恐怖シリーズ342「旭日旗モチーフ?」⑪

 単なる哨戒機に過ぎない「日本の自衛隊」の航空機に対する、「韓国軍」による不当なレーダー照射事件は、「現在の日本の自衛隊」から連想した「過去の日本の軍隊」、つまり韓国人も含めた旧日本軍に対する気持ちを、なぜか「現在の日本の自衛隊」に対して直接的具体的で危険極まりない行動として表現したものだろうと思う。
 しかし、このレーダー照射は一個人の感情に基づくものではあり得ず、「韓国軍」としての活動中の軍事行為と見てよいだろう。この解釈は間違っているだろうか。
 確かに「現在の日本の自衛隊」は、専ら自国を防衛する仕様の武器ではあるものの、法的制限は別として、とにかく制服を着て武器を持っており、組織のスタイルも当然のことながら他国の軍隊と酷似していることは間違いない。だから、日本の後期高齢者に当たる年齢の人々なら、旧日本軍を彷彿とさせるものではあるだろう。
 ただし、その旧日本軍には、韓国の若い男性の積極的参加が多くあったと聞く。最近の韓国の主だった歴史研究者たちも、そのようであったと研究結果を著作物で発表した。発禁だと叫ぶ人がいる一方で、多くの韓国人が購読しているようだ。
 しかし、いくら反日教育が学校教育の場でも徹底され、歴史的事実がねじ曲げられて伝えられているとは言え、そうした「現在の日本の自衛隊」からの連想で、旧日本軍を思い出し(そんな年寄りが乗船しているとは思われないが)、目の前の「現在の日本の自衛隊」の、しかも単なる哨戒機に対して、撃墜の強い意志を示すレーダー照射を行うという狂気の沙汰と言ってよい行動に走ってしまうだろうか。もっと言えば、そんな行動を取ってしまう人物が軍隊で働いていてよいかということだ。
 まさか指令を出した者がいるとは思われない。仮にそうであれば、余程の愚か者であるか、余程の策略家であるか、そのどちらでしかないと思う。さて、どちらなのだろうか。作戦行動中なのだから、一個人の判断でできるはずもない行動のはずだ。
 しかし、レーダー照射も作戦の中に組み込まれたものであったとすれば、軍隊なのだから、個人の判断とは別に、そのような危険な行動も強要されることはあるだろうと思う。納得はできないが、そのように考えるしか理解のしようがない。
 前者であれば、日本の哨戒機に対する「レーダー照射」は、国を滅ぼす行為の発端となり得る(実際にそうなりつつある)ので、愛国心の欠如した行為と言えよう。しかも、公務執行中(とは言え、実際には北朝鮮とのやりとりが疑われている活動)に行った、極めて不適切、かつ危険な行為として認定さざるを得ない。残念ながら、世界史の汚点として残る事件であることは間違いないだろう。つまり、余程の愚か者の指令によるものだったということになってしまう。
 後者であれば、その策略の目的自体が、国際社会で厳しく問われるであろう。勿論、レーダー照射いう危険極まりない手段も、国際社会で厳しく問われるに違いない。かの国は、その問いにどのように答えるのだろうか。例によって、日本のせいにしながら、隠蔽作業と論点ずらしで誤魔化すしかないだろう。つまり、余程の策略家でなければできない話の展開が先に待っていることになる。
 こうした理解しがたい活動の裏側には、個人や諸団体は別として、かの国としては外交上これまで本心を直接表明せずに婉曲的に日本を否定してきたという鬱屈した歴史があると想像する。
 しかし、これもまた想像なのだが、何らかの原因があり、何らかのことがきっかけとなって、その人間的な抑制としての「たが」が外れたという感じがするのだ。
 その結果、これまで「日章旗」を非難する代替行為として「旭日旗」を非難するという婉曲的な方法で日本を否定してきた手法に代表されるような「反日」活動に加え、直接的な軍事的な威嚇行動による「反日」行動もなされるようになったというわけだ。見聞きする情報からすると、どうしてもこのような受け取りになってしまう。
 「反日教育」によるものであるとはいえ、それが本心であることに変わりはない。その本心は、日本など消滅してしまえという気持ちなのだろうと想像される。
 かれこれ四十年以上前、小松左京氏の「日本沈没」が発表されたときには、確か「本当に日本が沈没してくれればよい。」という声が、かの国から多く上がったという報道が日本の報道機関からなされたのを記憶している。また同「日本沈没」が映画化されたときにも、特に十数年前の映画化のときには、そうした声が一層大きく聞こえてきたと日本では報道されたと記憶している。
 その報道が捏造であるかどうか、あるいは例によって極端な少数発言を一般化して国の傾向として扇情的に報道したものであるかどうかは別として、やはり恐らく本心なのだろうと思う。
 なぜならば、共通の幻想は教育によって実現し、人工の本心も簡単に生み出せるからだ。たとえそうした政治的な都合で人工的意図的に生み出されたものであっても、本人個人にとっては、やはりそれが自身の本心であることには変わりない。教育というのは実に恐ろしいものだと思う。
 少なくとも僕の周囲では、かの国に対してほとんどの人々は何でもなく思っていたのに、「日本沈没」の映画に対する、かの国の人々のコメントを見聞きすることがきっかけとなり、かの国に対する見方が「なんて常識のない国なのか」と悪い方向に向かっていった記憶がある。
 対話する環境にあれば、思ったことを口にしても対話によって修正されていくから、歯に衣着せぬもの言いでも、人格が疑われることはあったとしても、大きな社会問題に至ることはないだろう。
 ところが、対話する環境がないのにもかかわらず、言いたいことを放言すれば、必ず悪い方向に向かう種を蒔くことになってしまう。それが今となって芽を吹き続けているように強く感じる。普通なら相手に言わないことを平気で口にしてきたり、文字にしたりするのだから、いつか悶着が起こることになるのは当然だろう。
 近くは阪神淡路大地震、また東日本大震災の時も、やはり同じように日本の被害を喜ぶ声がかの国から聞こえてくる。これはいったいどういうことなのだろうか。
 そうした発言は、通常の精神状態にあるならば、人としてはあり得ないことだ。どの国でも、自らを人としてあり得ないことを行うと宣伝するような言動は、あまりにも恥ずかしいから思っていてもしないものなのだが、どうもかの国ではそのようではないらしい。
 もっとも、無理やりに善意に解釈すれば、個人的には人間のレベルが様々なので、そうした「人としてどうかと思われる発言」をなす人も、世界は広いゆえに、稀にはいる可能性はあるだろうと広い心で構えてみてもよい。しかし、それが国レベルの声となると話は別だ。幻想に基づくものではあっても、その声が国レベルで同じ方向性を持ってきた途端に実体が伴ってくるからだ。
 現在と未来を大事にせず、歪められた過去に基づく「反日」の風潮をつくりあげる行動は、やがて国際社会からのマイナスの評価を浴びることになるのだが、そうしたことは考えずに目先どころか、それすらも見失って、長い年月の間、扇動されるがまま、無批判に行動に移ってしまうようだ。そこに一筋の光明をもたらすことになったのが、「反日種族主義」という韓国の著作だ。
 ただ、朝鮮半島に住む人々が、太平洋戦争を日本兵として戦った記憶を消したいという気持ちからの「反日」ならば、納得はできなくとも理解はできる。嵌められたとは言え、日本は敗戦国だ。だから、かの国に「同じ側にいた自分たちは大損をした」と考えるがいても、必要に迫られて打って出た日本とは異なり、それは自然なことかもしれない。
 しかも、その後の朝鮮戦争で、南北合わせて五百万人以上の死亡者を出した一方で、先の大戦で三百万以上の死亡者を出しているとはいえ、日本は所謂「特需」で得をしたということがあるので、その思いは尚のこと強いだろう。
 だからといって、日本を未来永劫恨み続けるというのでは、持ちつ持たれつの国際社会で生きていくには土台無理がある。しかし、そうした無理なものを精神の柱としなければ、皆で共有して持たねばならない自国のイメージという幻想を、支えきれないのだろう。
 ただ、そのために「敗戦国の日本と同じ扱いを受けたくはない。国際社会で認められたい。だから、反日活動が必要だ。」というおかしな思考回路に自らを封じ込めてしまい、身動きできない地獄のような道を自ら作り上げてしまったかのように見える。
 調べねばわからないが、もしそうだと仮定すれば、その思考回路はどの段階でどのようにして形成されたものなのだろうかという疑問を持たざるを得ない。
 親の手にあって保育されていた頃に、常識としてもたらされたものだろうか。学校教育の中で、組織的に注入されたものだろうか。はたまた地域社会の空気の中でだろうか。それともマスメディアのはたらきでだろうか。それら全部同時にだろうか。はてさて。
 つまるところ、韓国は戦勝国側の国になりたいのだろう。そのためには、「反日」を標榜するしかないということなのだろう。「反日」は、かの国の人々にとっては生きる知恵というわけだ。だが、それは実に悲しい知恵だ。
 ここまでくると、誰か大思想家が現れて、高いレベルの意識を持てる環境をつくっていかない限りは、国家的な国家にはならないだろう。二世代以上にわたってなされた「反日教育」は、絶対的な感覚としてとまではいかなくても、少なくとも伝統文化のようなものとして確実に根付いたはずだからだ。
 したがって、客観的にはいざ知らず、もう「反日病」ではなく、「反日文化」とでも表現すべきものの如くに成り果てたもので、かの国の通常の人にとっての「反日」は、自明の理として認識されていると見て、ほぼ間違いないだろう。だから、人命救助とか、災害時の救援とか、貿易の一部など、極めて限定的なつきあいにとどめておくしかないだろう。
 ただ、そのような大思想家が出現したとしても、その思想が「親日」ではなくても、「親日」という決まり文句によって、早い時期に潰されてしまうことだろう。仮に「親日」であったからといって、そのことによって潰されるということが、国としては不健康極まりない状態にあると言ってよいだろう。
 日本のことを敵だと思いたければ、思ってもらっても構わない。現実的にはそうではないからだ。ただ、国際社会では敵も味方もない。持ちつ持たれつだ。しかし、今のかの国は、持ちつ持たれつの国際的関係を無視しているどころか、壊している。日本のことをどう思うおうが教育次第なのだから仕方がないが、実質的に関係を壊すのは許されないことだ。
 とにもかくにも、文化交流については、過去においては日本文化や情報の流入を拒否してきた歴史を持っている国だ。現在でも日本の文化や情報は限定的な取り扱いに見える。日本の方策や対応や態度は、正しく伝わっていないということが、この一、二年で次第にわかってきた。
 どの国に対しても同じスタンスで向き合うというのは、かえって不自然なことだ。日本に対するかの国の態度の歴史に応じた構えをもって、向き合うことが、これからは特に必要だと思う。
 さて、国際社会でのかの国は、当然のことながら戦勝国とは見做されていない。だから、敗戦国である日本に因縁をつけ続けるということによってしか、戦勝国寄りに立つことができないと認識しているのだろう。それが、「反日」の気分的な出発点の一つとしてあるのだろうとは想像する。ただし、そうした「反日」の努力も、惜しいことに常識ある国際社会からはみっともないことだと思われている。
 それは努力すればするほどに、そのように思われてしまうというパターンだ。国同士の関係も、個人同士の関係にはたらく力学と非常に似ているものがはたらいているように思う。
 そうした中での「旭日旗」デザイン探しとその糾弾は、かの国の人々にとっては、「親日」隠し、あるいは愛国者アピールでのポイントアップ、もしくは議論する能力のなさによる自己肯定感の低下を、天下御免(と思い込んでいる)の「旭日旗」デザイン探しと糾弾という「お決まり行動」をすることによって高めることなのかもしれない。実に悲しくも恐ろしいことではないか。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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