恐怖シリーズ344「旭日旗モチーフ?」⑬

 ところで、かの国において戦後以来の「反日教育」を受けながらも、そして愛国心を持ちながらも、客観的に物事を見て、総合的に判断できる知識階級や、そもそも「反日教育」を受けていない高齢者は、現状の異様な二国間の関係をどのように見ているのだろうか。
 「政治的に意図的に作り上げられた反日の姿勢や活動は、あまりに理不尽なものだ。」と理性的に判断することのできる人たちが、どの程度いて、どのようは社会的影響力を持っているのかということが問題だ。
 今回、かの国の勇気ある著作「反日種族主義」が、かの国にあって二か月で十万部を超える販売数を誇り、ベストセラーとなっているようだ。これまで沈黙を余儀なくされているどころか、意に反して「反日」の言動を取らざるを得なかった、かの国の人々が、「我が意を得たり」と読み広めていったからだろう。そして、並みの洞察力があれば、何となくおかしいぞと思っていた人々も、目から鱗が落ちる思いで読み深め、記載された事柄に強く共感したからだろう。
 勿論、歴史の真実など誰も直接に確認することができない。そこには解釈があるだけだ。解釈する人の数だけ歴史があると言えば言いすぎだが、残念ながら解釈というものは意図的にどのようにでも加工できるものだ。
 「理屈と膏薬はどこへでもつく」とはよく言ったもので、どの国でも歴史の中で行われてきている。加工しようという意識がなくとも、歴史というものは勝利者の手にあるものだから、一方の側の見方によって解釈されたものとなる。他方の側から見れば、最初から加工されているようなものに見える。そこへ歴史学者が他方の側の解釈をして添えるということはある。
 正史は正史だが、他方の側の解釈が添えられていないものは、正史の正史としての度合いが低く、信用できそうにない。 
 しかし、「反日種族主義」という著作を、目から鱗が劣る思いで読み進めた人たちがいる一方で、逆に「親日」を叩く材料を得るために読み進めた人たちもかなりいるのではないだろうか。
 想像に次ぐ想像を重ねているうちに、最初の想像がいつの間にか動かざる真実にすり替わってしまって、そこからまた更なる想像に突き進んでいくための土台になっていくという、二重の現実逃避。かの国には、そうした傾向が強くあるように感じるから、このように自分も想像してしまう。想像というのは、そうしてみると悲しいものだ。
 そうした人々も両方合わせなければ、十一万部という販売部数を短期間で叩き出すことはできないという感じがするが、どうだろう。
 もし、そうでないとすれば、あの販売部数の伸びは、本音を言えぬ社会の深き闇が相当のものであることを示していることになろう。その後の販売部数の報道がなされないことに対しても、また別の闇を感じてしまうのだが、そう思うのは僕だけではないだろう。
 現代は情報化時代だ。当然のことながら情報は操作可能だ。しかし、それを情報を総合的に分析すると、理屈に合わないことがあぶり出されてくる。あぶりだされて都合が悪くなると、新たに嘘を追加するか、解釈し直すかのどちらかだろう。だが、そうした力が不足しているか、解釈の種が尽きれば、単に隠蔽するということになるだろう。もちろん、隠蔽したこと自体を隠蔽する方法が悲しい技術として発達し、そうしたこと自体を受け入れる精神構造も、悲しい性として身についていく。
 こうしたことは、どこの国でもあることだが、かの国ではその傾向が強く出ているように感じる。この傾向が、個人的なものとしてではなく、社会的なものとして歴史的な流れをもってくるようになったのは、政治の強行的な「反日路線」の成果だろう。日常的な発想や文化的なレベルにまで浸透して一般化してしまったために、強行的な「反日路線」自体に何の疑いもなく、ごく当然のこととして行われていくのだ。当然、そこには反省もなく、ためらいもなく、羞恥心もわくことはない。その路線には絶対正義としての「反日」がそこには掲げられていたからだ。
 次の段階は、何の看板も掲げられていないのに、性根としての「反日」が根付いてはたらく状態の到来だ。一時的な意図的なものから、世代交代を経て文化へと定着した姿だ。発想の根底にあるゆえに、そこから逃れられはしない。また、苦しいときには自然としがみつくものとなっていく。
 そうした己の精神構造に関わる重要なものが、己に内在するものにではなく、日本という己の外にあるものに依拠しているということが、そもそも不健全の始まりだろう。かの国の哲学者たちは、いったいどのような警鐘を社会に対して鳴らしていたのだろうか。
 さて、これまで、かの国で難なく生きるには、正直な気持ちを敢えて打ち消して黙っているか、単純に「反日」に同調してしまうか、二つに一つを選ばなくてはならなかったと想像される。そこに葛藤を感じるタイプの精神レベルにある人々については、そうした葛藤が、これからはなくなっていくだろうから、そこに関しては楽になっていくだろう。
 学校の教科書を書き換えてまでして徹底させる必要のあった「反日教育」が、人々に長年の影響を与え続けてきた。それは文化レベルにまで達したため、正常化させるには、「反日教育」にかけてきた年月がかかるに違いないからだ。つまり、当分の間、「反日」に関しての葛藤すら起きないだろうと想像される。
 つまり、世代をまたがる「反日教育」(平日の学校教育はもちろんのこと、マスコミによる年中無休の国民教育)によって、「人工的な反日の人心」が一般化され、さらに定着していくということだ。その中で、さまざまな心情を持った人々が生活していくということになるのだと思う。
 社会的に強い批判を浴びたり、家族にも大きな影響があったりするはずの、一見「親日」と評価されてしまいそうな、「反日種族主義」のような著作を敢えて出版しようとする出版社も相当な覚悟だったろう。それは、当然のことながら商売ではあるけれども、もともとは愛国心ゆえだろう。
 そして著作に関わった人々たるや、学者としての誇りを半ば命をかけてでも守らざるを得なかったという、あり得ない国家の状況があったとはいえ、その愛国心の強さや正義感、学者魂は相当のものだと、本当に頭が下がる思いがする。人の尻馬に乗る者たちの振りかざすインチキ愛国心と比較しては罰が当たるが、誠に雲泥の差だ。
 そのインチキ愛国心で「旭日旗」を否定するのか、真の愛国心で「旭日旗」を否定するのかは、同じ否定されるにしても、重さがまるで違うのは、言うまでもない。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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