恐怖シリーズ341「旭日旗モチーフ?」⑩

 そもそも「旭日旗」のデザインとして特徴的なのは、赤と白の配色と放射状の構図だ。特に、放射状の構図は、軍国主義以前からの相当に古くからある伝統的デザインを踏まえたものか、放射状の直線で構成されたデザインという、あまりにも普遍的なデザインであるために、伝統的デザインとは別な流れとして、偶然にデザインされたものであるか、そのどちらかであることすら判別できないほどのものだ。
 だから、「旭日旗」のデザインや、そのデザインに似ていると決めつけたものを、数十年前に存在した軍国主義と結びつけて批判しようとすると、デザインとしての歴史が古く、普遍的デザインに近いだけに、世界各地の多くのものに採用されていたり、世界各地に遺されている古いものに採用されていたりするため、デザイン探しと批判の活動自体が、見当外れなものになってしまうということに気づかぬほどに愚かな考えの持ち主がいるとも思われない。したがって、このデザイン探しと批判は、敢えて日本という国を貶めようとするなどの、何かの悪意ある意図があっての活動として、自分が知る限りでは世の中では受け止められている。
 「いや、旭日旗デザインを撤去してくれたのだから、諸外国にも我々の思いが理解されたのだ。正しい歴史認識がこれで広まったのだ。」と自画自賛しているようなのだが、実は理解されているのではなく、実際のところは、うるさく騒ぎ立てられることに辟易として仕方なく撤去しているだけで、正しい歴史認識が広まるどころか、異様な活動をする人々だという認識が広まっているだけだ。
 スポーツの世界でもそのような認識が広まって定着しているようだが、芸術の世界でもそのような認識を自ら広め、自らを貶めていることに気づかないということは、ある意味で尊敬できる。一途になると何もわからなくなるほど純粋になれるということだからだ。ただ、それが逆に祖国を貶めることになっているということが残念だというわけだ。
 また、別の見方をすれば、旭日旗探しを止められないのは、発見する楽しみとか、それを人に伝えて、「よく見つけたものだ、偉い」と褒めてもらえる喜びとかに、いつの間にか執着しているという図式が、いつの間にか朝鮮半島に住む人々、および朝鮮半島出身の人々の精神構造として形成されてしまっているからではないだろうかと、他国の人間ながら心配をしてしまう。
 さて、そうした精神構造が形成されやすい条件として考えられるものとしては、次の四つを挙げることができそうだ。

① 都合のよいことに、放射状のデザインは単純なので、その発見には知識も経験も必要ではなく、特別な労力が必要ではないため。

② 放射状デザインの発見活動には特別な才能や、特別な労力が不要であることから、より多くの人々がいつでも参加でき、そこから生まれる連帯感や、連帯することによって生まれる高揚感などを味わえるため。

③ 放射状デザインの発見活動から得られる連帯感や高揚感は、愛国心との相性がよいため、ともすれば負け組意識で低くなった自己肯定感を、自分は愛国心を持った人間であるという認識を形作ることによって再び回復するのと同時に、愛国心の証明というプラス材料を他にアピールすることになるというと感じ、競争社会の中でのポイントアップにつながるという幻想を抱きやすいため。

④ 愛国心は、高い理想を掲げ、文字通り心血を注ぐ活動の中や、困難な状況の中で命がけの行為を必要とする悲壮な出来事の中で発揮されやすい。本来ならば、日常的な何でもない活動の中にも十分な愛国心が見出される。しかし、放射状デザインの発見活動は、そのどちらでもない。理想を掲げた行為でもなく、困難な状況を跳ね返す行為でもなく、国を慈しむ日常的な生活行動でもない。日本も含めて諸外国では、自分は傷つかずに相手だけをひたすら非難して憚ることのない「朝鮮半島に住む人々流の愛国行為」として、放射状デザインの発見活動はとらえているだろう。ところが、それが反日という目的のため、たとえ中身のない行為であろうとも、それどころか自国を貶めてしまう、逆効果の行為であっても、何となく愛国心にかられての活動の並びの中に入れてもらえそうだという錯覚が反日の同情の中では生まれて、その行為の満足してしまうため。

 残念ながら、このようなレベルの低い愛国の活動は、不買運動と肩を並べるものだろう。自国の評判を落とすような活動、揚げ足取りのやり方で他を非難するという見苦しい活動、世界のためにならない活動、そうしたものに陥ってしまうのはなぜだろう。
 その逆の道筋をたどらねば、国際社会の中では、敬遠され続けることになるだろう。なりふり構わぬ白を黒と言いくるめるようなロビー活動や、反則ぎりぎりの行為や反則そのもの、審判の買収などで見せかけの成果を上げようとするスポーツ活動の展開、その他、文字にするにも恥ずかしい事柄が、もはや隠すこともしない姿勢として確立しているかの如くであるのは、感覚が麻痺しているのかと思わせるものがある。
 ほとんどの国は、現実はどうあれ、その逆の道筋をたどって国際社会の中での地位を確立しようということは謳っている。つまり「よい国にするための美しく力強い活動」が愛国の行為としているのではなかったか。その逆を憚ることなく行うというのは、愛国の逆であろう。
 かの国は嘘で固められた国というのが、もっぱらの評判で、自国民も漸く吐露し始めたようだ。嘘という言い方もあるが、反対のことを言う国でもあるように思う。
 「私ほど国民に愛された大統領はいないだろう」という発言は、「大統領はは辞任せよ」という百万人単位の大規模なデモの様子からは、反対のことを言っているとしか思われない。
 「韓国経済は健全だ」という大統領の発言も、瀕死の経済状態に陥っていることを考えれば、反対のことだ。
 「GSOMIAは日本にとって必要なものだ」という発言も、必要ではあるが、かの国にとって最も必要なものなので、反対だ。
 自称徴用工問題はまた聞きだが、慰安婦問題は証言者からの話を聞いた限りでは、状況が逆で、これも反対のことを言っている。
 こうなると、いい顔をして近寄ってくるときは、その反対の心であると思わざるを得ない。
 これら反対のことが寄り集まって支離滅裂な状況になっていくと、国民は恐らく、最もわかりやすいものごとに参加するようになるだろう。
 デモへの参加。支持するかしないかという、二価値論的判断のなれの果てで、そこでは論議が発生しない。その場所へ行き、集団の中に入るという、単純でわかりやすい行動に陥る。話し合うということができないほどに支離滅裂な状況に陥らされているので、言い合うしかない。言い合うために単に主張するだけというわかりやすい行動は、多くの人を参加させることに成功する。多くの人が集まると、それだけで連帯感が生じる。そこから生まれた高揚感は、自分が正義を主張しているという信念につながりやすい。
 これに対して、話し合うということは時間がかかり、情報も知識も話術も必要だから、多くの人が参加することができない。しかし、話し合われることがないと、物事の解決や解決の方法のレベルが低くなる。つまり、解決できなくなるおそれが高まる。その不安だけは察知できるので、ますます自己の行為を信じて貫徹し、主張を押し通さねばならないという思いになっていく。
 日本はこうした段階からどういう段階を経て、いつ脱却できたのだろうか。あるいは脱却しつつあるのだろうか。
 とにもかくにも、そうした状況に陥っている国と無用の関わり合いを持つと、こちらのレベルまで同調して低くなってしまうおそれがあることだけは確かだろう。こうした段階から日本もまだまだ脱却していない部分があるのではないかと何となく思うからだ。
 ところで、そんな旗などよりも、日本の自衛隊を見たら、当時の日本軍を思い出して気にくわなくなるはずだ。それが道理というものではないだろうか。
 旗に対する思いが日本人とは異なるのかもしれないが、旗など旗でしかない。自衛隊の小銃、自衛隊の艦船、自衛隊の制服等々は、旗などよりも、ずっと軍国主義と結びつけやすい材料であり、それらのほうが強烈なイメージであるから、より一層嫌な気持ちになるはずだ。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
カテゴリー: 恐怖シリーズ パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中