恐怖シリーズ343「旭日旗モチーフ?」⑫

 それにしても、かの国においては、ここ十数年来の相次ぐ教科書の「反日改訂」によって架空の歴史を刻み込まれてきた若い人やその親たちの年代は、「三つ子の魂百まで」のたとえもあるように、かの国の歴史学者たちによる長年の研究成果である著作「反日種族主義」の記述内容を正確に読み取ったとしても、恐らくは心情的には了解することができないであろう。なんともかの国の政府は罪なことをしたものだ。教育を政治的に利用し、国民の知識や感情までコントロールするという目論見は、そこに「誠」がなければ、真の愛国心も育てられないというよい例だ。
 それに対して、この国は一九六五年以来「かの国と仲良くしよう、お隣の国なのだから」と再スタートを決意して誠意を尽くしてきた。しかし、それが気に入らないのだろう。仲良くしてしまうと、お金をせびり取ったり、脅し取ったりすることができなくなるからだ。
 爺さん婆さんの言っていたことと、親や先生たちが言っていることとの間に生じる矛盾を、鋭く見抜いている「かの国の若い世代」は、ネット情報や、かの国の勇気ある研究者たちからの情報を手にすることによって、ますます確信を持って覚醒し始める時期となってきたようだ。
 世代ごとで保有している情報や知識、その間にあるギャップが大きければ大きいほど、つまり「反日教育」の程度が甚だしければ甚だしいほど、「三つ子の魂百まで」作戦である「反日教育」がとなえる嘘の内容は、より賢く情報源の多い若い世代の目に、奇異なものとして映ることになるのだ。それを計算に入れず、「反日教育」を徹底させることだけを単純に考えているのだから、実にお粗末な戦略だ。
 どれほど巧妙に「反日教育」を徹底させても、通常の判断能力と並みの教養を持っていれば暴くことができる程度のものだ。感情が邪魔をして、もしそれができないのであれば、国民の程度が疑われてしまうだろう。
 嘘からは嘘の結論しか生まれない。その嘘の結論を好む人々が目標としていることを洞察する力が、かの国の人々にあるかどうかが試されている重要な時期にあることを、岡目八目だからだろう、この国の人々は心配しているのだ。そうした他国の国民に対する心配があるから、かの国でこの国の商品に対する不買運動が長期化していても、この国では、かの国の商品に対する表立った不買運動など起こらないのだ。
 しかし、かの国の「反日」の根拠となるものの嘘を日本が暴くと、感情的になって反発する材料とするだけなのは、これまでの経験から火を見るよりも明らかだ。
 幸いなことに、かの国は「反日活動」を国際社会で広めようとしている。実は、この活動は国際社会の一員である各国の学者たちを小馬鹿にする活動となっている。かの国は、各国の歴史学者や政治学者たちが、「反日活動」自体を研究対象にするということを怠っていると解釈できるからだ。
 さらに、かの国が、自分たちが展開する「反日活動」によって伝達される情報を、各国の歴史学者や政治学者たちが鵜呑みにすると見くびっていると解釈できるからだ。つまり、自国以外の学者たちは三流学者ばかりだと見くびった、低い評価しかしていないということになるからだ。
 それに反感を感じない学者はいないだろう。その方面からも、かの国の「反日」がご都合主義による嘘に塗れたものであることが論証され、反論がなされるようになるだろう。現政権による「反日政策」が現在進行形だから、まだ分析を続けている段階なのだが、現政権が崩壊して次の段階に入ったときに総括が始まるだろう。
 さて、かの国の憂国の愛国者である歴史学者たちは「反日種族主義」を著したのみならず、「反日デモ」に対するデモを始めたらしい。このデモンストレーションは、かの国には勿論のこと、日本にとっても大きな意味を持っている。
 だが、これを心情的経済的に支援しようと思う日本人はたくさんいても、残念なことに行動を起こすことができない。簡単な理屈だが、そんなことをすれば、かの国の損得抜きの命がけの歴史学者たちが、自国での立場をますます無くすどころか、その家族にまで及ぶであろう被害が甚だしくなるだろうと容易に想像できるからだ。信じられないことだが、かの国はそういうお国柄なのだから仕方あるまい。
 孤立無援の存在になることを当然覚悟しての反「反日デモ」を、かの国において、かの国の研究者が敢行する。つくづく学者というものは偉いものだと思う。政権に目をつけられ、自分の立場が悪くなり、家族に実害が及ぶことを承知で起こす行動というものは、「金も要らない、地位も要らない、命も要らない」という、批判される側としては実に始末の悪いものだ。彼らと彼らの家族たちの人権が侵されることがないように祈るばかりだ。
 勿論、かの国の大統領は人権派弁護士として慣らしたお人だと聞くから、厳しい立場に置かれるであろう彼らの人権を政権の名誉にかけても守るであろう。それができなければ、「仮面が剥がれ、正体を現した」と国民から蔑まれるからだ。
 「金がほしい、社会的に注目されたい、少しでも長く生きたい」という性根の対極にあるのが、お抱え学者とは一線を画するところの、真理を追究する、これら真の学者たちだと尊敬する。当然のことながら、その真の学者にしても「親日」であるとは限らないだろう。
 実は、学者にとっては「親日」も「反日」もないと思う。だが、嘘は嘘として許せないのだ。とにかく、反日の立場にある学者とか、親日の立場にある学者とか、どちらも嘘くさいことには変わりない。
 「反日」を否定する人は「親日」であるという理屈が論理的に間違っていることは、幼い子供でも理解できるだろう。しかし結果として、「反日」か「親日」か、という二価値論的な偏狭な判断だけが選択肢として頭に浮かんでしまうように訓練されてきた人々の人口が増えているのが、かの国の実情なのだろうか。その惨状を「反日デモ」の中に目の当たりにし、損得勘定をしない真の歴史学者たちは、憂国の愛国者として立ち上がるしかなかったのだろう。
 彼らは「旭日旗」について「反日種族主義」の中でどのように著述しているのだろうか。それにしても、学者が真の学者たろうとするとき、孤立無援の存在になることを厭わないという覚悟をしなければならないものなのか。それは少なくとも正常な世の中ではないと言わざるを得ない。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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