変な疑問281「< べらぼう >の語源の珍説出せるか」㉑

 さて、日本の標準語を日本国内に広める過程で、きたない方言を使うのを止めましょうという珍妙な宣伝を国が率先して行うというような不見識は、さすがにあるはずもなかろう。しかし、標準語を広めるという国の意向をよく忖度すればよいものの、その広まりを急がねばならぬと悪しく忖度した無教養は、いずれかの部署や団体ではあったかもしれない。
 「べえ、べえ言葉は止めましょう」ぐらいの穏当に聞こえる宣伝はあっただろうが、そうした方向性は自動的に展開していった挙げ句の果てに必要以上に高じてしまい、程度の甚だしくなった方言撲滅運動的な宣伝がなされるに至り、方言を話すことは恥ずかしいことだという意識を持つ人までもが出てくる始末。
 そうなったのは、自然の成り行きだったかもしれない。当時の上意下達の多くは、新聞やラジオや学校教育に依らねばならなかった時代だろうから、そのあたりの手のいれようの痕跡となるような何らかの記録は案外と残っているかもしれない。
 新聞もラジオも学校も、当時は権威の一つだっただろうと思う。現代でも、なぜか新聞社主催のコンクール類が何かとたくさん存在するのも、その名残だろうと思う。また、どこの学校を卒業したかということを頻りに気にする人がいるのも、その名残だろう。
 そのような存在が推奨するものは、正しく、美しく、立派なものであるはずだという頭があった。そのような思い込みに近いものが、人々に共通の意識として存在する場合には、とある何かを徹底させようとするときには、非常に役に立ったと思われる。
 しかし逆に、そのような存在が推奨しないものは、正しくなく、美しくなく、立派なものではないという感覚も育っていってしまうことになる。これは方言蔑視の原因の一つの種になった可能性がある。
 もしかすると、標準語というものを正確に話すことができる人が最初は少なかったために、稀に標準語を正しく話していると評価された人が、「綺麗な標準語ですね」と賞賛されたという時期があったことにヒントがあるかもしれない。賞賛の言葉が他の人の人の耳にどう聞こえたかという問題があるからだ。
 ある人の耳には、「あなたの話す標準語は、他の人が話す標準語よりも、綺麗な標準語ですね」という意味合いに聞こえたかもしれない。
 しかし、別の人の耳には、「あなたは、きたない方言とは違う、綺麗な標準語ですね」と聞こえたかもしれない。
 つまり、「綺麗な標準語ですね」という言葉足らずの表現によって、「標準語イコール綺麗」という感覚が確立してしまったかもしれないということだ。
 そして、その裏には、綺麗なものは価値が高く、価値が高いものは広まる力があるという感覚、そして新聞や学校といったある種の権威が推奨するものは正しく、広められるべきだという感覚が人々に共通していたという実態があっただろうということだ。
 それから時が経ち、標準語と思しきものを話す人が増えてくると、多勢に無勢で方言を公の場面で話す人が減り、「綺麗な標準語ですね」という賞賛の言葉の意味合いが、ますます「標準語イコール綺麗」という意味合いに加速していっただろう。
 そうした変化の中で「言葉がきたない」という言い方も生まれてくる。「標準語に慣れてないために、まだきたない標準語しか話せない」という意味合いなのか。「方言というきたない言葉で話す」という意味合いなのか。
 これらの意味合いも、「綺麗な標準語ですね」の場合と同じようなことがおこり、結局は「方言はきたない言葉だ」という意味合いに落ち着いていってしまったようだ。
そもそも方言がきたないと感じる人は、標準語と比べて何を感じているのだろう。
 それは清音と濁音の割合の違い、そして促音や拗音の割合の違いが、そのように感じさせるということもあるのかもしれない。
 「濁」は「にごっている」、「促」は「つまっている」、「拗」は「ねじれている」と、マイナスの意味合いをもっている。これは最初から変だという見方で見られているのも同然だ。方言は確かに「濁音」や「促音」や「拗音」の割合が、比較的多いように思う。
 また、標準語は官製のものであるから、良いもの美しいものという価値を最初から持っているものの、実際にそうした価値を認められる要素を持っていなければ、広まらないという事情がある。
 もう一つ考えておかねばならないのは、標準語を普及させようというときに邪魔になるものが、歴史的に、文化的に、生活文化的に土地に根付いている方言であるという事実だ。
 そうなると、標準語を普及させるためには、その土地土地の方言に対して、良くないもの、きたないものという評価を与えざるを得なかったということがあったであろうという想像がつく。
 そうなると、標準語を広める時期には、特に意図的に方言使用者を貶める風潮が広まった可能性が高い。
 方言を使うと罰を与えられたり、それが原因でいじめられたり、からかわれたりすることも多かったように聞く。それはそのまま「許されないタイプの差別」を生み出したに違いない。
 どの方言を使う土地で生まれたかという事実は変更できないものだ。だから、生まれた土地と強く関係する方言の使用を根拠として、本人が不利益を被るのは許されないことだと思う。
 日常使う言葉の問題なので、日々の言語生活の中でできるだけ標準語を話そうと努力する人も出てくるはずだ。また、そうした努力はまだしていないが、方言を公の場で話すことが恥ずかしいことだという世の中の流れを感じて、自分もそのように恥ずかしく思う人も出てくるはずだ。
 そうした人々の一部にもご多分に漏れず人間のできが悪い人もいて、他人の話し方や言葉が標準語から外れているのを耳にしたとき、自分のことは棚に上げ、その片言隻語を指摘して馬鹿にしたり、非難したり、それを契機に、いじめたり、いじったりし始める人も出たであろうことは想像に難くない。
 また、人間のできの良い人も、とある方言が自分が理解することのできる方言である場合は、自分が話しているかのように恥ずかしくなったり、自分が理解することのできない方言である場合は、「あの人たち、いったい何を話しているのだろう?」とか、少し風体が悪ければ「あの人たち、何を企んでいるのだろう?」という不気味さを感じたりすることもあったであろう。
 お国訛りという言葉がある。「言葉は国の手形」というが、故郷を誇りに思う気持ちが、そこには込められている。いつからお国訛りである方言が、マイナスのイメージを背負わされたかといえば、当然、標準語の普及のためのキャンペーンの過程においてであろう。
 ただ、いろいろな地方から来た人が一緒に仕事をしたり、作戦を遂行しようということになれば、互いに己の方言を話していては不都合が起こるのは確かだ。うまく標準語に近いものを話せないと、仕事の邪魔になるどころか、命を危険にさらす可能性も高い。そこまでいかなくとも、全国展開しているような会社であれば、標準語も話せない社員がいるということになると、イメージダウンにもつながるとの内部評価を少なくとも受けることになったであろう。
 例外として、方言が功を奏することがあるとすれば、敵の捕虜となり、拷問にかけられても、方言がきつすぎて話す言葉を敵が全く解読できないということぐらいだろうか。
 多くの場合では方言の混在によって共同作業等に実害が生じるということになると、誇らしきお国訛りである方言に対する不当な差別が正当化される風潮が生まれるだろう。すると、そのお国訛りを操る人をも不当に差別する風潮も生まれたであろう。
 それは実害がある人にとっては仕方ない面もあったかもしれないが、方言だけでなく、人までを不当に差別するということが一般化すれば、その人が活動する場はともかくとして、そこから何ら実害がない場所の人に対してまでも、その不当な差別が波及していったであろう。そして、最終的にはいつの間にか言語による「許されないタイプの差別」の温床が、常識の如くに広がっていった可能性が高いように思う。実際にはどうだったのだろうか。
 逆に、現在は標準語が浸透してきて、逆に方言が重宝される時代になってきている様子も見られる。それは戦争後に人々が官製のものから解放されていく過程で次第に形をなしてきた傾向であるように思う。もっとも、調査したわけではない。ただ、映画やテレビやラジオから流れてくる人々の話し言葉の変化を、年代順にたどったときに受ける印象として、そのように思うだけだ。
 どんなものにも役割がある。どこか折り合いのつくところで、揺れながら標準語と方言は共存していくしかないだろうと思う。
 さて、もともとお国訛りは、お国ごとに差別化されていった言葉だ。それはどのように差別化されたのだろう。そして、「許されないタイプの差別」はどのようにして生まれたのだろう。
 まず、言葉は分断化によって差別化されていくはずだ。それはどのようなものであっただろうかと想像してみる。

① 地形による分断化
・交通網と通信網が発達している分だけ、分断化が緩む。
・交通網と通信網が未発達である分だけ、分断化が進む。

② 長命化による分断化
・長命化が進んで家に引きこもる期間が長くなるほど、分断化が進む。
・長命化が進んで移住範囲や活動範囲が広がるほど、分断化は緩む。

③ 政策による分断化
・政策で行動範囲を限定する傾向が強いほど、分断化が進む。
・政策で行動の自由を保障する傾向が強いほど、分断化が緩む。

③ 世代間の絆の強さによる分断化
・三世代同居、二世帯住宅、地元企業への就職が増えるほど、分断化が進む。
・核家族化が進み、テレビの影響が相対的に高まるほど、分断化が緩む。

④ 地方の活性化による分断化
・人口が首都圏にあまり集中せず、地方が活性化するほど、分断化は進む。
・現在のように首都圏に人口が極端に集中するほど、分断化は緩む。

 他にもあるだろうが、今はこれしか思い当たらない。次に、こうして分断化した後の差別化はどのようなものであっただろう。適当に想像してみる。
 国土のほとんどが山である日本の場合は、結果としてほぼ地形という自然由来の原因によって言葉が分断化され、それぞれの土地でガラパゴス化する力が大きくはたらいてきたように見える。
 昔の国ざかい、今の県境、実際の境界線ができたのは、軍事的な理由の境界線が自然と山や川となったり、交通の効率を確保できるまとまりの限界の地域同士が周囲との折り合いでできた境界線であったりする。
 人々はその境界線内で暮らすなかで、話される言葉が長い年月をかけて独自に変形したり、独自に進化したりして、地域の生活に合ったように言葉が醸成されていったはずだ。それが、お国訛りというものだろうと思う。
 勿論、お国訛りといっても、所謂訛りであるアクセントやイントネーションの異なりや名称の違いなどの単語の異なりにとどまらない、言葉の全般、つまり方言のことだ。
 それぞれの方言は、それぞれの土地土地で使用者が互いに了解しながら一括りの「ものの言い方」として成立していったものだろう。己自身が独自に成長していった結果としての差別化であって、意図的な差別化ではないのが基本だ。
 鹿児島弁のように都市伝説的に他国の人に話していることが伝わらないように独特の言葉にしたというような、意図的な差別化の噂をもっている方言もあるけれど、それは事実だと仮定しても例外的なものだ。
 さて、他の地域との間で何らかの利害が一致しない憂うべき状況になると、それぞれの方言の違いは、その言葉の違いを互いに根拠とした「許されないタイプの差別」が生み出されるようになるだろう。相手を貶めるために、方言がダシにされるというわけだ。
 方言を根拠や契機として行われる不当な差別は厄介だ。それは、努力によって別の方言や標準語を使うことができるようになるからだ。
 使えるようになる努力を怠っていることや、努力しても習得できないことを理由として、その意欲や能力のなさを指摘しての蔑視が、そのまま不当な差別につながることがあるのは、評価の問題であるだけに厄介だ。また、何か言われるのが嫌なら正しい言葉を使えばよいではないかという理由が、難なく通ってしまいがちことも厄介なことだ。
 それは努力すれば変更できるものであっても、「許されないタイプの差別」がなされた時点でアウトだと皆が思わねばならぬことだ。なぜならば、標準語を十分に話せないことは、本当は何ら問題の無いことだからだ。ある程度話すことができれば、共同で作業をすることに支障はないのだ。少しずつ完全でないのはお互い様ということでよいものだ。アナウンサーでも目指すならば別だけれども。
 必要とあらば、翻訳ソフトで対応できるようにすればよいことだ。全く文法の異なる外国語でもある程度は可能なのだから、日本語の方言翻訳ソフトならば可能だろう。
 かつては、アクセントやイントネーションの違いなどがあるという点が、不当な差別の根拠とされることが多くあったに違いない。方言を出すと笑われるというのもそうだ。また、何々方言だからという理由ではなく、方言丸出しで平気でいる、あるいはそれを売りにしているということを根拠とした差別もあったかもしれない。これは今もあるように思う。
 しかし、恐らく戦後は、新しい感覚で方言を捉える人が多くなりはしなかったか、経済が成長し、子供たちが故郷を離れて大学に通うという状況が急に増えていった。そこでは「これって〇〇弁でなんていうの?うちらは〇〇って言うよ。」というような、方言に対する好奇心も、蔑視と同時に芽生えていく環境が増えていったのではないかと想像する。好奇心か蔑視か、どちらに思いを抱くかは、教養の程度によるのであろうが、そんなことをそのときに本人が自覚するよしもないだろう。
 これは仮に言語管理という言葉があるとすると、その言語管理ができていないことに対する低い評価をネタに笑いものにするという、極めて下品な行為だ。
 下品な行為であるということは、「許されないタイプの差別」の一つの特徴だろう。平均以上の人間レベルにある人たちが、「許されないタイプの差別」を思いつかなかったり、思いついたとしても実行するのを思いとどまったりするのは、そうした人たちが、もともと上品な人であるか、あるいは下品な人にはなりたくない人であるからだと思う。
 もし、「べらぼう」が人間でなければ、言語の問題も何もないが、仮に「べらぼう」が精巧な着ぐるみを着込んで人間以外の特別な生き物のふりをしている日本人であったり、その中身が日本語を知らない外国人であったりした場合も、人語を話さない限りは問題ない。唸っているか黙っているかしていればよいのだ。
 しかし、仮に「べらぼう」が、特別な人間であるという設定の場合は、方言がらみ問題が生じる。外国人であれば、通常は外国語を理解するものもいないだろうから、それはそれで問題は無いが、よくある外国語のようなイントネーションの日本語が、一種の方言のように扱われるかもしれない。だが、舶来物好きな日本人は、逆にそれをプラスに価値づける方向に行く可能性が高い。問題は、「べらぼう」が日本人の場合だ。
 たとえば、どこかで聞いたような方言を人間である「べらぼう」が発したら、その方言によって、「見世物小屋」が営業上創作した謳い文句とは異なる「べらぼう」の出自が、お国訛りであるだけにさらけ出されてしまうおそれがある。営業上の経歴を方言に合わせてでっち上げておけばよいのだが、巡業の場所によっては変更しなくてはならない場合も出てくるだろう。
 江戸時代に標準語というものは、まだ存在しないのだから、「べらぼう」を演じるときに標準語を使ってお国を誤魔化すわけにはいかない。かといって、江戸での巡業で江戸言葉を話してしまうと、身近なものに感じられて、普通でない感じをお客さんに与えられない。
 江戸は、今の東京と同じで、基本的には地方出身者の集まりだから、「おや、あのお国訛りは、自分の故郷のものだ。」などと気取られたら、さすがに騙され半分と割り切って見物に来ているお客さんであっても、それはそれで懐かしくはあろうけれども、見世物を見に来た客としては興ざめになる可能性がある。それは避けたいことだ。
 お客さんに「あんなやついたか。噂も聞いたことなかったぞ。」という気持ちにさせてしまっては、今ひとつの見世物になってしまうだろう。
 やはり、「べらぼう」が特殊な人間であるという設定ならば、できるだけ神秘的なほうがよく、その出自も〇〇出身と言われているが、実際には不明であるというぐらいにしておくのがよいだろう。方言を話してしらけさせる可能性があれば、話せないということにしておき、その理由として何か不幸な事件をでっち上げ、それがきっかけで言葉を失ってしまったとか、生まれつき話せないけれども、「天は二物を与えず」ともうしましょうか、こんなことができるのでございます、というような話を最初からしておけばよいだろう。
 仮にその「べらぼう」が、話すパフォーマンスをもっていたとすると、その話す方言と同じ方言を話すお国の人が、一般生活の中で、「おまえ、べらぼうと同じしゃべり方だな。」と蔑まれたり、「おまえも、べらぼうと一緒に働けばいい。ここを止めてくれ。」とパワハラを受けたりして、いわれのない不当な差別、つまり「許されないタイプの差別」を受ける可能性もある。
 また、稀にその逆もあるだろう。日常生活や仕事でいつも蔑まれて差別されている人物が話している方言と「べらぼう」の方言とが一致したとき、「見世物小屋」で働いている「べらぼう」に対してまでも蔑視の気持ちが湧き起こり、「べらぼう」には何の落ち度もないのに、「あいつも仲間だ。やっちまえ。」とばかりに、「べらぼう」に意地悪をする可能性がある。これも「許されないタイプの差別」だ。勿論、親方が「べらぼう」を守ってくれるだろうが、非営業時にやられてしまうかもしれない。
 大人気の「べらぼう」の見学者は多いはずで、その見学者たちの目の前で、そうした意地悪をする人間は、さすがに出てこないだろうとは思うが、あまりにも酷い事件の犯人の方言と一致した日には、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に、捕まらない犯人の代わりに「べらぼう」が白昼であっても標的にされるおそれがある。暴徒に理屈は通じないのだ。
 「切腹」だの「切り捨て御免」だの、恐ろしい制度が存在した時代なのだから、命に対する感覚は、現代人とは大きく違っていたと考えた方がよいと思う。世が世なら「銃刀法違反」「凶器準備集合罪」の疑いのある人間がうじゃうじゃと公道を闊歩していた時代なのだ。
 武士の「切腹」にしても、実際には「斬首」だ。首をすぐに落とさないと、腹を切って飛び出た内臓類を立会人たちに投げつけたり、のたうち回ったりして大変なことになる可能性があるからだろう。「切り捨て御免」など、裁判で事実関係の確認をするなどという手続きがないのだから、もしかすると人違いで一刀両断されてしまう可能性もあるのだ。一般庶民の感覚も尋常ではないはずだ。
 ところで、言語の違いを根拠とした差別のなかの「許されないタイプの差別」には、方言によるものだけではなく、外国語の種類によるものと、言語障害によるものとの二つを加えなくてはならないだろう。
 外国語の種類による不当な差別が起こるのは、どこの国の言葉かということがわかっている場合が多い。誰も彼も、一等国とか二等国というような、くだらない序列を知らず知らずのうちに受け入れて、不変のものとばかりにランキングしているのだ。
 その低ランクの国とされてしまった国の言葉を、それと聞き知って、その国出身であるというだけで蔑視して差別するということがあれば、それは不当な差別、つまり「許されないタイプの差別」だ。無関係のものを結びつけているということで、論理的にも破綻している行為だ。
 その国に生まれたくて生まれたわけでもなく、低ランクの国だからといって見下す人間的レベルの相当に低い人から蔑まれる筋合いもない。そうしたことが理解できないレベルの人間が犯しがちなことで、ほぼ救いようがない。
 「べらぼう」が外国人の場合であっても、江戸時代は外国に対する情報自体が少ないだけに、偏った印象を持っていた可能性が高く、それがどのような蔑視、あるいは尊敬につながっていくかは、微妙だ。また、一般人は多くの国々を知っているわけではないので、特に序列などによる偏見を持つほどまでには至っていなかっただろうと想像するが、どうだろう。そもそも、外国語を聞いてどの国の言葉かということを判別できない可能性のほうが高かったのではないだろうか。
 これだけ国際化が進んだ現代ではどうだろう。意味が分からないまでも、どの国の言葉か分かるということがある。言語によって、蔑視したり尊敬したりする人は、それだけで十分なのだ。
 十か国語の区別ができる人は少ないのではないか。英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、中国語、韓国語、これくらいならほぼ全員の人が区別できるだろう。ロシア語、スペイン語、ポルトガル語となると、半数ぐらいの人が怪しくなってくるかもしれない。ベトナム語とかスワヒリ語あたりになると、かなり怪しくなってくる。
 ランキングしてないつもりでも、何語を習いたいかということになったとき、それは表面化してくるだろう。
 「べらぼう」が日本人である場合はどうだろうか。江戸時代にも今の県民性のようなものが一般的に言われていた場合、お国訛りから判断して、「あいつはきっと〇〇の生まれだから、〇〇な奴に違いない。」などという決めつけがなされ、それが本人の不利益につながるようなものであれば、まさしく「許されないタイプの差別」ということになるだろう。
 県民性とまではいかないが、「東男に京女」などと実に大雑把な評価もあったようだから、藩ごとの人物評的なものもあったに違いない。特に各藩が集まる江戸では、そうした藩別の何らかのランキングがあったに違いないと思うのだ。
 しかし、どのようなランキングがあって、それが不当な差別につながろうとも、最終的には藩の規模や来歴などがものをいうから、開き直って何とも思わない藩もあったかもしれない。
 では、言語障害によるものはどうか。言語障害のなかでも、吃音は人によっては訓練で矯正できるものであるために、かえって厄介だ。
 無知なために理解のない人や、心の育ってない人からは、矯正する努力を惜しんでいるのかとか、知能に問題があるのかとか、ふざけているのかとか、不当な扱いを受けて、不当な差別、「許されないタイプの差別」を受ける可能性がある。
 人の気持ちが分からない人からは、「かわいそうね」という表情をされたりとか、「何が原因だったの」とか不躾に聞かれたりすることがあるかもしれない。それは心配してくれてのことなのだろうが、不当な差別というよりも、不当な扱いだ。本人が抱えている悩みを想像する能力が乏しいレベルの人間だから仕方ないのだが、その表情自体が暴言と同じ効果をもって傷つけるはずだ。
 蔑視にしても、想像力に欠けた扱いするにしても、その行為の前の表情がある。本人は、そうした顔をされた時点で、「許されないタイプの差別」を受けていると感じるはずだ。
 通常は実際には行為に至らず、表情で終了することが多いと思うが、表情というものが、生まれつきの顔つきや、受け取り方次第ということもあり、この問題を難しくしているように思う。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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