければなかなか成立することではない。それゆえに、いろいろと理由をつくって、どうしても楽な方へと流されがちになってしまうと思う。
 そうしたこともあって、結局は議論を尽くすということがなかなかに難しいこととなっているように思う。そもそもそうした意味で人間的に立派な人を、どのように判定したものやら。
 だから、どうしても「差別」であることの指摘で決着感を漂わせたい人たちが多くなる。そうしたよくない風潮が許されているわけではなのだけれども。
 そのように、「差別」であることを指摘することに重きが置かれて、それが最終的な決まり文句のように使用されていく向きが、風潮としてあれば、それは警戒すべきだろうと思う。もしかすると、作戦として相手の出鼻をくじくために、最初の段階でその決まり文句を使うのも面白いなどという、不心得の人も出ることもあるかもしれない。
 百歩も千歩も譲って、その他にやることがないという状況ならば、それはそれで仕方なく仮によしとするにしても、話す内容に進展がないままに、差別であることの指摘に終始し、結局は最後の決まり文句として再登場させ、「それは差別だ!」とやって、後は相手の様子を見るのだろう。
 もし、うまく土俵に乗ってくれて反応してくれれば、それに対して「言い訳に過ぎない。」とか、その反応の中から新たな言葉狩りをし、見つめなくてはならない問題点に加えて、対応する姿勢の問題や、根本的な考え方に問題があるなどとして、実際の解決が長引くような発言をし、その間、終始優位に立っているかのようなポーズを示すだけであれば、無価値な活動だ。
 それは、問題解決のための分析はどこへやら、問題のすり替えに移行するというパターンだ。本当に「差別」を無くそうと地道に飛び回っている人たちの邪魔になっているとは知らないパターンでもあろう。まさか、自分たちがその張本人だとは思っても見ないだろう。
 それは、マイナスの意味合いを持った「差別的要素」を指摘されて、そのまま劣勢に立つかのような振る舞いをして決着感をだしてしまう受け手のほうにも問題があると思う。
 どちらにしても残念なことに、逆説的なようだけれども、これは「許されないタイプの差別」を無くそうとする動きに水を差すことになる可能性がやはり高いように思う。「それは差別だ!」と強く非難されて、単純に黙ってしまうのはまずいだろう。誰もが「許されないタイプの差別」を推し進めようとして頑張っているわけではないからだ。そこに「それは差別だ!」と内心勝ち誇ったかのように、「この紋所が目に入らぬか」的なことを言われてしまうと、勝ち負けの問題ではないのだけれど、事実とは異なるのだけれども、勝ちを取られたような気分になってしまい、気分が悪くなるからだ。何をしても反論しようとするに違いない。反論の機会がなければ、反論したのと同じ効果が上がる方法を見つけるだろう。
 人間の強い動機というのは、案外とそうした些細なところ、そして本筋とは異なるところにあるような気がしてならないが、どうだろうか。お互いが似たり寄ったりの動機でぶつかり合っている可能性も想像すると、何とも言えない気分になる。
 しかし、諸行無常とはよくいったもので、「差別」という一単語で相手が黙り、「だから、これまで言ってきたことの全てが正しいとのだよ」という顔をしても、それを見た周囲の人々がとにもかくにも「なるほど」と単純に思ってくれるような時代は、とうの昔に終わりを見せ始めている。今はただ、そのような昔の幻想を持ったまま生きている人が、時代の流れを読まず、自分の「もう今となっては変えられない信念」に従って、自分が任務と感じていることに力を注いでいるだけという状況に次第に変化していると言ってよいように思う。ただ、それはある意味で重要なことだと思う。普通ならば、いとも簡単に心変わりをしてしまうものだからだ。
 変える人、変えない人、変わってしまう人、変えられてしまう人、どのような現状を受け入れる感覚を持っているかというのは、人それぞれだ。それで、そのそれぞれの感覚の持ち主が入り乱れているのが現実だ。
 その現実が世の中をつくっていて、その中で人間が育ってきたのだから、いろいろな感覚の人がいるのが、自然な状態なのだと思う。それを統一するというのは、好ましいことのようで、実は強制的で、その強制的な中で無視されてしまったものこそ、意外と人によっては大事なものだったりする。何より、強制的で困るものは、相当に頭がよくないと、一見してよいと思ったことも、また最新式の手段も、間違った結果を生み出してしまうてしまうように思う。
 今は、「差別」であると指摘してからの、「差別」の分析から始まる話の展開がなされていかなければ、単に偽物がポーズをとっているだけか、注目されたいためだけに社会的問題である「差別」を話題にして声を荒げているだけという印象を持たれてしまう。頭の中で時計が止まるということは確かにあるということだ。こうした状況に気づかないという神経が、「許されないタイプの差別」を無くそうとする動きに水を差していることにも気づかない神経と共通しているのかもしれない。もし、気づいていたうえで、そうなのであれば、効果の有無は別として相当のワルだということになってしまう。したがって、気づいていないのだろうと思う。
 これまで、文学的にも、文法的にも、省略をよしとしてきたような日本語だった。しかし、時と場合によっては、そのような日本語独自の本質的なものにかかわる流れとは逆に、日本語の豊富な意味合いを、緻密に使い分けることを目的とした「日本語の使い方の心得」を考えた方がよいのかもしれない。
 「差別だ!」のような大雑把な短い語句で指摘したり、挑発したりする態度を成立しにくくすれば、分析的話し合いの展開から合理的な解決の道を探ることを、人々が選択することが期待できるからだ。
 差別撤廃の道は、大見得切って大上段に振りかぶった戦法だけでは、作用反作用がはたらいて膠着しやすくなり、解決しなくなる。もっとも、当事者は直ぐにでも解決してほしいのだが、実際の被害と解決が長引くことによる利益とを比較したとき、もしプラスとなる場合の人であれば、どちらかというと容易に解決しない方がうれしいだろう。
 人によってはマイナスとなる場合の人も当然いるだろうから、そこが難しいところだと思う。公の予算に組み込まれるところまで行けば、勝利だと思っているのだろうが、何に勝利したと思うのだろうか。
 問題解決のために、大上段に振りかぶって構え、周囲の目を引くと同時に、自分の立場を示して不退転の覚悟をもってもらうためでもある。だが、それは問題解決の準備にしかならない。準備だけなら、解決しないので、長引かせることができると踏んでいるのだろう。そんなことは勿論おくびにも出さないはずだが。だから、本物と偽物との区別がつかないのだ。ただ、偽物ほど本物らしく振る舞うという原則は、やはり当てはまるのだろうとは思うが、どうだろう。
 そうした示威行為は不可欠ではあるけれども、最低条件に過ぎない。本当に解決していこうと思ったら、搦め手からいろいろに手を尽くさないと無理だ。ただ、そのようにしていたとしても、差別撤廃は困難だろう。
 それは歴史があるからだ。歴史があるということは文化化されてしまっているということだ。それはものの見方や考え方に染みついているということだ。だから、困難を極めるだろう。
 文化は廃れるものだ。何とかなる。しかし、廃れはしても姿を変えるだけのことが多くはないか。また、廃れずに意味合いを変えて生き残るということもあるだろう。どちらにしても一筋縄ではいかない問題であることは確かだ。これにお金が絡んでくると、またややこしい問題になってくる。困ったものだ。
 では、今後はどうなるのだろう。もしかすると、「見世物文化」というものがあるとすれば、それは何に引き継がれているのだろうか。
 一つは、映画だろう。テレビや映画が最も色濃く「見世物文化」を継承しているように見える。ただ、テレビは生であることもあるが、映画の生はないので、この点ではテレビのほうが「見世物小屋」に近い。しかし、チケットを買って入場するという点では映画のほうが「見世物小屋」に近い。
 これ以上言うと、文意を解さない人や「見世物小屋」や、そこに出て働いていた人たちに対して差別的な見方をしている人が、「テレビや映画を見世物小屋扱いする気か。では、出演者は見世物か。差別だ。」と言い始めることがある。僕は平等に見ているのに、基準が違うため、その平等に見るということが、逆に差別であると感じてしまう人が、まだいることも確かなのだ。
 しかし、それは仕方ないことだ。自分の中に差別的物差しを持っている人は、そのもの差しを標準とするために、他の人も同じ物差しを持っていると思い込んだり、現実を歪めて見てしまったりすることがあるからだ。それは基準の問題だから、お互い様ということになる。
 だが、大勢の中ではどうかといったら、話が変わってくる。自分の基準がどういう評価を得られるかという問題になると、お互い様ではあるけれども、評価は変わってくる。そこを自分の視点だけでなく、相手の視点や、大勢の流れという視点など、いろいろな視点で、自分の物差しを見つめることができるかどうかということが大事なことになってくる。今後がかかっているのだ。勿論、自分や相手や大勢の今後ではない。差別されていると見られる、その差別の対象者だ。
 「べらぼう」は、どのような目で見られていたのだろうか。
 「べらぼう」を見た衝撃で皿のようになった驚嘆の目か、異形の者である「べらぼう」を愛でる眼差しか、「べらぼう」に対する情報を知りたく思う好奇心の目か、こうすれば「べらぼう」はもっと人気が出るのにとか、どこで手に入れたのかというような見世物関係者による職業的な目か、「べらぼう」の家族はどんな思いをしなくてはならなかったのだろうかと心配する家族の目か、「べらぼう」がこうなった原因は何かという原因追究の目か、「べらぼう」は中に人間が入っているのではないかという疑念の目か、「べらぼう」の境遇を察しての悲哀の目か、「べらぼう」に自分を重ね合わせて見る自己投影の目か、「べらぼう」と出会えた感謝の意を込めた謙虚な目か、見世物小屋に反抗的でない「べらぼう」に対する不満の目か、「べらぼう」が見世物小屋だけにいてくれる存在でよかったと安心する安堵の目か。その他いろいろな目で見られたであろう。
 それに対して親方はどういう目で見られていただろうか。
 差別意識の発生や虐待を心配して「見世物反対」を叫ぶ批判の目か、大人気の「べらぼう」を手に入れたことに対する職業的な羨望や嫉妬の目か、興行的に成功している姿を見て自分も親方のように「見世物小屋」の親方になりたいという憧れの目か。これもその他いろいろな目で見られたであろう。
 つまり、十人十色なのだ。だから、必要なことは言葉を尽くして話し合うことと、そして行動に移していくという展開を持つことや、展開されていく仕組みを作っていくということが重要だということだ。
 もし、その中で「許してはいけないタイプの差別」が見つかれば、許さないための具体的な方法を工夫して施せばよい。
 まず必要とされるのは、たとえば修飾語や、修飾語のはたらきをする語句をわかりやすく、美しく付け加えていくことのできるような発達を遂げていくように、日本語の使い手である僕たちが心がけていく時代の到来だ。それが十分に展開されないと、「差別問題」の解決も難しそうな感じがしてかなわない。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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