日々雑感397「旭日旗に似ているのに」

 朝鮮半島の北側の国の突然の侵略で数百万もの膨大な数の人間を殺された南側の国は、勇敢で有能な人材のほとんどを失った。だから、その戦争特需で潤い、戦後復興を果たした日本が憎くてたまらない。
 一九六九年に締結された日韓請求権協定で、請求権の問題は完全に終了し、その代わりに想像を絶する巨額の協力金を手にしたのだが、南側の国は国民に内緒にしていたため、日本に対して憎くてたまらないという国民感情は消えない。
 その国民感情をうまく利用して、政府の失策が糾弾されることを防いできた歴史が長すぎるため、かの国では思考回路の中に日本を憎むということが組み込まれている。日韓併合時代も、搾取のための植民地化ではなく、強化のための併合だったが、それが日本主導で行われたことが憎くてたまらない。
 日本軍として戦った世界大戦が終了した後は、日本を様々に糾弾することによってしか戦勝国グループに位置することが出来ないという恐怖感が、発想や行動の根底にあり、反日の原動力の基盤になっているように観察できる。
 国際的に認められている日本の「旭日旗」を、かの国もこれまで触れないできたが、かの国のサッカー選手がアジア大会で日本を揶揄するための猿真似(真似する必要がないのに真似たのは滑稽だけれども)をしていた言い訳として、「旭日旗」が気に入らなかったためとしたことに端を発しているらしい。それと反日の行動が結びつけられていき、他国が公に使用している旗であるから尊重すべき「旭日旗」を、悪者にしていったようだ。
 嘘を奇妙な言い訳で正当化して相手に迷惑をかけつつ、自分も駄目になっていくというパターンは、昔ながらのお家芸のようなものという意見があったが、そのような愚かな国などあるはずがない。そのように思って確認してこなかった。だが、どうも確認しなかった自分が愚かであったようだ。やはり全ては様々な内外の史料に基づいて確認するという作業が必要だった。
 自分で作り上げた世界の中で憎しみや恨みを保存していくのが大好きなのも、その流れの根底にある。そのために、現実の世界で展開していく国際社会からは取り残されていく傾向が強いように見える。
 しかし、理由は分からないのだが、その不利益をさらに同じ手法で処理しようとする。それが「嘘を嘘で塗り固める」と言われていることにつながっていく。
 そして、残念なことに、そのことによって、未来永劫幸福な国にはなり得ない構造を自ら支えているという図式ができあがってしまう。そして、さらに良くない傾向が強くなってしまう。なんともはやだ。自分はかの国から憎まれ恨まれている日本の国民でありながらも、悲しくて見るに堪えない。
 他国に対して悲しいという感情を持ってしまったり、見るに堪えないと思ってしまったりすることは、不謹慎なことのように思う。
 朝鮮半島については、地政学的な見地から、よく不利な状況に置かれると言われるのをいろいろな人々が口にする。歴史から目を背けてはいけないと、かの国の人々も指導者も語る。
 今となっては大昔のことなので、どうにもやり直せないのだが、根本的な問題は「なぜあのとき海を渡って東に向かわなかったのか。そして、新しい国を作るべく、文字通り何世代も何世代も命をかけなかったのか」というところにある。
 だが、過去の歴史は、そのように根本的、かつ重要なことであっても、今をどうするのが今後よりよい歴史を刻むことになるかという課題を解決することの方が、より現実的で、生きている人々の幸せにつながる。そのように、子供や孫が幸せに生活できるように、その時代の大人が頑張るのが政治というものだろう。
 ともかくも覚悟を決めて、朝鮮半島あたりに国を作ったのだから、生きにくいからといって嘘を言ったり、その嘘を更に嘘で固めていくというようなことや、恩を仇で返すというようなことが正当化されてしまうことが、許されるはずもない。
 こうした背景はあるものの、日本の「旭日旗」が、どうにも嫌いだというのなら仕方ない。本来ならば、「旭日旗」が象徴しているということにされている軍国主義について云々されなくてはならないはずなのに、それがないのも奇妙な糾弾だ。これは相当に不思議なことだ。
 もしかすると、何が発覚されることを恐れているのだろうか。「一八七三年からの徴兵制から一九四五年までの間でどのように軍国主義が展開されたか」ということについて論議して、その七〇年以上前のその時期の日本を憎んで恨めばよいにと思う。しかし、これをやると、その頃のかの国の状況を客観的証拠に基づいて明確にせざるを得なくなる。恐らくそれはまずいと思っているのだろう。真実に蓋をするために嘘の情報を流す。それが習性にまでなってしまっているように見える。
 何を隠そうとしているかは、分かりやすいといえば分かりやすい。それはかの国の己の嘘に違いない。己の国についての嘘、他国についての嘘。嘘をつかねば糾弾されて失脚させられるという流れがあるのだろう。それは国民性にまでなっているように見える。
 その嘘は、大声で他人のせいにするとき、問題をすり替えて目をそらそうとするときに明確だ。そうした他人を罵倒する内容から逆にたどれば難なく嘘がばれる。自分が言われてまずいことは、他人にそれをそのままぶつけるというだけの、反射的な知恵だ。
 日本では、それを浅知恵という。嘘がばれても平気で大声で叫び続けるという悲しい習性にまでなるというのは、そうなる状況にも原因があるのだろうが、元々そのような素質がある人ばかりが多いということが想像できる。それは習性なので直しようがない。つまり、誤魔化せないのだ。
 どの国でもそうした人々は僅かながらにいるだろう。ところが、かの国ではそのような人々が圧倒的に多いように感じる。なぜ、そのような人口のバランスの悪さが生まれたのだろう。
 また、かの国は何十年間も、日本の情報や、日本の文化や、日本からの支援を、国民に隠し続けてきた事実がある。今の朝鮮半島の北側の国と同じで、他国の情報が入らないようにしていたのだ。隠してきた理由はいろいろあるだろう。
 しかし、考えられる作業は一つだ。それは、日本についての情報を隠しつつ、国内では真実とは異なる別情報を国民に流していたということだ。しかし、一九六五年の国交正常化に伴い、徐々に情報が入り込んでくることになる。すると、整合性がつかなくなってくる。そうなると、日本が嘘をついているということにしなくてはならなくなるものも出てくる。
 一つ嘘をつけば、ずっと嘘をつき続けたり、新しい嘘をつかなくてはならなくなる。これは誰しも経験することだが、これが国レベルで行われ、そして今も行われていることだ。悲しいかな、かの国の人々は、嘘に対して正しく動くことが出来なくなっている。自分たちが習ったことが嘘だと信じたくないのは理解できる。しかし、それに向き合っていかねばならない。
 「国が嘘をつくはずがない。嘘をついているのは日本の方だ。」と言いたくなるだろう。しかし、今の大統領になって、その思いは揺らいでいるはずだ。極端な動きをするので、嘘に慣らされてしまった感覚も、さすがに矛盾に気づき、その嘘に感づき始めるからだ。
 ただ、「嘘も方便」という具合に考えて、目的を達成するためには、嘘も良いことなのだと思っているふしがある。ところが、その目的が正しくないために、その嘘はさらにまずい結果をもたらす嘘になって、自分の身に降りかかることになる。そうなって初めて、振り返り、分析し、何がどのように嘘であったのかを考え始める人が出てくるのかもしれない。遅きに過ぎるが、仕方あるまい。
 さて、まだ自国の嘘に感づき始めていない、かの国の人々が、そうしてほじくり出した憎しみや恨みの元も、それを現代人に向ける意味は見いだせない。仮に、そうしたことに意味があるとすれば、未来になればなるほどに憎しみや恨みが蓄積して、膨大なものになっていくだろう。恐らく、学校でも授業の時間数の半分は、そうしたものを学習する時間に充てなくてはならないだろう。そして、テストの点数によって愛国度が測られるという落ちが待っているように思う。
 百年も経てば、憎しみや恨みの数々を数え切れなくなり、「憎しみ恨み手帳」とか、「憎しみ恨み事典」とかを持ち歩いたりしなければならなくなってしまうかもしれない。勿論、わざわざ持ち歩かなくても端末で検索できるようにし、日常生活で生まれる隙間時間を利用して復習して暗記することに邁進すればよい。
 また、そのようにして「憎しみの種や恨みの種」の知識を身につけるだけでなく、その作業を通して育んだ、反日愛国の精神によって、四六時中物事を分析して新しい情報を付け加えることが、道徳的に最高のものだとされるようになるだろう。
 そうした流れにのってこない者は、愛国者ではないという烙印を押され、全うに生きていけないようにしてやることが、愛国者の義務ということになっていくだろう。本当にそうなったら悲しいことだ。
 人生人それぞれだから、信じたことのために人生をかければよい。しかし、国民全員が同じこと人生をかけるのは、国が存亡の危機に立たされているとき以外の場面では、不自然極まりないことだ。
 その不自然さは、洗脳状態に追い込まれ、小さな世界の中で生産的でないことに命をかけて幸福感を感じるように仕組まれてしまった人々の姿が見出されるところにある。
 もしかすると、今頃は「憎しみ恨み検定」なるものが企画され、一儲けしようと頑張っている人々が出現しているかもしれない。
 かの国には「恨」の思想というのがあるそうだが、「恨み」が思想扱いとは恥ずかしくて国際社会に言えないと思うので、他国の人が言ったことなのだろうと思う。ただ、人を恨むということが恥ずかしいことだと思うのは、僕が日本人であるからかもしれない。一般的に日本人は未来志向が強いように思う。
 したがって、「恨み」などを抱いている人は軽蔑されることが多い。しかし、かの国では「恨み」をたくさん抱いている人が恐らくは尊敬されるのだろう。二国間がうまくいかないのは、こうしたところにも原因があるように思うが、そこをうまくいくようにするのが政治のはたらきだ。
 仮に、かの国で「憎しみ恨み手帳」「憎しみ恨み事典」「憎しみ恨みサイト」の類が作成されたとしよう。そうでもしないと覚えきれなくなるからだ。そして「恨み」を忘れることは愛国心が不足しているということになってしまうからだ。愛国心こそが全てということは、悲しい歴史が何千年と続いたからに違いない。逆に言えば、いつまでたっても、自国ではそれを解決できないという不都合な事実があるということだ。
 その仮称「憎しみ恨み手帳」「憎しみ恨み事典」「憎しみ恨みサイト」、もしかすると宗教に近いものになっていくことも考えられるので、「憎しみ恨み経」、もっとお経らしくいえば「憎恨経」だ。そのようなものが出現すれば、さらに反日にのめり込む人が増殖し続けるだろう。生き甲斐ともなるからだ。
 そうしたものによって、「憎しみ」と「恨み」の情報を増やしつつ、全国民に共有されるようにしていくことは、あり得ぬ国策を通すのには便利だ。共有されているということを根拠として、なぜかその情報が事実であるということにされ、それを何とかしなくては幸福になれないという論理が生じていくからだ。
 最後には、自分一人で処理できないほどの量の「憎しみ」と「恨み」を抱えこみ、精神的に飽和状態となり、最後は膨大な巻数のお経を転読するがごとく、内容を読まない、内容を確認しない、内容を検証しない、つまり「信じる」というレベルに達するだろう。
 つまり、内容を分析したり、展開させたりするという行為に至らず、ただ信じて疑わないという思考停止に陥ることになる。そのことが、残念ながら時代の流れに合わない行為をし続ける原因となり、社会の破綻に向けて歩み続ける運命を作り上げていく。
 普通のお経と「憎恨経」との違いは、普通のお経が皆幸せになるための知恵を説くのに対して、仏教で戒めとされている「憎んだり恨んだり」することを「反日」として推奨していることだ。仏教とは真逆の精神だ。キリスト教とも真逆の精神だ。
 そのように真逆のところで思考停止しているので、朝鮮半島の国では、永遠に幸せが訪れない。目的と手段がこれほど食い違っているということは、余程の洗脳がなされないと成立しないはずなのだが、そのようになりつつある。その理由は、不幸の原因を自らの発想や知識のなかに探そうとすることがないところにあると見る。
 「人を呪わば穴二つ」という人生の真実を述べた諺が、かの国にはないのだろうか、その二つの穴に今深く落ち込んでいく様相だ。「岡目八目」とはよくいったものだが、日本国民はどういう理由からかわからないが、その憎しみや恨みの対象とされているのにもかかわらず、その先を想像できる。それゆえに、かの国を他国ながらも、そして勝手に敵対してくるにもかかわらず、心配でならないのだ。
 かの国は、教科書の記述を新大統領になる度に変更し、愛国心を教育する国らしいが、そのくるくると内容が変更される時点で偽物臭い。そもそも真の愛国心は教育されて植え付けられるものではなかろう。日本のように、どちらかといえば愛国心をなくすかのような逆向きの教育の傾向が延々となされているにもかかわらず、自然に芽生えてくる麗しき愛国心があり、しかもそれが日本人の精神的な柱となっている。
 真の愛国心の持ち主が多いので、日本ではほとんど暴動が起きない。また、不買運動もほとんど起きない。他国のように政府が直接に間接に主導する暴動や不買運動は、勿論皆無だ。それは国内の同胞の被害を招く、愛国ならぬ行為だからだ。
 日本は真の愛国心の持ち主が多いので、国旗や旭日旗を破壊されても何とも思わない。そのため、他国の旗を傷つけるような行為は日本ではまだ一件も起きていないように思うがどうだろう。何をされても笑顔で万国旗を運動会などで飾る、理想的な社会主義国家のような国であるようにも感じる。現実社会にありがちな間違った社会主義国や、それに準ずるように見える国は、そうしたことすらも日本が憎い原因の一つとなっているかもしれない。
 理由は分からないが、どんな恨みや憎さも戦争と結びつけていけば正当化されるという傾向がある。これを政治家は勿論のこと、個人もそれを利用しないという手はないと考える人たちもいるだろう。現実の問題を正面から解決する能力があれば別だが、その能力が欠けていたり、不足していたりすれば、政権維持の方法として、あるいは個人の現実の問題や、将来訪れると予想される問題を解決することを先延ばしにするための理由として、飛びつかないわけにはいかないと感じる人たちだ。
 しかし、どうあっても日本が憎いというならば仕方ない。そう思うのは自由だ。しかし、他国のものを排除するのはやり過ぎだ。ユダヤ人がいくらハーケンクロイツが嫌いでも、裏から見たらハーケンクロイツのデザインと瓜り二つの日本のお寺のマークを排除するということはしない。それは見た目はハーケンクロイツに似ているかもしれないが、ハーケンクロイツそのものではないからだ。ユダヤ人がそれをしたら、ユダヤ人が愚かだということになってしまうと知っているからだ。地球の裏までナチスの残党を追いかけて投獄しようとするユダヤ人をもってしてもだ。
 しかも、旗は単なるデザインに過ぎない。かつての軍国主義の本体は旗ではなく、かつての日本人の軍部だけでもなく、政治家だということに間違いはない。旗ではなく人間だ。
 したがって、日本人の顔のほうが、日本のかつての軍国主義を彷彿とさせるはずだ。だとすれば、日本人の政治家の顔と大きな差が認められない自国民の顔を見て、日本人を連想する、日本のかつての軍国主義を連想させると叫び、憎んだり恨んだりしなくてはならないはずだ。旗が何かをしたわけではなく、歴史を刻んできたのは人間のはずだから、自国民の顔を見て日本のかつての軍国主義を思い出し、怒り狂わなければ道理から外れていると言える。
 どんなものであれ、似たマークや、似たデザインのものや、似たものが存在するのは当たり前の話だ。とにかく似ているものや、あまり似ていなくても連想させるものについて、やはり気に入らないといって排除するというのは、暴力そのものだろう。それが国を挙げてのものであれば、暴力以上のものとして見なくてはならない可能性も高い。
 もし、それが暴力ではないということになったとしても、横暴であることには変わりない。それを長期にわたり世界という広範囲で行っているということになれば、暴力や横暴な態度というレベルを超えた特殊な問題になる。この特殊な問題については、今後の日本は確実に対応していくだろう。五十数年間我慢してきたのだから、もう我慢はしないのだという思い始めた人々が増えてきたからだ。
 かの国に対して、述べるところの論理の破綻を指摘しても、感情の問題だから解決しないだろう。感情は多分に自分以外の存在にコントロールされて作成されるものだから、実害が生じないと、そのことに気づけないことが多い。実害が生じても、その実害も自分のせいではないとする思考回路が太く形成されているために、より感情が高まってしまういうパターンに陥っているように見える。
 こうしたことに神経が耐えられなくなる人もいるのではなかろうか。通常の知性の持ち主ならば、何か破壊行為などで発散しなければ、妙な葛藤で体調不良になりはしないか。これに就職難などが加われば、人生に絶望するしかなくなりはしないかと心配してしまう。
 感情に流されてしまったり、感情は一定に保てないものであるゆえに、方法を誤ったり、なすべきことのタイミングを誤ったりする。目的すらも誤ってしまうことも多い。それが感情の大きな欠点だ。だから、感情にまかせて行動するのは危険だ。「腹立たしいから殴った」というのでは、小さな子と同じレベル、あるいは大人の犯罪者の道を進むことになってしまうからだ。
 たとえば、「旭日旗」を非難の対象とするのは、自国をピンチに陥れる危険性しかないということに、頭を使わずとも感覚的に気づくはずなので、これまで「旭日旗」のデザインに似た物を排除しようということはなかった。
 ところが、感情をもとにして行動を起こすということが正義だと信じているのか、自分の感情を信じろという教育がなされる文化の感化を受けているのか、そのあたりのことは分からないが、負の感情で動いてしまったときには、人間らしい心豊かな生き方が出来なくなっていくことだけは確かだろう。
 そうであっても、一人で生きているのならば、周囲に迷惑をかけないのだから問題はないのだが、現実の社会では一人で生きているということはあり得ず、回り回って己の自尊心を大きく傷つけたり、大きな不利益を被ることになる。これは個人でなく、国の場合であっても同じだ。
 学級の中で告げ口をして回る生徒がどれだけ信用されなくなるか、どれだけ嫌われ者になるか、そんなことは誰でも分かるだろう。その告げ口が正しくないものであればなおのこと、さらにひどい孤立を招くものだということは、誰もが経験上分かっていることだと思うが、かの国の学校では、そのような経験を積むことがないような理想的な学級ばかりなのだろうか。
 どういう計画なのか分からないが、国際社会の中でこれをやってしまった前大統領の負の功績で、かの国の孤立化の確たる土台を形成してしまったのは動かしようがない事実だ。その土台の上に、現大統領が過去の両国間の問題の蒸し返しと放置という愚策で問題が拗れ、元には戻らなくなった。前大統領が築いた負の土台がしっかりしているだけに、簡単には崩せないだろう。
 本当の元の状態が、どの状態であるかは、いろいろな状態があるので、どの時代の状態かということで述べなくてはならない。それはどの時代だろう。
 最初と最後だけを示すとするならば、一つは、もともと朝鮮半島に住んでいた、源日本人の一つとなるグループが、朝鮮半島に住んでいる他の人々を見限って、理想の社会を新天地を求め、命がけで東の島を果敢に冒険した時代。
 そこまで遡ると行き過ぎかもしれないが、その時代がスタートだろう。つまり、辟易として関係を断ち切った時代だ。あるいは、考え方が受け入れられずに追い出された時代だ。
 ただ、追い出されたと見える場合でも、最後には辟易として関係を断ち切って出奔したという形になるだろう。土地を離れるということは、そういうことだ。
 また一つは、第二次世界大戦後に、国交正常化を進めていた近年の時代だ。つまり、曲がりなりにも友好関係を結んでいた時代だ。
 それにしても、何が何でも「旭日旗」を連想するデザインをあらゆるものから見出し、それを排除しようとするのは、本末転倒の所業だ。
 本来ならば、日本のかつての軍国主義自体に言及すべきところを、そうはしないというところが味噌だ。そのような本筋で論議をすれば勝ち目がないことを知ってのことだろう。
 論議すればまずい形で決着がついてしまう。それを避けたいのだろう。長続きさせて、その間にいろいろとお金を手にしたり、有利な条件を得たりするという姑息なやり口が身に染みついているように見える。だから、不正の疑いが本国からも出ているような事態では、アジア唯一のホワイト国扱いをやめて、通常の手続きに戻して取引をしようと言っただけで、日本を悪者扱いにするのだろう。
 かの国がいっていることは大抵逆なので、悪者扱いにされているということは、国際的には非常に正しいことをしていると見てよいだろう。現にそのようになっているので、どれだけ大声で何回叫んでも逆効果だ。それが逆効果だということは知識や知恵のある人々は分かっていて、同調しなくてはならないという憂き目に遭っている可能性がある。かの国の将来は大丈夫だろうかと心配する。
 これだけ自分がかの国を心配しているということは、自国に対する愛国心よりも、他国を愛する「愛他国心」を持っているのかもしれない。「汝の隣人を愛せよ」というイエス様のお言葉があるが、僕はキリスト教の教えにかなっているのかもしれない。
 誰でも出来る反日行動として、「旭日旗」のデザイン探しがあるように思えてならない。これを日常生活で心がけていることで「愛国心」があると自己満足できるからだ。これには知識も資金も要らないので、誰にでも出来る反日行動となる。さらに、誰かが新たなターゲットを発見したとき、同じように喜びを分かち合うことが出来るからだろう。
 勿論、口では「腹立たしい。ここにも旭日旗を連想させるものがある。」と怒りを込めていても、心の中では同胞とつながりを意識でき、共通の目的に向かって皆が参加している行動に自分も参加しているという高揚感に浸っているのが本当のところだろう。一種のお祭りだ。
 そして、いつの間にか「旭日旗」のデザインを探し出して大騒ぎすること自体が目的となっているように見受けられる。本来の目的である、日本のかつての軍国主義を非難するのは、その時代の自国民の本当の様子を明確にすることになってしまうので、どうしてもお祭り騒ぎ風に怒るパフォーマンスに陥る方向で事が進んで行ってしまうのだと思う。
 どうしても排除したいなら、そう思っても構わないが、撤去を求めたり、デザインの変更を求めたりするのは、やはり行き過ぎだ。しかし、やりすぎると困ることにならないだろうか。何しろ「旭日旗」はいろいろなものに似ている。
 似たものがたくさんありすぎて、その一部にしか対応しなければ、一貫性がないということで批判されなくてはならない。一貫性がなければ、偽物の愛国心で大騒ぎしただけということになる。徹底してこその愛国心だろう。
 しかし、この行動は目的から既に愛国から大きく外れているので、そんなデザイン探しとデザイン批判とデザイン変更の強制は、単に諸外国の顰蹙を買うだけの自殺行為となっている。愛国に他国や他国のものを持ち込むのは邪道だ。
 国を愛するということは、今の国を発展させて、国民が真の幸せを得られるように努力するということだろう。その逆の効果を生み出したり、それと関係のない効果をもたらしたりする行動は、どう考えても愛国とは無縁のものであろう。
 相手にその不利益を伝えても気づかないし、気づいても信じないところが、日本にとってそのことは有利だろう。しかし、それがまた憎らしく思う原因となっているようだから、もう話にならない。
 次に、「旭日旗」に似ているのに、無視され続けていると思われるもののうち、日常生活でおなじみのものを幾つか挙げてみよう。
 
① 太陽そのもの
 太陽光発電をかの国の人は諦めねばならなくなる。太陽自体を無くすわけにはいかないが、常に夜の土地に移住する必要がある。そんな土地は地球上にはないので、夜の時間帯の土地に居続けるべく、常に移動している必要があると考えている可能性がありそうだ。
 常に夜の場所を移動できるような土地を埋め立てて作り、そこを国土として認めてもらい、鉄道などを敷いて移動する生活を選択せざるを得ない。当然、車両暮らしを我慢しなくてはならない。
 列車の速度にも限界があるので、それ相当の緯度で地球ぐるりと一周する線路を作らねばならないのは大変だが、太陽を見てしまい、「旭日旗」を連想したら大事になる。
 しかし、ある緯線上を一日かけて一周し続けるのも大変なことだ。時速百キロで走る電車なら、一日で二四〇〇キロ走れる。それを一周とする半径は、二四〇〇÷二πとなるので、地球の半径を仮に六四〇〇キロとすると、北緯八六度五八分ほどの高緯度で敷設するレールとなる計算になる。北極圏は海なので、鉄道敷設は南極圏しかない。
 これは南極大陸はどの国のものでもないというルールを破るか、国民全員が南極大陸の研究や南極大陸でなければできない研究の研究者となって列車による移動を続けながら、何かを研究する研究国家となるしかない。移動しながらで、下車する時間にも限りがあるので、非常に限定的な研究をするしかない。それなのに国際社会による全面的な経済的支援を受けねばならないのだから、大変なことだ。
 他にも幾つも問題がある。第一に、寒さからレールを守るメンテナンスが大変だ。専用列車を日中走行させて当たらねばならないが、それは日中作業なので「太陽」から「旭日旗」を連想することのない外国人に委託しなければならないことになる。ほとんどの外国人が該当者になるのだが、それはそれで何かと非常に厄介なことだ。
 次に、白夜の問題がある。夜でも太陽が沈まない時期が、この高緯度だと半年ぐらいは白夜なのではないだろうか。地球が傾いているということは実に不都合だ。国土の幅が十分に確保できれば、常に白夜の発生しない緯度以下のコースを確保すべく、月日によってコースの緯度を変えればよいが、それは鉄道では無理だ。コースを変えられる高速トレーラーバスのようなものをたくさん走らせなくてはならない。ただし、そのための道路は整備されていなくてはならない。したがって、鉄道と同様に不可能に近い方法だ。
 しかし、「旭日旗」から直接連想される「太陽」を目にしないためには、そしてそこから受ける恩恵を受けないためには、是が非でも必要なこととなる。何しろ、「太陽」を見たら「旭日旗」を連想して気分が悪くなってしまうに違いないからだ。ましてや、その恩恵を受けているということは、耐えられないほどの精神的苦痛であろう。
 そこで、同じく不可能に近いのだが、もっと高速で走る列車を考えるしかない。
 仮に時速二百キロで走る列車とその線路を国土とするならば、一日で四八〇〇キロ走る。その半径は四八〇〇÷二πとなるので、地球の半径を仮に六四〇〇キロとすると、北緯八三度十五分。やはり南極大陸だ。白夜の呪いからは逃れられない。
 こうなると、最も現実的なのは、夜行性動物の生活にすることだろう。昼夜逆転にするだけで、荒唐無稽な国土の問題や、総研究者という無理なことや、特殊な乗り物を考える必要もなく、経済的にも大きな問題は発生しない。
 全てを地下都市にして、農作物はロボットによる栽培収穫で何とかしたり、人工的な光で地下栽培を行うようにしたり、輸入したりすることで、何とか賄うようにするしかない。ついでに国の時間帯を便宜上地域別に段階的に設けて、同時に様々な時間帯の共存を実現すれば、外国諸国からの観光客や運動選手などの時差を事実上なくすことも可能となる。
 地下なので地下水被害以外の風水害や地震の被害は激減する上、核シェルターのようにもなるから、国防関係も楽になる。領海、領空はドローンに巡回させて、侵入者へは自動威嚇、自動攻撃をプログラムしておくだけだ。亀の子のように専守防衛の理想の形の実現だ。地表は全て耕作地にできるし、産業廃棄の処理工場や忌み嫌われる施設は、地域住民とのトラブルは発生しないので、遠慮なく全部地表に設置することが出来る。
 開発も、化石の地層や文化遺産となり得るものが出土する地層を避けて、その下に国土を作るので、問題はない。発掘は下から上に行う感じとなる。
 領土拡張も、隣国に内緒で深深度で行うから、衝突も避けられる。地球環境が将来的に激変すれば、深度別に国土拡張の許可を国連が出すなどの、国土の重層化が一般的になるかもしれない。
 しかし、現在のところ、「旭日旗」を否定する国は地球上で一つしかないので、そうした国際的なルール作りをする必要はないと考えて秘密裡に事を進めたため、例によって最後に墓穴を掘るというおそれがある。やれやれ。

② 肛門周囲の皺
 締まった肛門は、「旭日旗」を連想させるに十分だろう。一人一つずつ肉体に持っている。これを普段見ることはないから安心しているのかもしれないが、病院では患者の肛門を目にした医者が、急に腹を立て始め、叫びながら刳り抜いて捨ててしまう可能性があるかもしれない。恐ろしいことだ。
 その後は人工肛門にするしかないのだが、かの国の人にとっては、愛国の肉体表現であり、誇らしいことの一つとなるだろう。したがって、人工肛門を外に出すわけにはいかないので、人工肛門をつけているという証拠となるバッジや鉢巻きなどをして、愛国の肉体表現を誇示することになる。勇者と褒め讃えられるであろう。勲章と言ってもよいほどのもので、これが代々家に蓄積されていけば、何らかの表彰が子孫に与えられるという名誉が待っているというような麗しいシステムを用意するとよいだろう。人呼んで、「肛門撤去系一族」というものだ。
 人工肛門が不便だということで、本物の肛門から放射状の皺を無くすべく、皺伸ばしクリームを使うというのも何なので、人工弁を取り付ける「半人工肛門」を開発している可能性がありそうではないか。
 人工弁装着のために、自動的に放射状の皺がなくなるという画期的な発想による医療用具だ。これは愛国医療用具なので、手術費用や入院費は国家が負担することになるだろう。逆に、奨励費や紹介費なども国家の愛国症例予算から支出されることになる可能性もある。もしかすると、自由自在に排便できるため、合理的な生活を営むことが出来る、新生活の到来だと考えているかもしれない。やれやれ。

③ アスタリスクのデザイン
 コンピュータのキーボードを眺めると、右中程にアスタリスクの「*」のキーがある。これはどこから眺めても「旭日旗」を連想するはずだ。
 この対応策は簡単だ。マジックインクで塗りつぶせばよいだけだ。ただし、塗りつぶすことによって、キーボード上で目立つ存在となり、逆に「旭日旗」が亡霊のように脳裡に湧き続けるという副作用が生じないとも限らない。そこで、ナイフなどで上手に表面を削って、マークを消してしまうという行為に及ぶことになる。一削りごとに「旭日旗」を消滅させていく感覚が、極上の快感として頭に残ることだろう。苦しいことや悲しいことがあれば、その記憶を思い出して自分を慰めることも可能かもしれないと考えている可能性もありそうだ。
 ただし、表計算ソフトでのかけ算マークなどいろいろ使われているので、どうしても目に入ってしまう。それが精神的苦痛になるならば、アスタリスクに色をつけて、その色の眼鏡をかけるか、画面にその色のシートをかけるかして、事実上目に見えないようにするしかないと考えているかもしれない。やれやれ。

④ 米という漢字
 「米」という漢字は、アスタリスクよりも「旭日旗」に類似しているから、当然のことながら、より一層気分が悪くなるはずだ。
 実物の「米」を見ても、漢字の「米」を連想するはずだ。どこにでも何にでも「旭日旗」を見出すのが愛国の麗しき精神の神髄なのだから、ご飯を食べるときには、無数の漢字の「米」が頭にちらつくはずだ。それが真の愛国者の神経なのだ。そうでなければ、偽物の愛国心だから、茶碗いっぱいの米を見て反吐が出るようでなければ、歴史を勉強し直せと考えているに違いなかろう。
 こうなると、「旭日旗」を連想させる「米」を好んで食べるのは「親日」となるのか、それとも「米」を噛み砕いて破壊するのだから「愛国」となるのか、分からなくなってくる。
 しかし、噛み砕いて消化し、エネルギーとなるのだから、「旭日旗」すなわち日本に助けてもらっているということになって、結局は「親日」ということになる。長い目で見れば、仲良くやっていくのが賢い。だから、仲良くしないようにする勢力は、愚かな存在に国民を誘導しなくてはならない。
 人はいつ愚かになるか。それは欲に目がくらんだとき、そして怒りに身を任せたときだ。この二つをうまく発生させる言葉や事件をでっち上げれば、人々は愚かな道を歩み始める。一人一人は賢くても、人々となると別物だ。大勢なので流れが生じやすく、気づいても後戻りできない実績が知らない間に築かれていく。
 子供たちはその影響を受けやすいので、教育が大事だ。反日の政治介入が教育現場になされているときの教科書を選んで、家族仲良く一貫した反日路線を生涯にわたって復習し続けることが大事だ。幅広く勉強してしまうと、大統領が替わる度に教科書の内容が書き換えられてしまっていくので、結局何が本当のことだか分からなくなって混乱してしまうので、狭く絞って確かなものの見方を身につけるようにしなくてはならないだろう。
 限定的な勉強が必要ということだ。限定的な方が短時間で学習できる上に、歴史の不具合を他国のせいにする見方だけに染めていくだけなので、学習自体が楽しいものとなるだろう。
 自国に不都合な歴史的事実は削除したり書き換えたりして、簡単に覚えられるように編集すれば、子供のためにもなる。覚えやすく、愛国心が高まりやすく、他国の悪口を述べ合うことでより楽しく学習できるのは良いことだ。何より愛国心を高めるためには、自国を褒め、他国を貶めるのが手っ取り早い。愛国心が高まり、一致団結しようという気持ちが高まれば、国を守ることが出来る。このような原始的な愛国教育がなされていくようになるおそれがあるが、さて今度どうなるだろう。
 こうした歪んだ愛国心のあり方や、歪んだ愛国教育のあり方があるとするならば、相当に国民は低く見られていることになる。仮に国を守ることが出来ても、国が高まることはない。したがって、通常ならば、そのような教育は行われることは、あり得ないだろう。
 勉強するにしても、研究するにしても、都合の良いことに、あるいは悲劇的なことに、ハングルだけで書かれた書物だけに目が集中することになる。そのために過去の真実から目を背けることが容易な環境が作られているといってもよさそうだ。その環境は労力をかけなくても調えられる。不都合な文献はハングル表記に直さなければ良いだけだからだ。
 ところで、「米」づくりの農家には生産をやめてもらい、麦飯の食事を推進するしかないといったら言い過ぎだろうが、言い過ぎなのが韓国人のようだから、言ってもよいのではないだろうか。
 そして、アメリカ合衆国という国との外交も、どうしても日本人が使う「米国」が連想されてしまうから、見直すということになるだろう。当然「米」から「旭日旗」を連想してしまうからだ。そして、とても気分が悪くなるはずだ。
 さらに、アメリカ合衆国の国旗は、日本の国旗である「日章旗」よりも、紅白のストライプによって強烈に「旭日旗」が連想されるはずのものとなっている。そして、アメリカ合衆国と日本の両国の国旗が合体すれば、まさしく「旭日旗」が生み出されそうな勢いだ。それも我慢がならないのが真の愛国者だ。とにかく我慢がならないのが愛国者の重要な資質だから、普段から何事にも我慢しないようにして、その奇妙な資質を高めなくてはならないと考えている可能性もある。

⑤ 拳の小指側の皺
 拳を難く握って小指側から見れば、そこに旭日旗を連想させる放射状の皺が出現する。だから、おいそれと拳を握るわけにもいかない。ボクサーはグローブをしているので、目に入らないから大丈夫だが、日常生活の喧嘩で拳を握ると、素手を拳に握るために「旭日旗」を連想させる拳の小指側の皺が出現してしまう。それは愛国の精神に反するので、かっとなって人を殴りつけるときにも、きっと気をつけているに違いない。
 だから、素手の拳で相手を殴るときは、相手にも自分にも拳の小指側が見えないように振りかぶり、そしてそのまま振り下ろしたりする練習をしなくてはならないだろう。
 この皺は意図的に作られるものだ。もし、人の目に入るような場合には、きっと酷く周囲から糾弾されることだろう。糾弾している間は、自分が何らかのことで糾弾される可能性が低いからだ。

⑥ 顔面の皺
 目尻に出来る「カラスの足跡」もそうだけれども、もっと大きな放射状の皺が出来る人も多い。これは目玉も含めてよく見ると、「旭日旗」の半分だ。当然、「旭日旗」を連想させるものだ。口元の皺も、口をすぼめてストローでジュースなどを飲んだりすれば、まさしく「旭日旗」を連想するものとなる。赤い口紅などがさしてあれば、さらに「旭日旗」を連想させることになる。
 これは顔面に現れる「旭日旗」風の模様だから、かの国の人にとっては実に具合が悪いに違いない。近年、美容整形大国と自称するほどの国となったのだが、その大きな理由として、何としてでも「顔面旭日旗デザイン」を消す必要があったからではなかろうか。

⑦ イギリスの国旗
 中心から放射状のデザインが赤い「米」という漢字のデザインなので、どうしても「旭日旗」を連想するしかない。そもそも旗であるから「旭日旗」を連想するものとしては最も近いものをイメージするに違いない。
 そんな国は国とは認めないと言い始める愛国者が、かの国では今後たくさん出現するはずだ。その時には、さすがに日本も「言いがかりにもほどがある」と援護するだろう。
 しかし、かの国の人がイギリスに行って、その国の国旗に火を着けたり、引き裂いたり、汚したりするという暴挙は、今のところはなさそうだ。
 これはかの国の愛国教育が徹底しているかどうかがわからない理由の一つだ。なぜ徹底していないように見えるのかは分からない。かの国なりの何か正統な理由があるのだろう。到底、日本を含めた国際社会では理解されることは難しい何かだが、その何かとは何だろう。
 ちなみに、民主主義というのは相手の意思を尊重しつつ話し合うという作業を通して成り立っていくものだと思う。相手が大事にしているものは大事にするという態度が必要だ。それを押しつけるような態度があったり、否定するような態度があったりしたら失格だ。
 「旭日旗」は自衛隊でよく使われる。自衛隊は日本兵ではない。しかも、自衛隊は第二次世界大戦後に組織されたものだ。自衛の目的のための組織だから、好戦的ではない。装備を見れば誰でも分かる。その自衛隊は日本でもなくてはならない存在だ。自衛隊を否定する人たちも、災害時にはちゃっかりと救援してもらっているから、おそらく本音では感謝しているはずだ。それがなければ人の道から外れた人間だ。だが、そんな人間など存在しないはずだ。
 その自衛隊で用いる「旭日旗」は現在の自衛隊の象徴であって、過去の日本軍の象徴ではない。現在の日本が用いる「日章旗」は現在の日本の象徴であって、江戸時代や室町時代の日本の象徴ではないのと同じだ。それを同じだとするのは論理的破綻にもほどがあるだろう。
 それは現代の日本人が日本語を使っているからといって、同じ日本語を使って過去に戦争をした人々と同じ考え方を持っているとは言えないのと同じだ。
 これは、代替わり重ねて全く別の主義主張によって生活を送っていても、同じ家紋を使い続けているのと同じだ。
 
⑧ イギリス統治の歴史がある国の旗
 これらの国々は、国旗の中にイギリス国旗のユニオンジャックが入っているため、どうしても「旭日旗」を連想することになる。 
 アメリカ合衆国のハワイ州の州旗も、同様のユニオンジャックのデザインが組み込まれている。これも歴史的な理由が何かあるはずだ。だが、そんな理由など、かの国の愛国者には関係ない。とにかくデザインだけが問われるのだ。内容とか歴史とか無関係なのだ。そこに論理はない。感覚の問題なのだろう。⑦と同様に、到底、日本を含めた国際社会では理解されることは難しい何かがあるのだろうが、その何かとは何だろう。

⑨ 花の模様
 基本的に花は、放射状の花弁や、放射状の花弁の模様を持つものが多い。「旭日旗」を連想してたまらないというのならば、品種改良をして花弁の形やら、花弁の模様やらを改変していく努力をするしかない。
 日本で長年品種改良をしたものを、平気で盗むことが多い国なので、品種改良の技術は低いかもしれないが、どうしてもというなら日本の業者が頑張ってくれるかもしれない。
 その時だけは頭を下げる可能性は少しありそうだが、国に苗などを持ち帰った後は、愛国者の名乗りを上げそうだ。実際には、そんな低いレベルの愛国心などさすがに誇示するのは恥ずかしいことなので、名乗りを上げることもなかろうが、どういう基準で愛国心が語られているのか分かりにくいので、そうしたことももしかするとあるかもしれない。
 しかし、「正式な手続きで開発を依頼した」と言うべきところを「正式な手続きで開発を続けてきた」とするかもしれない、と想像するに余りある行状が目に触れるようになっている。また、こっそり盗んできたものを、そのように胸を張って自分で品種改良したとか、新発見したとか言うのではないか、と危惧する気持ちも湧いてくるような事件が耳に入ってくる。
 このように日本人に思われてしまう原因となる諸事件は、かの国では報道されない可能性があるが、実際にはどうなのだろう。どんな偏狭で価値の低いメディアでも、さすがにそこまでの情報操作的なことをすると、報道陣としての誇りも何もないということになってしまうので、その可能性は低いと思うが、そうとも言えない感じであることが最近やっと分かってきた。
 ちなみに、かの国の国花である「ムクゲ」の花は、明らかに「旭日旗」を連想させるものだが、どうするのだろう。国花も変えてしまうのだろうか。

⑩ ワープ画面
 説明するまでもなく、宇宙を場面とする映画では、宇宙船がワープすることがある。そのときの画面中心からの放射状の星の流れは、まさしく「旭日旗」を連想するものだ。
 このワープ画面は映画の中でも一つのイベントなので、カットすることはさすがにできない。ぼかしを入れたらスピード感がなくなってしまう。上映禁止にするか、その場面が発生する時間をカウントダウンの数字を画面の隅に表示して、タイミングよく目を閉じるように勧告するという手はある。韓国だけに。
 かの国では、一部の人々は狂信的行動に陥っているようだが、多くの人は表面的には真剣というレベルだろう。そうでなければ、かの国の憂国の人々はさらに肩を落とさなくてはならなくなる。
 特にここ数年間は、特にスポーツ界を通してはあからさまなことが証拠に残っているので、国際社会から白い目で見られているのは確実だろう。だから、国外に出て情報を自分で集めるのは控えた方がよいかもしれない。自分の感覚とのギャップが大きからショックも大きいと思うのだ。そのときに、国家的洗脳から目を覚ますか、「いや国際社会のほうがおかしい。日本の陰謀だ。」とさらに凝り固まるか。どちらに転ぶかは、その人の知性の高さによるだろう。
 つまり、客観的に情報を分析し、客観的に自分を見つめて評価する程度がどの程度かということによるだろう。ある程度の人生経験を様々な社会のなかで積んで苦労をした人でないと、これはなかなか難しいことだと思う。
 ちなみに、軍国主義を問題にするのなら、現在まで歌い継がれている世界各国の軍歌の歌詞を分析して、その裏にある思想を読み取ったり、先の世界大戦直後の処理で、戦勝国がどんな戦果を根拠としてどの領土をどのように主張したか、そしてどのように領土を確定したかを確認したりすることで、いろいろなことが分かってくるかと思う。
 実に面倒だが、面倒なことを怠る人は操られやすい。操られやすい人が幸せになる確率は低いが、操られきると逆に幸福感に満ちることもある。勿論、本物の幸福感ではないのだが、それと気づかなければ、それはそれで良いのかもしれない。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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