変な疑問277「< べらぼう >の語源の珍説出せるか」⑰

 すると、やはり「許されないタイプの差別」については、もう少し思いを巡らせなくてはならない。
 過去に多大な不利益をもたらした「許されないタイプの差別」は、偶発的で単発的で個人的なものや、意図的で継続的で集団的なものなど、いろいろなスタイルがあったことだろう。どんなスタイルのものであったにしろ、それらの「許されないタイプの差別」や、その累積は、印象が強いため、記憶の中で何度も反芻される。
 中には、時間がその苦しさを解決してくれる人もいるかもしれない。しかし、経た月日の分だけ反芻される回数も増え、それだけ苦しさも増していく人のほうが多いのではないだろうか。 
 では、「許されないタイプの差別」には、どのような種類があるのだろうか。そして、なぜ、そのような差別をする必要があったのだろうか。例によって、十種類想像してみることにしよう。

① 身分の違いを根拠とした差別
 身分の違いを根拠とした差別のうちの「許されないタイプの差別」は、よくある見られる差別であるように思う。
 勿論、だからといって身分の違いがあってはならないと結論づけるのは、論理の飛躍というものだ。また、身分の分け方自体が差別的である場合と、そうでない場合とを一緒にしてしまうのもおかしい。
 その身分が社会制度的なものであれ、伝統的なものであれ、勝手な思い込みのものであれ、許されないのは、身分の違いによって不当な不利益がもたらされることなど、あってはならないということだ。
 身分の違いはあって当然だ。この時に身分というのは、社会的な制度上の身分だけでなく、人々が実生活で感じたり、また幻想したりする身分も含めての身分だ。
 その身分を分けるものも、身分制度によるもの以外にいろいろある。過去の栄光の度合いや不名誉の度合いによる血統の違いによるものであったり、職種そのものによる違いであったり、職場の中の役割の違いによるものであったり、個人の能力の違いによるものであったり、経済力の違いによるものであったり、才能の違いによるものであったり、年齢の違いによるものであったりと、いろいろだ。人間というのは実に面倒で厄介なものだと思う。
 その身分を分ける要素の中の何がどのように組み合わさったものであるかによって、随分と違う話になっていくように思う。さすがに最近は、それらの要素を十把一絡げにし、説明を受ける前から単純に「身分差別だ」と乱暴に決めつけ、とりつく島もなく「差別は差別だから駄目だ」というような、大雑把なことを大声で言って誰からも相手にされなくなる、という愚を犯す人も見かけなくなってきた。
 そうした愚を犯さないために、多面的なものの見方をするように皆がなってきたのは、情報源が新聞一本槍という人の減少による影響も大きいと思う。一生懸命なつもりが、結局は不当な差別を無くす努力の邪魔になるというありがた迷惑な人の減少は、差別のレッテル張りの単純作業を鈍化させ、きちんとした問題可決の長い道のりを歩もうとする人々に対する再評価を促すことにつながるよいことだろうと思う。
 確かにその他、身分の違いと、身分の差と、身分の違いによる差別と、身分の差による差別と、身分の違いによる差別のうちの「許されないタイプの差別」と、身分の差による差別のうちの「許されないタイプの差別」なども、それらが混同されている場合は、さらに事が面倒なことになってしまう。
 そのため結局のところ、「差別」の香りがするものを見聞きしたら、とにかくすべて「差別問題」とするという方向に流れやすい。しかし、それは悪手だ。
 ともかくすべて否定しておけば、取り敢えずは間違いないだろうという気持ちはわからないでもないが、それでは根本的な解決どころか、見かけ倒しの実のない解決だけしか期待できない。否定すべきものは、それらの中に含まれている否定すべきものだけで、似ているものや関係するものまでも同罪だとするのは、もしそれが人であったとすれば、紛れもなく冤罪だ。
 つまり、”Don’t throw the baby out with the bathwater”を念頭に物事を見つめて仕分けなければ、ついうっかりと、とんでもない取り返しのつかないミスをしでかしてしまうことから逃れられないということだ。
 「差別問題」に限らず、大勢の人が口をそろえて同じことを大合唱でもの申されるときは、それは特に気をつけなくてはいけない留意点だと思う。
 「べらぼう」には、「見世物キャラクター」としての身分がある。その身分に応じた待遇があり、その待遇が適切な種類であり、同時に適切な程度のものであれば、問題は無い。ただし、「見世物キャラクター」という身分が、「べらぼう」の意に反して不当に強制的に与えられたものならば、大いに問題がある。

② 性の違いを根拠とした差別
 社会的な身分というものにまつわる、所謂「身分による差別」とは少し毛色の違う、生物としての性の違いを根拠とした差別のうちの「許されないタイプの差別」だ。これも伝統的な差別で、よく見られるものだ。
 社会的な身分が時とともに変化したり、相対的に逆転したりすることが往々にしてあるのに対し、人間の性の違いは、性転換手術をしたり、その流れなどで社会的な手続きをすることによって意図的に変更したとしても、意識の上や肉体の形状的に改変があったとしても、つまり表面的な改変があったり、なされたりしたとしても、根幹となる遺伝子レベルでの変更を改変することは、今のところできない。Y染色体が余分にあっても、だからといってそれを取り除くことは、今のところできないのだ。
 そうした遺伝的な性別の違いを根拠とした差別のうちの「許されないタイプの差別」には、どのようなものがあるのだろうか。その主たるものは、正常な遺伝的なものが原因となる、性差にかかわる目に見える肉体の形状の特徴を根拠とする差別のうちの「許されないタイプの差別」だろう。中でも遺伝子の異常によって通常の範囲内における性差の特徴の際だった差異とは異なる根本的な差異、たとえば体の左右で性別が異なるなどの異常な特徴を根拠とする差別は、本人の努力によって修正しがたいものであるとともに、一目瞭然で隠しようがないものであるがゆえに、本人が不利益や不都合を感じているとすれば、「甚だ許されないタイプの差別」と言ってよいだろう。
 また、精神的な性別の違いを根拠とした差別のうちの「許されないタイプの差別」には、どのようなものがあるのだろうか。これは肉体的な性別との不一致による特徴が、どのように出現しているかによって、それを根拠とした差別があろう。そのうちの「許されないタイプの差別」は、やはり本人の努力によって修正しがたいものではあるものの、必ずしも隠しておくことができないものではないゆえに、その隠し方や、隠すことによって起こる反動などが生じ、そうした二次的な不自然さに対する違和感を根拠として「許されないタイプの差別」が行われることはありそうだ。
 一方、これらのような遺伝的、精神的なものではなく、社会的な性差にかかわるものも加わってくる。なかなかに難しい問題だ。それは伝統的なものであったり、勘違いによるものであったりと様々で、一括りにしてしまうと対処できないようなものになってしまう。遅々として「許されないタイプの差別」が改善されないかは、「推して知るべし」だ。
 「べらぼう」は、この手の差別については関係なさそうだ。「べらぼう」以外の「見世物キャラクター」にしても、そうだろう。
 この手の差別は「見世物小屋」という特殊な環境の中にではなく、日常生活の中で、あるいは一般的な仕事場で、あるいは一般論としての性別の認識において存在しているものだろう。「見世物小屋」における「許されないタイプの差別」というものは、果たして存在するのだろうかといえば、それは通常ならなさそうだ。
 「見世物小屋」で「見世物キャラクター」を演じる場合、それは個人的なショーであって、殊更に男性や女性を蔑視するようなパフォーマンスやキャラクター設定などが仮にあったとしても、あくまでもそれは設定に過ぎない。勿論、その設定がその「見せ物キャラクター」に対する不利益を与えるものであれば話は別だ。しかし、閉ざされた「見せ物小屋」の中で繰り広げられる世界は、仮初めのもので、社会的にその価値観を広げようとしたり、押しつけようとしたりするものではない。
 もし、「見世物小屋」の「見せ物キャラクター」として、髭もじゃの女性が出てきたり、女性のバストを持つ男性が出てきたりしても、それは性の違いを根拠とした差別とは言えないだろう。普通ならあり得ない性的な特徴こそが彼らの売り物で、「見世物小屋」で出ている以上、そこに価値があると自他共に認めるものとなっているからだ。
 問題があるとすれば、出演の強要とか、パフォーマンスのあり方の強要というようなレベルのところにある問題だ。
 とにもかくにも、(昔の)アメリカ合衆国で黒人の入れない店があったのと、男性は女性のトイレに入れず、女性は男性のトイレに入れないのとは、全く違う問題であるのに、そうではない面もありそうだということや、女装の男性と男装の女性とは扱われ方がかなり違うということの原因や、男女の賃金格差の原因など、考えた方がよいことが多すぎる。
 江戸時代までは、つまりつい最近までは、恐らく日本中が男女混浴で、いろいろな面で合理的だったところ、明治時代からは、政府が外国人の目を気にして混浴を厳しく取り締まったので、いや恐らくは外国人に「文明人」の風習ではないなどと指摘されてだろうけれど、それで男女を分ける風潮が日常のレベルで色濃くなっていってしまったと思うのは単純だろうか。
 しかし、国家レベルで風習を改変する不自然を行ったのだから、何か副作用が出たはずだ。これに富国強兵の政策の影響で、血で血を洗う戦争に大量の男性がかり出される時代の到来、女性が工場の労働力となって軍艦建造費を稼ぐ時代の到来、大陸譲りの男尊女卑の儒教思想の日本的展開など、いろいろな背景があって今日に至っているのだから、問題として理解すること自体がなかなか骨が折れそうだ。
 
③ 身体的特徴の違いを根拠とした差別
 極端な体形や皮膚の色の違いなど、身体的な特徴の違いを根拠とした差別のうちの「許されないタイプの差別」だ。
 足の大きな人に大きな履物を用意するのは、当然の配慮だ。それに対して、足の大きな人に皆と同じは着物を用意するのは、「許されないタイプの差別」だ。また、装飾品を設計するとき、肌の色で差別化するのは当然の配慮だ。同様に、顔色の変化を測定して健康管理のデータの一つとするソフトがあるとすれば、センサーを肌の色別にするか、ソフト上で別に処理するしかないだろうけれど、この差別化も当然の配慮だ。
 容姿の美しさや筋肉の美しさの序列は、差をつけた結果のランキングそれ自体には問題がない。学校での成績順位、会社での成績順位、国際社会での各国の各種順位、ネット通販利用実績のランキング、選挙の投票数順位、ファン投票の順位、結婚相手の選択順位、各種競技の順位等々と同じで、必要な人には必要なものだ。そして、ランクアップをするための努力や競争をするのもしないのも当事者次第だ。
 だが、そのランキングを悪用して当事者に不利益を与える動きが生じるようなことがあれば、それは「許されないタイプの差別」だ。本当のところは、「許されないタイプの差別」そのものではなく、悪意をもってそれをなそうとするための根拠、もしくはきっかけとされる可能性のあるものということだ。
 こうした身体的な特徴の違いを根拠とした差別のうち、「許されるタイプの差別」と「許されないタイプの差別」となるかの境目は、やはり見た目の違いが中心となる。見た目をどう受け取るかは流行性があるだけに、どちらに転ぶかは微妙なところだ。
 たとえば、男女の美醜の基準は時代によって異なる。つまり、流行性があるということになる。しかし、その異なり方の域を超えた身体的特徴を持った場合、なおさら流行性が高いものとなるかといえば、それは疑問だ。
 微妙な異なり方であるがゆえに、流行が生まれると考えた方が自然だろう。微妙な異なりであるために、流動性が保たれ、美しさの域を流行しながら、そこからはみ出ることがない。
 ところが、その流動する域を遙かに超えた身体的特徴を持っていた場合、流行性は失われて固定されてしまうだろう。流行の領域から見れば、絶対的な領域ということになり、そこに不動の位置づけをされてしまうのだ。腕が三本あるとか、一つ目であるとかだ。植物でいえば、三つ葉のクローバーの中の四つ葉のクローバーが身近だろう。爬虫類なら、双頭のトカゲ、三ツ目の蛇とかが見つかったニュースなどは時折耳にすることがある。それらはすべて流行せず、特殊な地位に固定される。
 これらは、見た目の印象によっては、悪魔扱いされたり、逆に神扱いされることがある。見た目ではないものとしては、その時の社会的必要性に応じて対処され、ある時は抹殺され、またある時には逆にかつがれて崇められるだろう。
 たとえば、白蛇などは、形は同じで色だけが違うので、受け入れられやすく、しかも存在が稀であるということと、「白」という特別な色であること、「蛇」という他の動物とはかなり異なる体の構造をもっている特殊な動物であることなどが幸いし、神、それも家の守り神などとして大事に扱われる。当然、
 これが特別な姿の人間であれば、どのように特別であるかにもよるが、神扱いされるはずだと思う。それは単に遺伝子の異常であるのかもしれないが、その異常の背景に大いなる神とか天とかの意思を認めたものだろうと思う。その特別具合によっては、天罰と捉えられて迫害されたり、天の息のかかった天に準ずる存在として捉えられて崇められたりすることになるだろう。
 それが肉体的欠落や変形であれば、天罰の可能性を感じるだろう。罰によって奪われたということだ。逆に肉体的過剰であれば、天から与えられた褒美と解釈され、天恵の類を感じるだろう。ご褒美にもらったということだ。勿論、何がどのように過剰であるかにもよるだろうけれど。過剰の具合がよければ、天から与えられたのではなく、天の某かの生まれ変わりとか、そのものの出現と捉えられる可能性もゼロではないだろう。
 これは「見世物小屋」の「べらぼう」に最も関係してくる可能性のある差別だ。普通の人間と比べたら一風変わった「べらぼう」の容姿や仕草が書き残されているからだ。その記述は「全身黒い」「目が赤い」「頭がとがっている」「猿に似たあご」「愚鈍な仕草」とあり、笑われる存在だ。それが本性であるのか、作り物なのか、着ぐるみによる演技なのか、何なのかわからないが、笑いをとるということで人気であったようだから、崇められる存在ではなかったということは確かだろう。

④ 宗教の違いを根拠とした差別
 宗教組織による「許されないタイプの差別」が行われることがあるので、被害者は相当の数に上り、被害の程度も甚だしいものとなる。集団ともなれば、群集心理によって酷い虐待がなされることも考えられる。
 宗教に基づく信念のもとになされるものなので、それは凄惨を極めることになることが予想される。なるほど、宗教の力というものは大きなものになるわけだ。少し歴史を振り返れば、無数の事件がこれ見よがしに林立していると言ってもよい。
 現存する全ての宗教を踏まえ、且つ全ての宗教を越えたもの、その宗教ならぬものが、この世に生み出されるのを待たねばならないだろう。そうでもなければ、全人類が目覚め、宗教の血塗られた過去を悪夢として拭い去ることなどできないだろうと思う。
 どうせお互い親から受け継いだだけの宗教なのに、それが異なる宗教だからという理由で迫害するのは、「許されないタイプの差別」の結果だ。宗教がらみの差別は、そもそも差別する根拠がなさ過ぎる。
 これほど愚かなことがあろうか。宗派ができるのは、開祖の御心を正確に理解することのできない者たちによって受け継がれたため、ばらばらになってしまったからだろう。何と罰当たりなことだろう。
 組織の内部で対立があるのならば、双方が他の宗教名を名のるようにすればよい。こだわって名前を継ごうなどとするからおかしなことになるような気がする。勿論、お互いに名称を変えなければ、それが原因となってまた争うことになるだろう。開祖様が見たら大いに悲しむだろう。エネルギーが内部で消耗され、研究にも布教にも熱が入らないに違いない。
 多くの宗教、多くの宗派が存在するのは、言葉の種類が多いのと似た理由がやはりあるからかもしれない。今や二か国語以上話せる人々が増えてきているのだから、幾つかの宗教を理解し、互いに寛容な心で見守り合う姿勢を持つというのが、本当の宗教だろう。それができないような宗教ならば、新しい世界における宗教としては改善点があるということになる。改善が無理なら、脱皮するか、創始するかだ。
 そもそも宗教というのは、狭いところで成り立ってきたものが、広いところでも通用しなくてはならなくなってしまって不都合が生じるものだと思う。ローカルなものが全体化する過程で衝突するのは当然で、その問題をよりよく解決できる力の無い宗教は、もう既に役目を終えたということを意味する。新しいものに脱皮する必要があるということだ。役目を終えたものや、脱皮できないものに、人々の心をつなげてしまうのは、大罪だと思う。
 「べらぼう」が人間であるとして、何かの宗教に入信していたとする。その宗教で禁じられていることを「見世物小屋」で「べらぼう」が強要されていた場合、適切な配慮がなされていないのだから、それは別の宗教を信じている親方などによる「許されないタイプの差別」だと言ってよいと思う。同様に、その宗教でなさねばならぬことが「見世物小屋」では許されなかった場合もだ。
 「べらぼう」が人間でなければ、宗教心はなく、全く問題ではないということになる。ただ、「べらぼう」の中身が通常の人間という可能性がまだ残っている。これは誰もが欺かれていれば、もともと差別でも何でもない。問題は、それが他人から強要されている場合だろう。
 「べらぼう」以外のものを演じたいのに、親方や他の「見世物キャラクタ-」たちが信じている宗教とは異なる宗教を信じているために、仲間はずれにされ、希望も叶わず、嫌でたまらない「べらぼう」に扮してのパフォーマンスを、その一人だけが強要されているという場合、これは「許されないタイプの差別」に当てはまるだろう。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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