変な疑問216「五輪の塔の不思議」⑭

 次に、遺体に対して「不浄なものと同じ思い」を抱くのはどうしてかを考えてみよう。
 「ご不浄」という言葉がある。「便所」を遠回しに表現した言葉だ。しかし、「便所」自体も遠回しに表現した言葉だろう。
 「便」は「大便」「小便」の「便」だから、直接的な表現のようにも感じるが、それは使い慣れたために、せっかくの婉曲表現も直接表現化してしまっただけのことだろう。「便」は「お便り」だ。つまり、「来たるべきもの」だ。食べれば、やがては来たるもの。たくさん食べれば、たくさん来たるべきものが来る。悪いものを食べれば、苦痛とともに来たるべきものが来る。そういう日常生活の理屈の上に立った言葉だろう。
 そうなると、現在「ご不浄」という言葉を、「便所」の婉曲表現による丁寧な言葉として多くの人々が長年多用し続けると、遂には「便所」化し、直接表現として落ちぶれてしまうに違いない。
 そうなったときは、直接表現化した「便所」よりも、直接表現化した「ご不浄」の方が、かなり酷い言葉になってしまう感じがする。
 「ご不浄」と「ご」がついているから、誤魔化されてしまうが、つまりは「不浄」なのだ。「便所」に「お」をつけて「お便所」とし、比較する条件を整えると、「便」に対する「不浄」というのは、かなりの直接表現だ。「便」という表現が「ものの動き」をそれとなく示すだけにとどめているのに対して、「不浄」という表現は「もの自体の性質」を嫌悪感とともに明確に示してからだ。
 上品な「ご不浄」という言葉もこうなると台無しだ。もともとは「不浄なる場所」という意味で「不浄場」と呼ばれていたのではないだろうか。しかし、それはあまりにも直接的なので、「ご」をつけて丁寧語化したり、「場」をとって特定の具体的な場所であることを曖昧にしたりして、語調を和らげる方向に行ったのではないかと想像する。
 その「ご不浄」つまり「不浄場」が不浄なる理由は、不浄なる物が満ちあふれていく場であるからだ。その臭気が酷いのは、今も昔も変わらない。その臭気が酷いのは、表の生活の場から遠ざけるべきものだということを知らせるための自然の仕組みなのだろうか。したがって、便所は基本的には裏手の別棟となる運命にある。しかし、狭い土地を多くの人で利用するしかなくなっていくから、別棟ではなくなる。すると、臭気抜きのシステムや消臭剤、水洗のシステムなどが開発されてくる。
 大便と小便は不浄な物ということなのだ。その大便小便のたまる場所は異常な臭気を発していただろう。まさしく不浄物だ。かぐわしい食べ物も人体を通過すれば、異常な臭気を発するものと化す。消臭剤もなく、天然の水洗システムがとれない場所では、深い穴を掘って最終的には埋めるしかなかったのではないだろうか。
 こうなると人体が不浄であるがゆえに香しき食べ物も不浄化されて大便小便と化して排出されるのか、それとも食べ物のうちに不浄なる性質が込められていて、人体を通過する間に不浄ならざる性質のものだけが吸収されて活用されたため、残りの不浄なる性質が全面的に発露した形で大便小便となって排出されてくるのかという話になってくるだろう。
 仏教関係の本で、人に関する煩悩をぬぐい去るために、人も所詮は「糞袋」と思うべし、という意味合いの話に出会ったことがある。なるほど、確かに見方によっては「糞袋」だ。正確には「糞尿袋」ということになろうか。あるいは、「糞製造器」といっても言えるかもしれない。
 そのような見方をすれば、誰でも皆平等に糞づくりに励み、できるだけ糞をため込み、満ちあふれれば垂れ流す存在だ。それでは身も蓋もない。
 たとえば、色香に迷わされそうなときだ。特に、それが不幸の種になりそうなのにどうしようもないときなどには、仕方なく必要に迫られて、「糞袋」とか「糞尿袋」とか、そんな「間違いではないけれども、身も蓋もないような見方」をすればよいのだと思う。
 普段の見方をそのようなレベルに下げ、人をながめては四六時中「糞袋」とか「糞尿袋」とか思い描いたり、そのようにつぶやいているようでは、それもまたとらわれた見方になってしまう。事はそれだけで済まない。不幸な人間観、人生観に陥り、未来の展望もなく、人生を歩む勇気すらなくなり、先に進めなくなってしまうだろう。
 どのような見方をどのようなときにすべきかという判断を間違いなく行う知恵が必要だ。嘘も方便とはよく聞くが、それよりも、こうした分別を臨機応変に行うことこそが、あらまほしき方便ではないかと思う。
 さて、遺体を「不浄なものと同じ思い」を抱くのは、精神に及ぼす影響を考慮して、あるいは衛生面を考慮して、断固これを遠ざける必要があるときだろう。
 多くの遺体を前にしてしなくてはならないことは、それが誰の遺体であるかということを確認すること、そして然るべき所に運び、十分な供養がなされるような運びとなるように心を砕き、そのために為しておくべきことを手際よく為していくことだ。
 しかし、そうすることが不可能な場所であったり、そうすることが不可能な遺体状況であったりすることも多いだろう。しかし、早急に何らかの処置を施さねば、発見時には既に腐敗が始まり、見た目にも衛生面でも問題が発生しつつあるというとき、それは「不浄なもの」として扱われることになるはずだ。
 肉体の腐敗した様子や臭気は元より、様々な動物、虫たちに荒らされる状況が加わり始めているという状況であれば、遺体に対する様々な他の思いとともに、この「不浄なものと同じ思い」を持ち、為すべき事を為すという強い気持ちが必要になるだろう。
 さて、僕たちが亡き人に思いを寄せて、その遺体にすがることができるのは何分か何時間か何日間か。それは、短ければ短いほど悲しく、そしてまた、長ければ長いほど悲しい。遺族の心の変化、そしてその調整が為されるのにちょうど良い期間があると思うのだ。これは個人差があるから、平均的なものにするため、儀式化する必要がある。儀式を通して、できるだけ個人差をなくすという作業が必要だ。葬式はそのためにもあると思う。
 心の調整がなかなかできない者に対しては涙の抑制を、逆に心の変化が必要な者に対しては涙の促進を。それを統一化し、心を合わせて弔うという合理性が葬式にはある。その儀式以降の遺体は、儀式を通して、それ以前の遺体と区別するのが容易となるだろう。とにかく式の中で、ある者はすがり、ある者は無視し、ある者はけなすというような見苦しき不統一は根絶される。だが、葬式という儀式を終了した後は、遺体に対する対応の仕方に一区切りがつけられ、その後は、各個人のそれぞれ気持ちの問題となる。
 腕に抱いて涙を流す存在から、次の段階へと進む区切りをつける儀式が葬式だ。残された人々のそれぞれの気持ちの問題とするため、人間の現物としての遺体は必要ではなくなる。語弊を恐れず言えば、何らかの形での処分が必要とされる存在に変わり果てるということだ。その処分の仕方は、火葬なり土葬なり水葬なり、法律、土地の風習、置かれた状況などによって変わってくる。
 何より、それ以後は不浄なものとなってしまうので、それを避けるため、焼却することによってもう不浄な物に変化しないようにし、遺灰遺骨を手にするか、土に埋めたり、水没させたりして、不浄なものに変化するのが見えないようにするしかないということだ。
 どうしても長く保存したいという気持ちが勝る場合、しかも潤沢な財産があれば、遺体に防腐剤を入れたり、温度湿度などの環境を管理したり、冷凍保存したりして現状を維持したまま遺体を保存する方法をとることも、また、昔のエジプトではないが、何らかの宗教的な意味合いで、生前の面影はなくなるかもしれないが、木乃伊にするというような、かなり特殊な方法もあるだろう。勿論、法律を考慮しなければの話だが。
 ところで、土葬の場合、墓から遺体が這い出して、家にまで来てくれたら、それは嬉しいのか、恐ろしいのか。十中八九、それは恐ろしいと感じるだろう。「生き返ってくれて嬉しいな。」とはならない。あんなに死んでほしくなかったはずなのに、いざ死んでみると、生き返ってほしくはないのだ。本当に生き返っても、それは不気味な存在になって目に映るはずだ。たとえ、遺体の損傷がなくてもだ。
 この心の変化は一体何だろう。遺体の損傷がなく、臭気もなく、生きていたときの姿となって這い出てきても、どうして恐ろしいのだろう。願っていたはずの現象なのに、受け入れることができないのはどうしてだろう。
 やはり、「不浄なものと同じ思い」の占める割合が増えているからだ。その「不浄なものと同じ思い」を抱いてもよいという許可が、葬式という儀式で下りているからだろう。だからこそ埋葬する気持ちに移行できるのだ。
 ところが、いつまでも遺体は「不浄なもの」であり続けるかというと、そうでもない。火葬にされ、遺骨遺灰となったときに、不浄だと感じるか。遺体に触れなかった人も、遺骨遺灰には触れる人が多いはずだ。火の力によって既に浄化されたという感覚が生じるからではないか。
 土葬でも、完全に白骨化すればどうか。やはり触れる人が多いはずだ。ただし、原形はとどめているから、火葬された遺体よりも触れることができる人は少ないだろう。しかし、これも時を経て、一万年前、十万年前の骨ともなれば、ほとんどの人が触れるはずだ。
 要は、骨を通して生前の人が脳裡に浮かぶかどうかという問題だ。江戸時代あたりの骨では、着ている服や表情など、テレビなどでイメージしやすい状態になっているため、触れることが難しい人もいるだろう。
 この場合は、遺骨というイメージというよりも、歴史的な発掘物というイメージに変わることが、触れることができるかできないかの大きな条件だろう。
 骨付きチキンもおいしいが、骨から生体をイメージしたら食べにくくなる。骨をアイスの棒と同じように、物としてイメージしているから、肉を削がれた足なのに平気で持てるし、口で触れることすら可能となるのだ。
 イメージは儀式によってコントロールされる。だから、葬式をしないといろいろと不都合なことが起こってくる。埋葬する気持ちに移行できず、不浄物となりはてて仕方なく処分することになったり、逆に不浄物となる前に埋葬してしまうことによって、本当に蘇生するはずの人を焼き殺したり生き埋めにしたり、また処分することなく遺体ととも暮らしてみたり。もっとも、適切な処分をしてから、遺体ととも暮らすという風習はありそうだ。その場合は、そういう風習なのだから別に不都合は起こらないだろう。
 遺体については、以上のようにさまざま想像できるが、幽霊はどうだろう。幽霊の存在は物理的に存在するかどうかは別として、神経的には、そして勿論、精神的には存在するだろう。
 その幽霊は不浄なものだろうか。妖怪や化け物なら肉体がありそうで、何か不浄な感じがする。触った感じがいやらしかったり、匂いが奇妙であったり、発生する声や音が不気味であったりして、不浄な感じがする。
 ところが、物静かな幽霊はどうだろう。姿があるだけで肉体がない。たとえその姿が恐ろしくとも、不浄という感じはなしない。ただひんやりとした冷気でぞっとする。その冷気に不浄さを感じないと思うのは僕だけだろうか。
 幽霊と一緒に描かれる火の玉はどうだろう。火の玉にも不浄な感じは持たない。幽霊に取り憑かれても、火の玉に追われても、恐ろしい目に遭ったとは思うけれど、恐らく不浄な感じは受けないと思うのだ。
 それらは、恐らくは遺体から離れたものだからだろう。そのようなイメージが僕の中にあるから、不浄な感じがしないと想像するのだろうと思う。
 そもそも「不浄」とはどういうことだろうか。浄められていない状態だから、どうすれば浄められるかを確認すれば、何か分かりそうだ。
 塩で浄める。水で浄める。火で浄める。これらは結局のところ調理ではないか。味付けの基本である塩の加減で、受け入れられる味となる。塩に漬けて保存し、長期間受け入れられるものとする。水で洗う。水に入れて煮る。水で蒸す。こうすることで、腹も痛くならず、柔らかくなり、受け入れられるものとなる。火で炙る。火で焼くことで、腹も痛くならず、味も良くなるとともに柔らかくなり、受け入れられるものとなる。
 浄められて受け入れる。調理して食すことができるようにする。関係がないわけはないだろう。
 塩と水と火。これを施さねばどうなるか。特に遺体は塩漬けにすれば長持ちする。特に戦国の世、首実検のためには、生首を持ち運ばねばならなかっただろう。遺体としての顔が腐乱して変形しては首実検できないので、塩漬けにしたはずだ。
 首実検用の首だけではなく、兵糧としても塩漬けの肉はあったに違いない。保存している間に腐ってしまえば、臭気を放ち、不浄なるものとなる。しかし、塩漬けにすれば立派な保存食だ。これはもう浄められたからだと、考えるしかないだろう。
 肉は腐るが骨は腐らない。これをどう受けとめていたのだろう。塩漬けで肉は保存できるという経験はある。肉は、つまり肉体、遺体は塩で浄めなければ不浄なるものとなる。ところが、肉を保存して食わない以上、塩漬けにはしない。
 つまり、骨は不浄なものではないという感覚がありはしないか。だから、土葬で白骨化したり、火葬で遺骨遺灰となったものは、もう浄化された肉体だという感覚だ。
 さらに、遺灰遺骨から炭素を取り出し、高圧をかけ、数千度の熱を加えたら、美しいダイヤになる。そんな商売があるようだが、まさしく浄化の極みだ。指輪にして身につけるまでに、つまり他人様の目に触れさせることすら公然とできるまでに加工したわけだ。
 肉体をダイヤという宝石にしてしまう技術は最近のものだ。宝石にはできないが、石として扱うことはできる。「五輪の塔」だ。石は木と違って腐らない。「五輪」は五代要素だから、要素である以上、それ以上分解できないものだ。つまり、別の物に変化しないものだ。要素に分解して示されている「五輪の塔」は不変のものということになる。それは取りも直さず、既に浄めらている状態だ。そもそも、それらはものを浄めるもの自体だ。
 そうした「五輪の塔」に骨を収めるべき部分があれば収め、収めなければ、浄化された遺体の代わり、仏と同じ扱いともなるべきもの、つまり供養塔として成り立つのではないだろうか。
 因みに、葬式の後に配られる物に塩がついているのは、まさに不浄なるものと化す遺体や関係する物を見たり触れたりしたでしょうから、そのことによって穢れた身を塩で浄化してくださいということなのだろう。
 遺体を穢れの元としながらも、それは仏になるものでもある。宗派によっては、人の死にあたって「おめでとう」という。それは仏になるかだろう。極楽に行けるからだろう。だから、不幸ではなく、幸福なことというとられで「おめでとう」というらしい。
 しかし、それは人生を全うした人に対しては言えても、これから人生を歩む人の死については、とても「おめでとう」とは言えないはずだ。
 遺体をどう捉えよう、遺体が仏となる段階。仏となって昇天する段階。昇天した後は、仏の抜け殻的存在となる段階。抜け殻を埋葬する段階。こういうことなのか。
 すると、埋葬したのは抜け殻で、それが不浄のものとならぬように適切な埋葬の仕方が為されるということなのか。
 鎮魂という言葉がある。言い換えると、魂は仏になって昇天しないということなのか。それとも昇天できない魂があって、それを仏にできないため鎮めるしかないということなのか。あるいは、成仏させるプロセスとしての鎮魂なのか。分からないことはたくさんあるものだ。
 最初から魂など存在しないという人もいるだろう。魂の定義が問題だという人もいるだろう。しかし、そうしたことはどうでもよい。ただ魂があるということを考えていた人々がいるという事実を考えればよいだけだ。
 その場合、遺体と魂との関係をどう捉えているかを明確にしないと、上記のようにああでもない、こうでもないと迷うばかりとなる。
 一人の人間に宿っていると考えられる魂のことを云々すると、目に見えないものだから、結局は訳の分からない話になっていく。仕方ないから、魂があるとして、その存在目的を考えればよいだろう。目的が見つからねば、魂は存在しないということにすればよい。
 そのうち目的が見つかれば、魂があるものとして物事を考えれば良いだけの話だ。これも方便だ。根拠を認めることができないのに、無理に信じのは変な話だから。
 最初から無条件に信じていれば良かったと後悔する人も中に入るかもしれない。しかし、そうした場合も自己責任と考え、必要なだけ後悔すればよいだけのことだ。
 もちろん、大和魂とか士魂とか、本来の意味での根性という意味合いの魂は、当然「何々精神」という言い方のものと同類のものだから、当然存在する。その魂によって、力強く生きることのできる人がほぼ100%のはずだから、絶対に馬鹿にならない言葉だ。霊魂の魂と区別した別の言葉に切り替えた方が良いと思うのだが、そういう訳にはいかないだろう。

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変な疑問215「三種類の『植物一日一題』の不思議」

 タイトルが改竄されてしまうことの恐ろしさについては、恐怖シリーズ215「タイトルの改竄理由」で述べた。しかし、若干の疑問が残る。それは、「序文」の位置と内容だ。
 それは、恐怖シリーズ215で扱った著作と同じだ。牧野富太郎氏の「随筆 植物一日一題」1954年発行(東洋書館)と、同じく牧野富太郎氏の「植物一日一題」1998年発行(博品社)だ。
 牧野富太郎氏は、小学生の僕が知っていたほどの有名人だ。牧野氏については、以下、ウィキペディアより抜粋。

<1862年5月22日(文久2年4月24日)ー1957年(昭和32年)1月18日)は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。 「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。>

 だからといって、僕が小学生の頃から植物に関心があったわけではない。その逆。植物に何の関心も持っていない小学生でも名前ぐらいは知っていたということだ。
 今、僕の目の前にある現物は、東洋書館発行のものと、博品社発行のものを底本とした青空文庫版のものだ。青空文庫版のものは、2012年作成のものだが、いつ作成されたものであっても、電子書籍化する過程で、意図されたされないにかかわらず、多少の異同はあるに違いない。
 青空文庫はボランティア等が入力をしてコンピュータやら様々な端末で無料で閲覧できるものだ。その青空文庫版には、1998年発行(博品社)のものを「底本」としたことが明記されている。また続けて、1953年発行(東洋書館)のものを「底本の親本」としたことも明記されている。
 この二種類の「植物一日一題」は内容は同じだが、同じものではない。本のタイトルに「随筆」とついている方が、1953年発行(東洋書館)のもので、牧野氏91歳の写真が近影として巻頭に綴られている。当然、「随筆」とついていない方の1998年発行(博品社)の「植物一日一題」は、1957年に亡くなられた牧野氏にとっては、見ることのできなかった本ということになる。
 これらの著作物における異同の種類は四つある。一つ目は、「植物一日一題」の前に「随筆」が有るか無いかという、著作自体につけられたタイトルの異同、二つ目は、各章の小見出し、つまり一つ一つの植物に関する文章につけられた各タイトルの異同、三つ目は、各章の文章の異同、四つ目は、植物のイラストの異同だ。
 それは、恐らく青空文庫の入力者によって生じた異同は少ないと想像する。概して、青空文庫の出来具合は底本に忠実だからだ。
 勿論、文章の入力時に生じる誤字脱字はあちらこちらにあるだろう。また、一からの手入力ではなく、スキャンした後に手直しで入力をしたであろうときに起こると思われる、特有のミスもよく見かける。
 スキャナーの文字認識能力がどの程度のものかは不明だが、似ている文字に間違ったはずだ。人間の読み手のチェックも素通りしやすいというわけだ。いっそのこと、奇妙な日本語になってしまえば、読み手の見落としもなくなるが、意外と意味が通ってしまうこともあり、異なる意味の文章としてまかり通るおそれもある。内容如何によっては大変まずいことが現実世界で起きないとも限らない。
 では、なぜ博品社が変更したであろうと想像できる様々な異同が、青空文庫版に存在するのだろう。恐怖シリーズ215で述べたように、その変更は改善よりも改竄に近い。
 誤字脱字の類については、青空文庫が、「底本の親本」としている1953年発行(東洋書館)のものには極めて少ない。しかし、青空文庫が「底本」としている1998年発行(博品社)のもの、あるいは青空文庫本版そのもの、もしかすると両方に誤字脱字の類は幾つも見られる。これは一体どうしたことだろう。1998年発行(博品社)のものを今は見られないので、想像するしかない。
 さて、タイトルは異なるが、内容は同じものとして作成されたと思われる、東洋書館と博品社の二種類に青空文庫版を加え、敢えて三種類の「植物一日一題」があるとしよう。この三者についての変な疑問がどうしても頭を離れないのだ。
 まず、「序文」の位置だ。「序文」の位置の変更ということは普通にあることなのだろうか。
 1953年発行(東洋書館)のものは「序文」が、当然のことながら巻頭にある。「序文」として当たり前の位置だ。これは牧野氏も見ている。つまり、著者承諾のもの、または著者申し入れのものだ。
 ただし、「序文」の実際は「序文に代ふ」というタイトルの文章だ。「序文に代ふ」というのだから、「序文」に相当するものだ。「代ふ」は「代える」のことで、「これをもって、挨拶に代えさせていただきます。」と同じ使い方のものだ。
 「代ふ」というのは、「序文」というほどのものではないけれど、という著者の慎ましやかな態度が表現されている常套句だ。
 これに対して、青空文庫版、そして恐らくは、その「底本」とされている博品社のものも、「序文」の位置がなぜか巻末にくる。「巻頭」にあるはずのものが「巻末」に行ってしまうのは、それはどのような事情があってのことだろう。
 しかも、奇妙なことに、青空文庫版、そして恐らくは博品社のものも、「目次」の末尾に「序文に代ふ」というタイトルを載せているのだ。そのように、「序文に代ふ」という文章が巻末に来ることを先に示しておきながら、実際の巻末には「序文に代ふ」というタイトルを外したうえで、「序文」となる内容の文章を掲載しているのだ。これは理解に苦しむことだ。
 これに対して、「底本の親本」である東洋書館のもの、つまり本家本元の著作では、「目次」の先頭に「序文に代ふ」とタイトルを掲げ、尚且つ当たり前だが、実際に巻頭の位置へ「序文」となる内容の文章を、当然のことながらタイトルを外さずに掲載しているのだ。
 このような奇態は、稀に見るものだ。「目次」の末尾ではあるが、そのタイトルを明記しておきながら、結局はタイトルを外し、何と「序文」の内容だけを載せるという、珍妙さ、不自然さ。
 それは、たとえばこういうことなのだろうか。つまり、どういう理由かは不明だが、巻末に「序文」相当の文章を載せるという不自然なことをすることになってしまった。しかし、それではやはり変だということになり、結局はタイトルを外した上で、「あとがき」のような体裁にして載せた。そういうことなのだろうか。
 だとすれば、目次からも「序文に代ふ」というタイトルを外すのが道理ではないか。このような何とも中途半端な細工がなぜ行われたのだろう。それが文字通りの杜撰でなければ、どのような理由があったのだろうか。謎だ。著者はもう亡くなっているから、著者の判断ではないだろう。一体全体、どのように想像すればよいのだろう。
 もしかすると、第一段階として、目次ごと巻末に移し、第二段階として、巻末に移した文章からタイトルを外したということなのだろうか。すると、常識で考えてみるに、文章のほうでタイトルを外したのにもかかわらず、なぜか巻末に移動させた目次のタイトルのほうは外さなかったということは、それは、何の折衷案に従った結果ではないか、ということになる。
 もし、それが何かの折衷案でなかったとしたら、あまりにも間抜けな作業ではないか。そのような間の抜けた作業をプロが行うはずはない。プロの仕事ではないということになると、それはボランティアで入力している青空文庫の仕事ということになるのだろうか。しかし、志高いボランティアの方が、そのような作業をするとも到底思われない。謎だ。
 そもそも、どんな理由で一見折衷案に見えるものとなったのか。
 著者の意向について編集会議で意見が分裂したまま、発行予定日が迫ってしまったために急遽浮上した折衷案なのだろうか。それとも、著者高齢のため、その発行が最後の出版物となる可能性が高いと判断し、生前の発行を急いだ結果、作業が中途半端なままで印刷にかけられてしまったという、微笑ましくも単純な理由なのか。しかし、両方とも考えにくいことだ。
 博品社とはそのような出版社なのだろう。発行当時から年月が経っているため、現在の博品社とは体質が異なるかもしれないが、現在も立派な活動をしている出版社だから、当時もそうであろう。だから、滅多なことはないはずだ。すると、ますます訳が分からなくなってくる。
 こうなると、博品社ではなく、青空文庫化するときの作業でそうした不自然なことが生じた可能性が濃厚なのではないか、という話にまた風向きが変わってきてしまうが、本当はどうなのだろう。ミステリーだ。そのミステリーの背景にある諸事情を知りたくなってくるが、どうしようもない。
 どうしようもないけれども、不自然さはこれだけではない。「序文に代ふ」は、なぜかタイトルを消され、なぜか巻末に移動させられた青空文庫版の実際の記述を、次に書き抜いてみよう。

(※なぜか、文章から「序文に代ふ」というタイトルが外されている)(※ただし、なぜか目次にはタイトルが最初ではなく、末尾に残されている)(※しかし、なぜか文章は巻頭の位置にあったものが、青空文庫版では巻末に移動している)
「昭和二十一年八月十七日より稿し初め、一日に必ず一題を草し、これを百日欠かさず連綿として続け、終に百日目に百題を了えた。 昭和二十八年二月 結網学人 牧野富太郎識るす」

 「序文」としてはあまりにも短い。短いからいけないということは一切ないが、それを理由にして「序文」の地位を剥奪し、タイトルも外し、巻頭のことばから巻末のことばにして、作品末尾に移動させたのは、なぜだろう。
 その理由として、文章が短いからというのは有り得ない。なぜなら、短い文章を更に半分ほどに短くしたのは、博品社、または青空文庫版作成者だからだ。以下に、「底本の親本」である、本家本元の1953年発行東洋書館の「序文に代ふ」の内容を書き抜いてみよう。

(※文章には「序文に代ふ」というタイトルあり)(※目次の最初にもタイトルあり)(※文章の位置は当然巻頭、著者近影の次、目次の前にあり)
「一日一題禿筆を呵し、百日百題凡書成る、書成つて再閲又三閲、瓦礫の文章菲才を耻づ。昭和廿一年八月十七日より稿し初め、一日に必ず一題を草し、之れを百日缺かさず連綿として続け、終に百日目に百題を了へた。 昭和二十八年二月 結網学人 牧野富太郎識るす」

 何のことはない。両者比べれば、後半は同じだ。こともあろうに文章としては重要な、書き始めとなる前半部分があったということがわかる。言い換えれば、著者も確認したはずの1953年発行(東洋書館)のものは前半部分のある完品で、亡くなった後の著者では確認しようがない1998年発行(博品社)のものは、前半部分を欠くタイプのものであったということだ。
 その失われた前半部分をよく見てみると、語句ごとに七文字の漢字が使用してあり、それが四つ並べられ、一つのまとまりのある一文となっている。これは七言絶句的なもののように感じられる文章だ。
 最初の「一日一題」と、次の「百日百題」が対になっていることや、次の「再閲又三閲」などの表現から、なんとなく漢詩を思わせるのだ。しかも、後半部分よりも一文字分行頭の位置が高い書き込みになっており、後半部分とは異なる体裁になっており、二行に分けられて書かれている。漢詩で言えば、起承の部分が一行目、転結の部分が二行目になっている。確かに、この前半部分は、後半部分と内容の重なる部分があるものの、著者の思いは漢詩風の前半部分の方に表現されている。
 まさか、前半後半部分を同類の文章と見て、前半部分をカットしたということなのだろうか。それほどページのスペースを配慮しなければならないほどの文字数でもなく、全体のページ数に影響があるとも思われない。そうした意味での不自然さも強く感じる。どうしてカットしてしまったのだろうか。全くの謎だ。
 また、仮にカットする理由があるのならば、後半部分の方をカットするのが自然ではないだろうかという疑問も生じるような文章内容ではないだろうか。
 著者は、この漢詩風の前半部分の二行で、思いの全てを端的に表現しているように感じる。そう思うのは僕だけだろうか。どちらかと言えば、後半部分の方が、文字数が多い割に内容の種類が少ない。第一、「昭和廿一年八月十七日より稿し初め、」というのは詳しいようであって、実は不要な部分だ。百日ということはわかっており、日付として「昭和二十八年二月」と同じ紙面、同じ文章に明記されているからだ。
 前半部分の方が「再閲又三閲」とあり、この書に対する著者の思い入れが感じられる。単なる漢詩風のレトリックかもしれないが、敢えて「再閲又三閲」という語句を選択したところにも注目したい。
 一体全体、この前半部分はなぜカットされ、そしてどこに行ってしまったのだろう。もしかすると、昭和二十八年の出版後の事情かもしれない。
 それは、よくあることだが、できあがってから気づくことや気になるところが出てくるというものだ。できあがってから間違いを発見する、間違いを指摘される、できあがってから加えたい内容が出てくる、というような出版「あるある」によって、著者自身が、「再版するならこうしてくれ」と言い残したのかもしれない。
 そうしたことがあったということでなければ、勝手に文章の位置を移動させたり、勝手に前半部分をカットして文章量を約半分にしたり、勝手にタイトルを外したり、なぜか目次にはタイトルを残したりと、このような数々の不自然な編集を理解することはできない。
 しかし、仮にそうだとしても、やはり、なぜ目次には「序文に代ふ」と敢えて明記しておきながら、肝腎の巻末には「序文に代ふ」というタイトルを外しつつ、前半部分を消してしまったのか、という疑問は消しがたい。まさか、それも牧野氏の遺言だったということなのだろうか。それは到底考えられない。何とも不思議だ。

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変な疑問214「五輪の塔の不思議」⑬

 次に、遺体に対して「生ゴミと同じ思い」を抱くのはどうしてかを考えてみよう。
 これは遺体を棄てることを前提としているときの思いだ。それは、医療機関での手術で切除された肉体が遺体の一部となったものを廃棄する担当の人が抱く思い、もしくは、猟奇的犯行の産物としての遺体に対して、ある種類の犯人が抱く思いだろう。
 しかし、彼らとは真逆の種類の犯人もいる。遺体や遺体の一部分を「生ゴミ」として廃棄するのではなく、遺体や遺体の一部分を愛好するために大事に保存するのだ。
 それらに対して彼らが抱くところの、「執着する思い」「愛でる思い」「勲章として誇る思い」は、述べたくもない。しかし、だからといって目を背ければ、現実に向き合わない姿勢をとることになってしまう。さわやかな目で見つめ直して古い社会的封印を解き、新しく封印し直す作業が必要だろう。
 この場合には、「生ゴミ」扱いではなく、「宝」扱いする。しかし、この「宝」扱いは、犯罪が根底にあるので、公的に認められた純然たる宗教的なものとは同一視されるものではない。あくまでも、それは欲がらみの「宝」ではなく、たとえば、心の救いの「仏」と呼ぶべきものだろう。
 混乱を避けるためにも、「秘仏」と表現してもよいけれど、「秘宝」とは表現しない方がよいだろう。参拝者も、「秘仏」に相対したときに自然と抱きがちな「秘宝」感覚は、敢えて意識的に自分の心の中から排除するように心がけるとよいだろう。
 当然のことながら犯罪行為は許されないものだ。しかし、宗教的行為も考えてみれば、おかしなことはある。
 愛おしむべき遺体を火で遺骨遺灰に変化させるという所行は何を目的としているのか。生前の名を奪ったにもかかわらず、壺に入れて後生大事にする所行は何を目的としているのか。手を合わせて大事にするにもかかわらず、露天の吹きさらしの冷たき墓石に封印する所行は何を目的としているのか。封印したにもかかわらず、花を捧げて手を合わせ所行は何を目的としているのか。そして、苦しいときめでたいときに通い詰め、つながり続けるのは何を目的としているのか。
 それらの目的が公的に認められたものだからこそ、それが宗教的な行為として認められているというだけのことだろう。
 犯罪者の場合は、それが公的に認められた宗教的目的のための行為ではなく、自分の個人的目的のための行為になっている。つまり、単なる自分の個人的趣味の満足、もしくは表向きは公的な宗教志向であることを謳いながら、その実は個人的趣味の満足というもののための行為だ。
 手段と目的の取り違えもそこにある。犯罪者は遺体や遺体の一部をコレクションしはじめる。手段が目的になってしまっているのだ。そのために、人が多く殺されることもあるだろう。
 独裁者が犯罪者になりやすいのは、自分自身にとっても隠れた個人的な満足のために、死体の山を築くことがあるからだ。そして、独裁者である限り、犯罪者として認定されることがないからだ。
 死体の山を築いても、個人的には愛好できない数なので、代替行為として、その死体が命と引き替えに守ろうとし土地を愛でるのだ。残念ながらその死体の山の中には、自国の兵士や民間人も含められていると思われる。
 しかし、その死体を遺体として処理する段に至っては、独裁者であれ、独裁者ではないが、独裁者的立場にある者であれ、立場上厳然とこれを区別することが多い。
 敵兵は生ゴミ扱い、自国兵は英霊扱いとする区別だ。生ゴミに宗教は関係ないが、英霊に宗教は関係ある。アジアなら神仏扱いされることだろう。
 勿論、敵兵であっても第三者的立場で分け隔てなく弔う集団もあるだろう。その集団も第三者的立場で行動できない場合にはどうするのだろう。
 その時に神仏に試されるわけだ。当事者であっても敵味方関係なく、手厚く葬るか、それとも敵に対しては「生ゴミ扱い」で廃棄したり、「物扱い」で放置したり、あるいは材料として活用したりするか。
 どのような対応を死体に対して行うか。これによって、信じられているもののレベルが決定されてしまうだろう。同時に、信じる者の人間的なレベルと信じ方のレベルも決定される。こうしてみると、人間というのは何て哀れな存在なのだろうと思ってしまう。
 さて、日本ではどうなっているかは知らないが、手術直後に亡くなったならば、切除された肉体の一部は、遺体の一部として戻されるのが筋だろう。その場合、手術によって切除された、廃棄すべき肉体であっても、戻した担当者にとっては「遺体と同じ思い」を抱くはずだ。それは部分ではあっても、自分が切除したのであり、自分の技量によっては切除しなくても良かった場合もあるからであろう。
 ところが、時間差の関係で遺体に戻されることなく、そのまま手術による医療廃棄物として廃棄される場合、それは「生ゴミ扱い」だろうか。そして、扱う人の思いとしては、「生ゴミと同じ思い」を抱くだろうか。
 病院ごとの事情は分からないが、遺体となった患者と人間的なやり取りのあった執刀医が、切除した肉体の一部を廃棄する担当、あるいは焼却処理の担当だった場合は、その人間的関係の深さに応じた「遺体と同じ思い」を抱くだろう。そして、肉体の一部であっても手を合わせるか、手を合わせる気持ちにはなるだろうと思う。
 それに対して、生前の患者と何の人間的な交流もなかった人が、廃棄の担当、あるいは焼却処理の担当であった場合、遺体に戻されることのなかった肉体の一部に対しては、よほど信心深い人か経験の浅い慣れない人は除いて、「物と同じ思い」あるいは「生ゴミと同じ思い」を抱くだろうと思う。その方が気が楽だから、実際に抱く思いとは別に、扱い方を割り切るということもあるだろう。
 因みに、勝手な想像だが、切除した部分が皮膚を含む場合で、手術中か手術直後になくなった場合は、遺体に戻される確率が高そうだ。特に、その可能性が高いのは顔面部分だろう。
 葬儀の時、披露されるのは顔面だけだ。顔面は人間の象徴的な部分だ。他の動物では見られぬほどに、人相は千差万別だ。
 それは、毛皮に覆われていない「素顔」が、人間の「顔」だからだ。しわの寄り方、黒子の有無や数や位置、シミやソバカスの状態、顔色、日焼けの具合、眉も含めた目元の表情、唇の様子、歯列の矯正具合、髭の造作、化粧のセンス、眼鏡の有無、髪型、耳輪に鼻輪、等々。
 普通の動物と異なり、こうしたものが全て露わになっているのが人の顔だ。だから、千差万別に人相が形作られる。お化けになっても幽霊になっても、大抵は顔が出るらしい。肘だけの幽霊とか、お尻だけの幽霊とか、背中だけの幽霊など、あまり話としては聞かないから、やはり顔なのだろう。
 そうした「顔」に対しては、さすがに「生ゴミと同じ思い」とか「物と同じ思い」とかは抱きにくいだろうと思う。最初から物体の人形ですら、その顔の扱いに対しては躊躇するものがある。どうしても「生体と同じ思い」を抱きやすいからだ。
 「五輪の塔」や現代の直方体の墓石でも、抽象的な単純な造形だ。製造技術によるところのものや、素材に適した造形ということもあるだろうが、それはできるだけ「生体と同じ思い」を抱かせないためではないか。
 その証拠に、亡くなった人の生き人形を作って弔う人はいないに等しい。それは亡き人が完全に失われたことを強調するだけの、悲しさ寂しさを深くする効果の方が遥かに大きいと、病的な人を除いては誰もが直感するからだろう。
 「生ゴミ」は臭うが、「五輪の塔」や墓石は臭わない。「生ゴミ」は柔軟で形が変わるが、「五輪の塔」や墓石は堅固で形が変わらない。「生ゴミ」は動植物だが、「五輪の塔」や墓石は鉱物だ。「生ゴミ」は色とりどりだが、「五輪の塔」や現代の墓石は一色だ。
 このように「生ゴミ」扱いを徹底的に拒否している存在が、「五輪の塔」や墓石だろう。
 また、「物」扱いをも徹底的に拒否している存在だ。「物」は人の役に立つために活用されるが、「五輪の塔」や墓石は基本的にはそのままの形で何かに活用されることはない。「物」は動かせるが、「五輪の塔」や墓石は基本的には動かせない。
 つまり、「物」としての石に魂を入れて、初めて「五輪の塔」や墓石にするという理屈で、厳然と区別するのだ。
 だから、「五輪の塔」や墓石に手を合わせるとき、石に向かって手を合わせているという意識ではいけないということになる。確かに、石にこだわらなくてもよい。別の物でも本当はよいわけだ。それに、目的は物に手を合わせることではない。
 しかし、だからといって、魂を感じたもの全てに無闇に手を合わせるのもどうか。それは別の魂であるかもしれないし、本物の魂の皮を被った悪しき存在かもしれない。
 やはり公的に認められた特定の場所の特定の物に魂を感じ、できたら特定の時を選んで手を合わせて供養するのがベストだろう。最もよい供養であるための条件としての供養塔であれば、当然の考え方だろう。
 すると、どの場所が最もよいのか、どんな物であれば最もよいのか、いつであれば最もよいのかという、そうした選択が必要となってくる。
 いつでもどこでも供養したいときが供養のし時という考え方もあるだろうが、のんびりした時代ならともかく、秒単位で動いていく現代社会を支えるために命を削っている人々で成り立っているのが今の世の中だから、都度弔うよりも、日時を決めてメリハリをつけて供養する必要がある。
 勿論、心の中では故人への思いを忘れずにいるのだが、それを表に出しているほどに暇なのは一部の人たちだけだろう。逆に、その実のところ、故人への思いを消すために、仕事に逃げる人たちの方が多いだろう。

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恐怖シリーズ215「タイトルの改竄理由」

 底本という言い方をする以上、そのままの翻刻ではないということを意味している。
 出版物に底本がある場合は、何らかの変更が為されているということだ。それは「旧仮名遣い」を「現代仮名遣い」に変更したり、画数の多い古い漢字を、現代人でも読めるような、略字の新しい漢字にしたり、書体そのものをより読みやすいものに変えたり、当用漢字時代から常用漢字時代にかけての漢字使用範囲の変更や送り仮名の問題等々、新しい教育を受けた人でも違和感なく古い本が読めるように、底本の表記の変更や、必要に応じて注釈の加筆などが為されているということだ。
 だから、底本も同時に読むのが最もよい読書法となる。底本の親本があれば、当然それも同時に読むべきだろう。異同があれば、それが改善か改竄か判断のしようがあるというものだろう。
 「随筆 植物一日一題」という牧野富太郎氏の読みやすい著作がある。これを青空文庫で読んだ。著者の怒りや苛立ちがストレートに書かれた面白い内容だ。
 青空文庫の奥付には、底本:「植物一日一題」博品社1998(平成10)年4月25日第1刷発行とある。
 また続けて、底本の親本:「随筆 植物一日一題」東洋書館1953(昭和28)年3月とあった。
 だがまずは、本家本元の「親本」を読むべきだろう。もっとも、新しく出版された青空文庫の「底本」となったものは手元にないということもあるのだけれど。因みに、「親本」とされた「随筆 植物一日一題」の巻頭には著者91歳の近影が綴じてある。
 勿論、青空文庫のほうが漢字は新字体であるし、仮名遣いも現代仮名遣いなので、現代人の僕には非常に読みやすい。ありがたいことだ。
 しかし、誠に有り難くないことがある。それは随筆の命でもある文章のタイトルの変更だ。これはタイトル元来の効果が損なわれていることを考えたならば、改竄レベルだといってよいのではないだろうか。
 底本はどうなっているか分からないが、親本と比べると、なぜか味も素っ気もないものに変えられてしまっているのだ。単なる目次化とも言える変更だ。これによって、牧野富太郎氏の思いは半減どころか、無効化されてしまったと言っても過言ではないだろう。
 これは新聞記事と同じで、一つのストーリーではなく、随筆集の体裁となっているから、特にタイトルは重要なのだ。仮に新聞記事のタイトルとして見た場合、文字数が長いものが多いが、読んでみようという気を起こすものとなっている。そのパワーが削がれてしまったのだ。
 全部が全部変更されているわけではない。変更した人のお眼鏡にかなったタイトルもあったということだ。だが、牧野氏の思いのたけを無視したようなことは、どんな理由があったのか分からないけれど、本来やるべきではないだろう。
 タイトルには、著者の思いが凝縮される。牧野氏も例外ではない。植物学に誰よりも深い思いをもっている牧野氏であるからこそ、体裁を美しく統一することよりも、ほとばしる思いをタイトルに表現することに重きを置いた著作の構成をするであろうと思うのだ。
 誰が著したどんな文章でも、そのタイトルは、それぞれの文章の内容と共鳴しながら、その姿を形作ろうとするものだ。その自然の構成を、後の世のものが手を加えてよいのだろうか。
 たとえば、改竄した担当者は次のような工夫をしている。
 底本の親本、つまり本家本元の、1953年発行の「随筆 植物一日一題」では、タイトルが「栗は日本になくクリは支那にない」という文章がある。そして、文章の第一文目は「かう書くと誰でも怪訝な顔をして目をクリクリさせ、クリはどこにもあるぢやないかといふ。」と始まる。
 一方、青空文庫、もしくは青空文庫が底本とした、1998年発行の「植物一日一題」では、本のタイトル自体から「随筆」という語をカットしたばかりでなく、文章中のタイトルとその文章が一体化しているものに対して、改竄担当者は、次のようにしている。
 それは、タイトルを自分で考えた「栗とクリ」という新たなものを書き加え、文章の方では、第一文目に「栗は日本になくクリは中国にない」と始め、二文目に「こう書くと誰でも怪訝な顔をして眼をクリクリさせ、クリはどこにもあるじゃないかという。」とする。
 これは、文章と一体化している牧野氏のつけたタイトルを、他の文章とのバランスを考えて調整しようとした結果だろう。
 別に内容的に変更があるわけではないから問題ないではないかという意見もあろうが、そういう問題ではなく、文章を改竄するという態度の問題だ。どこがどういう理由でどのように改竄されるかということは、その目的や改竄の程度が把握しにくいところに大きな問題がある。
 牧野氏の文章への改竄に内容的な問題はないと判定する人がいたとしても、それと同じ態度で他の人物の文章が、どういう目的があるかも不明なまま改竄されてしまう可能性のあることに対する恐ろしさをほんの少しでも、そしてほんの一瞬でも想像すれば、その態度がいかにまずいことか理解してもらえるだろう。
 仮にそれが個人の問題ではなく、社風となっていったらどうだろう、あるいは出版界の風土となっていったらどうだろう。何事も、どうでもよいような些細で小さな事からスタートする。そして、それが必ず取り返しのつかない大事につながっていく。
 以下、青空文庫の目次化されてしまったタイトルを前に書き、その後に、親本の小見出しとも言える各文章のタイトルを括弧書きで書き加えた。こうすれば、比べやすいだろう。
・(序文に代ふ)<序文相当だから当然巻頭にあり>
・馬鈴薯とジャガイモ(日本人の無学のシムボル馬鈴薯)
・百合とユリ(百合はユリの総名ではない)
・キャベツと甘藍(キャベツは甘藍に非らず)
・藤とフジ(藤一字ではフヂにならない)
・ヤマユリ(今日謂つてゐるヤマユリ)
・アケビと※[♯「くさかんむり/開]、U+26F20、16ー11](僧の昌住さんがアケビを𦼠と書いた)
・アカザとシロザ(アカザとシロザ)
・キツネノヘダマ(キツネノヘダマ)
・紀州高野山の蛇柳(紀州高野山の蛇柳)
・無花果の果(無花果の果)
・イチョウの精虫(イチャウの精虫)
・茶樹の花序(茶樹の花序についての私の発見)
・二十四歳のシーボルト画像(二十四歳のシーボルト画像)
・サルオガセ(サルヲガセ)
・毒麦(毒麦)
・馬糞蕈(馬糞蕈は美味な食菌)
・昔の草餅、今の草餅(昔の草餅、今の草餅)
・ハナタデ(ハナタデとはいかなる蓼の名か)
・イヌタデ(イヌタデとはどんな蓼か)
・ボントクタデ(ボントクタデとはどういふ意味か)
・婆羅門参(婆羅門参)
・茶の銘玉露の由来(茶の銘玉露の由来)
・御会式桜(御会式桜)
・贋の菩提樹(寺院にある贋の菩提樹)
・小野蘭山先生の髑髏(小野蘭山先生の髑髏)
・秋海棠(日本に秋海棠の自生はない)
・不許葷酒入山門(不許葷酒入山門)
・日本で最大の南天材(日本で最大の南天材我が家に在り)
・屋根の棟の一八(屋根の棟の一八)
・ワルナスビ(ワルナスビ)
・カナメゾツネ(カナメゾツネ)
・茱萸とグミ(茱萸をグミとは馬鹿言へだ)
・アサガオと桔梗(秋の七草のアサガホを桔梗だとする根拠)
・ヒルガオとコヒルガオ(ヒルガホとコヒルガホ)
・ハマユウの語原(ハマユフの語原)
・バショウと芭蕉(日本でのバセウは芭蕉の真物ではない)
・オトヒメカラカサ(オトヒメカラカサ)
・西瓜ー徳川時代から明治初年へかけて(徳川時代から明治初年へかけての西瓜)
・ギョリュウ(我が国栽植のギョリウはただ一種のみ)
・万葉歌のイチシ(万葉歌のイチシ)
・万葉歌のツチハリ(万葉歌のツチハリ)
・万葉歌のナワノリ(万葉歌のナハノリ)
・蓬とヨモギ(蓬をヨモギとするのは大間違ひだ)
・於多福グルミ(於多福グルミ)
・栗とクリ(栗は日本になくクリは志那にない)
・アスナロノヒジキ(吾れ先づ採りしアスナロノヒジキ)
・キノコの川村博士逝く(キノコの川村博士が逝いた)
・日本の植物名の呼び方・書き方(日本の植物名は一切日本名で呼び、また一切カナで書けばよろしい)
・オトコラン(勇ましい名のヲトコラン)
・<目次にはなし。文章中には文章と同じ大きさの活字で「風流で盗賊防ぐ思い付き」とは記されている>(風流で盗賊防ぐ思い付き)
・中国の椿の字、日本の椿の字(支那の椿の字、日本の椿の字)
・ノイバラの実、営実(ノイバラの実を営実といふワケ)
・マコモの中でもアヤメ咲く(マコモの中でもアヤメが咲くのか)
・ワクワウリの記(マクハウリの記)
・新称天蓋瓜(新称天蓋瓜)
・センジュガンピ(センジュガンピの語原)
・片葉のアシ(片葉のアシ
・高野の万年草(高野の万年草)
・コンブとワカメ(コンブは昆布ではなく、ワカメこそ昆布だ)
・『草木図絵』のサワアザミとマアザミ(飯沼慾斎著『草木図説』のサハアザミとマアザミ)
・ムクゲとアサガオ(ムクゲをいつ頃アサガホといひはじめたか)
・欸冬とフキ(欸冬とフキはなんの縁もない)
・薯蕷とヤマノイモ(薯蕷は果してヤマノイモか)
・ニギリタケ(ニギリタケ)
・パンヤ(パンヤ)
・黄櫨、櫨、ハゼノキ(黄櫨も櫨もハゼノキではない)
・ワスレグサと甘草(ワスレグサを甘草と書くのは非)
・根笹(根笹は絶やし難い厄介者だ)
・菖蒲とセキショウ(菖蒲はシャウブではなくセキシャウである)
・海藻ミルの食べ方(海藻のミルはどのやうにして食ふのか)
・楓とモミジ(楓はモミヂか、モミヂは楓か)
・蕙蘭と蕙(蕙蘭と書く蕙とは何んだ)
・製紙用ガンピ二種(製紙用のガンピには二つの種類がある)
・インゲンマメ(今日のインゲンマメは贋のインゲンマメ)
・ナガイモとヤマノイモ(ナガイモはヤマノイモの栽培品か)
・ヒマワリ(ヒマハリが日に随つて廻るとはウソだ)
・シュロと椶櫚(日本のシュロは志那の椶櫚とは違ふ)
・蜜柑の毛、バナナの皮(蜜柑は毛を食ひバナナは皮を食ふ)
・梨、苹果、胡瓜、西瓜等の子房(梨、苹果、胡瓜、西瓜などは枝の端を食つてゐる)
・グミの実(グミはどこを食つてるのか)
・三波丁字(三波丁字)
・サネカズラ(サネカヅラ)
・桜桃(桜桃の真物は支那の特産)
・種子から生えた孟宗竹(種子から生えた孟宗竹の藪がある)
・孟宗竹の中国名(孟宗竹の支那名は何んであるか)
・紫陽花とアジサイ、燕子花とカキツバタ(紫陽花はアヂサヰではなく、燕子花はカキツバタではない)
・楡とニレ(楡は日本のニレではない)
・シソのタネ、エゴマのタネ(シソのタネ、エゴマのタネ)
・麝香草の香い(香ひあるかなきかの麝香草)
・狐ノ剃刀(狐ノ剃刀)
・ハマカンゾウ(日本の特産ハマクヮンザウ)
・イタヤカエデ(なぜイタヤカヘデといふのか)
・三度グリ、シバグリ、カチグリ、ハコグリ(三度グリ、シバグリ、カチグリ、ハコグリ)
・朝鮮のワングルとカンエンガヤツリ(朝鮮でワングルと呼ぶクヮンヱンガヤツリ)
・無憂花(無憂花とはどんな植物か)
・アオツヅラフジ(止めよアヲツヅラフヂと呼ぶことを)
・ゴンズイ(ゴンズイと名づけた訳はこれ如何)
・辛夷とコブシ、木蓮とモクレン(辛夷はコブシではなく、木蓮はモクレンではない)
・万年芝(万年芝の一瞥)
・オリーブとホルトガル(往時はオリーブをホルトガルと称へた)
・冬の美観ユズリハ(冬に美観を呈するユヅリハ)
・序文に代う<序文相当なのになぜか巻末にあり>

 こうして比較してみるといろいろなことが分かる。また、いろいろなことが想像できる。一つ一つ書けば膨大になるので省略するが、どちらが魅力的なタイトルか、どちらが著者の思いがこもったタイトルか、一目瞭然だ。
 旧仮名遣いを現代仮名遣いに直すのは問題ないだろうけれど、随筆、特に随筆集にとって重要な役割を果たす一つ一つのタイトルを、ある志向に揃えるためであろうか、敢えて変えてしまったのは、一体それはなぜだろう。
 著者本人の遺言によるものか、それとも変更可能な「支那」をできるだけ「中国」に書き換える必要があったのか、それとも一つ一つのタイトルに見られる文字数の長短の差や表現方法の様々を、不統一と解釈したためか。
 もちろん、僕は青空文庫の底本とされている1998年発行の「植物一日一題」を手にしているわけではなく、あくまでも底本の親本である1953年発行の「随筆 植物一日一題」と青空文庫とを比較しているだけなので、本当はもっと何か紆余曲折があることに気づいていないだけなのかもしれない。
 しかし、誰でもがこの三冊を比べながら読むなどということなどしないはずだ。それを前提として、青空文庫の編集者は文章改竄と思しきことの理由などを示した、何かそれとわかる文章を付け加えておくべきだろう。
 なぜなら、青空文庫の「植物一日一題」の奥付で、<※底本は、「保土ケ谷町」のそれをのぞいて、ものを数える際や地名などに用いる「ケ」(句点番号5-86)を、大振りつくっています。>というような細かい説明を付け加えているからだ。そうした説明をするならば、底本の親本を示した以上、底本の親本から底本への異同があること、あるいは底本から青空文庫への異同があることも示すべきではないだろうか。
 僕は、これらの改竄によって、各タイトルと各文章の相乗効果がなくなり、牧野氏の論調がかなり減衰させられてしまったと感じている。それが博品社によるものか、青空文庫によるものかは、まだ分からないのだけれど、仮に悪意はなかったとしても、問題は悪意の有無、善意の有無ではなく、読まれた結果がどうであるかというというところにある。
 勿論、読まれた結果は読み手によってことなるものだ。しかし、残念ながら、少なくとも僕にとっては、マイナスの効果、つまり改善ではなく改竄としてしか、まだ受けとめられていないものになっている。
 その改竄理由があれば、その目的に応じた恐ろしさも湧こうというものだ。実際に、BBCの放送作品が日本語訳されて放映されるとき、意図的に放送タイトルが改竄され、「原発反対の根拠」となる内容が、「原発推奨」の足がかりともなる内容に解釈されるものとなった例がある。
 日本語タイトルの大きな字幕の裏に隠されるかのような英文タイトルは、よほど注意深く見ていないと分からなかったはずだ。手品と同じでどこに注目させるかがポイントだ。それによって見える世界が変わってしまうのだ。そして、現実を見ているようで見ていないという事実を振り返らないので、その人工的な不自然な世界にはまり込み、まんまと騙されてしまうのだ。
 これは改竄理由とその目的が見え透いているけれども、その目的の国民生活に及ぼす影響力の大きさと、隠蔽力の巧みさと、視聴率の高さと、信用度の大きさから考えて、恐ろしさはマックスに近いものだった。
 しかし、逆に改竄理由がなく、何となくよかれと思ってそうしたというのならば、平気で行われている分だけに、そして幅広く末永く行われていくであろうから、別の意味でより一層恐ろしいように感じる。たとえそれが、一冊の古い本であれ、何がどこへどうつながっていくかは、意図しない者は勿論のこと、意図した者にも本当には分からないのだから、なおのことだ。

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変な疑問213「五輪の塔の不思議」⑫

 次に、遺体に対して「物と同じ思い」を抱くのはどうしてかを考えてみよう。
 それはどのようなときに抱く思いなのだろうか。人として見做せないとき、人として見做さないほうがよいとき、このどちらかだろう。それは如何なるときか。
 遺体を処理するときの思いだ。たとえば、無様に死後硬直していた四肢のなりを直すときの思いだ。変な姿勢で硬直している肉体へ無理に力を加えて真っ直ぐにする処理をするのは、亡くなった人への思いやりでもあるが、葬儀の時に苦悶の表情や虚空をつかむ手が、亡くなったときのままに突き出ていたりすれば、安らかに眠らせないということなのか、一体どういうつもりかと世間が許さないことに対する事前措置でもある。勿論、棺桶に収まりにくいことがあっては困るという、物理的な問題の回避も事情としてはある。
 このとき無理に力を入れて四肢を真っ直ぐにするのは、やはり物と思う必要があるだろう。生体にはかわいそうで加えられない力を、遺体になってからも敢えて加えざるを得ないからだ。
 もっとも、その所作には遺体として、いや生体として扱うという雰囲気も必要だ。その理由は、大方は遺族の前でその処理をすることが多いということもあるが、物と思って無理に力を加えることに対する後ろめたさもあるだろう。また、遺族でない人による行為としてならば、見ず知らずの人の体に思いやりをもって触れるという、本来は不自然な行為が不自然に見えないようにしたいというプライドもあるからだろう。
 また、全く別の場合もある。それは、あまりにも崩れた遺体を扱うときだ。生焼けの遺体、黒焦げの遺体、寸断されて原形をとどめない遺体、拷問の限りを尽くしたと思われる遺体、水死体となった遺体、腐乱死体となった遺体、肉体の一部しかない遺体、その他の見るに堪えない遺体が無数に出現してくるのが実際。いちいち感情移入できない職種の人もいるだろう。通常の神経の持ち主なら、見るたびに、そして触れるたびに精神的ダメージをくらうことになる。恐らく若手の警察官などは真っ先に手にすることが多いことだろう。
 その場合、もう物として見るしか自分の精神を救う方法はないではないか。最も物として見ることが容易なのは、欠損部分ばかりでほんの一部しかない遺体だろう。小さければ小さい程よい。どの部分か分からねば分からない程よい。
 恐らく形の無いもののほうがよい。最も形のな遺体は、たとえば猟奇殺人で、肉体は既になくなり、血液だけの存在にされてしまった遺体だろう。もうそれは液体なので、入れ物の形になるしかない。それは幾何学的な容器に違いないから、幾何学的な遺体となる。臭いはあるが、見た目の救いだ。
 血液だけの遺体に敢えて人体形の容器を用意して注ぎ込むことはないだろう。それは悪趣味というものだ。
 ステーキでもサイコロ状の物からは本体は想像しにくいだろう。豚足は形が残っているから、極めて想像しやすい。昆虫食も苦手なのは姿が明確だからだろう。
 「五輪の塔」はどれもこれも似たり寄ったりだ。最近流行りのデザイン墓とは違う。この似たり寄ったりというのは、一つの救いなのではないか。
 大きな人も、小さな人も、死ねば同じ「五輪の塔」で弔われる。立派な人も、こそ泥も、死ねば同じ「五輪の塔」で弔われる。金持ちも、貧乏人も、貴人も卑しき人も、死ねば同じ「五輪の塔」で弔われる。
 その「五輪の塔」は、単なる墓標ではない。墓標なら四角の石や特徴のある自然石を置けばよい。「五輪の塔」には万物流転の思想が根底に流れていそうだ。死んで仏になるのかもしれないが、ともかく五つの要素に戻るという考え方の象徴にしか見えない。一つの科学的なものの見方を根拠とする平等観がそこに感じられる。

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誤字脱字・内容不適11「ネットニュース」糖質コルチゾイド?

 ネットニュースは、「誤字脱字・内容不適」がチェックが個人ブログ並みなのだろうか。よほど興味のあるも以外は、もうあまり閲覧しないようにしているのだが、今回は普段ほとんど飲まないコーヒーのことが話題になっていたので、斜め読みしていた。すると、案外とすぐ見つかるものだ。
 しかし、僕は専門家ではないので、最初は変だなと思っただけだった。でも、変だなと思うようなことは、それを指摘しておくにこしたことはない。僕が間違っているだけなのかもしれないのだが、見慣れない語が出てきたので挙げておこうというだけの話だ。
 文章の中に「糖質コルチゾイド」とあるが、実に見慣れないものだ。もしかすると「糖質コルチコイド」のことを言いたいのだろうか。わざわざ鉤括弧書きにしてあるので、強調したいということなのだろう。その強調されていると思しき語が、見慣れないものなのだから、少し問題があるかもしれないと、見当をつけることは大事なことだと思う。僕の思い過ごしならばよいのだが、誤字脱字の類ならば問題だ。下手をすると、内容不適にまで発展する可能性もゼロではないこともあるからだ。
 試しに、「コルチゾイド」という語を、自分のコンピュータに入力してみた。これが一度にはできないのだ。しかし、これが見慣れた「コルチコイド」ならば、一度で入力できる。つまり、通常のワープロソフトにとっても「コルチゾイド」は慣れていないものなのだろう。
 見方を変えれば、以下のネットニュースの文章を作成したときに使用されたワープロソフトは、誰かの手によって「コルチゾイド」と入力され慣れているおそれがあるということだ。その場合は、今後も「糖質コルチゾイド」と学習してしまったソフトが、運用され続けるという不都合が起こるわけだ。これはまずいことだ。個人のコンピュータならばまだよいかもしれないが、その記事の掲載されているのが、有名ポータルサイトだというところに問題がある。しかも、その目立つ場所に掲載されていたものだから、もしかすると、この語が無批判に頭にインプットされてしまった人も多いかもしれない。
 もっとも、文系の僕でも斜め読みの段階で変だなと思ったわけだから、閲覧した人々の中で変だなと思った人々の内の何割かの人は調べて確認するに違いない。ただ、それができない忙しい人々も多いはずだ。忙しすぎて、ネットニュースなど見ていられない人々なら全く問題はないが、中途半端に忙しい人々は、そういう意味で被害に遭いやすいとも言えるだろう。
 ちなみに、以下の記事のようなニュースを執筆する以上は、基本的な学識を持っている人であるはずだ。その人の勘違いか、僕の勘違いかはわからない。しかし、その語、つまり「糖質コルチゾイド」でネット検索しても何もヒットしない。
 やはり、「糖質コルチコイド」の間違いだと思うのだが、どうだろう。もし、そうだとしたら、新聞のようにどこかに訂正が示されるのだろうか。訂正の仕方が新聞以下では話にならないと思うが、新聞に準ずるほぼ公的なメディアなのだから、何か工夫をした方がよさそうだ。

(以下、MSNライフスタイルより抜粋)
 
All About
コーヒーは朝に飲むと危険ってホント?
2018/06/26 17:45
 朝のコーヒーが習慣になっている人は多いはず。しかし、それが身体によって悪影響を及ぼしている、という研究結果が最近発表されました。朝にコーヒーを飲むことで身体にどのような悪影響があるのか、また飲むのに最適な時間帯はいつかを考えてみましょう ©        AllAboutMedical 提供
 朝のコーヒーが習慣になっている人は多いはず。しかし、それが身体によって悪影響を及ぼしている、という研究結果が最近発表されました。朝にコーヒーを飲むことで身体にどのような悪影響があるのか、また飲むのに最適な時間帯はいつか…
 朝起きてコーヒーを飲む習慣が健康を害する?
 出勤前や目覚めとともにコーヒーを飲む。そんな人は多いのではないでしょうか。「朝専用缶コーヒー」というのも発売しているぐらいですから、朝=コーヒーというイメージは一般的に当たり前の感覚になっています。
 しかしながら、「目覚めのコーヒー」が私たちの健康を害している可能性がある、という研究が最近発表されました。これを受けて、いったい身体にどのような影響があるのか、飲むのに最適な時間帯はいつかを考えてみましょう。
 「コルチゾール」の働きがキーポイント
 この研究のキーワードとなるのは「コルチゾール」というホルモンです。コルチゾールは副腎皮質ホルモンの一種「糖質コルチゾイド」の一種で、生体においてとても重要で、タンパク質、炭水化物そして脂肪の代謝を抑制する役割があります。
 しかし、過剰に分泌されることで血圧や血糖値の上昇などを引き起こす危険性が高まると考えられています。
(以下、省略)

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変な疑問212「五輪の塔の不思議」⑪

 遺体に対する思いにはどのような種類があるだろうか。
 仏と同じ思い。生体と同じ思い。死体と同じ思い。物と同じ思い。生ゴミと同じ思い。不浄なものと同じ思い。忌むべきものと同じ思い。恐怖すべきものと同じ思い。滅ぼすべきものと同じ思い。様々あるだろうが、これが幾つか割合を異にして混じり合った思いというものが、遺体に対する実際の思いだろう。
 その中のどれを中心とした思いを自分が抱いているのか。そして、建前としてはどの思いをもって振る舞うべきだと了解しているのか。こうしたものの傾向は、集団の中でどのように発生してきたものだろうか。
 まず、遺体に対して「仏と同じ思い」は抱くのはどうしてかを考えてみよう。
 なくなったばかりに方のことを「にいぼとけ」という。つまり、「新仏」だ。亡くなって仏になったという考え方や思いは、この国では、いつからそうなったのかは分からないけれど、これは今でも通用する考え方と思いだ。亡くなった、つまり仏になったのだから全てが許される存在となるのだ。さらに言えば、仏は生きている者を救ってくれる存在だから、そこにつながりのある存在となるとしてもでもあるのだ。
 僕たちには、人が亡くなると、そのような力を持つ存在になる、少なくともそうした存在に近づくと考えるのだ。それは、成仏すれば、空の上から生きている者を見守ってくれるという感覚からくるものだろう。
 空の上とは、天国だろうか、極楽だろうか。天国から誰それさんが私を見守っていてくれるという感覚はあっても、なかなか極楽から誰それさんが私を見守っていてくれるという感覚にはなぜかならない。それはどうしてだろう。
 極楽では、そこに行った者が自分だけ幸せになっているという感じがする。それに対して、天国からは救いの手が生きている者にもさしのべられそうな気がする。それはどうしてだろう。キリスト教の影響でもあるのだろうか。「地獄、極楽」は仏教的な言葉に聞こえ、「地獄、天国」はキリスト教的な言葉に聞こえるという、そうした事実が関係するのだろうか。
 いずれにしても、僕たちはいつの間にか天国と極楽を混同しながらも、どこかで区別しているということなのだろう。
 生前に随分と周囲の人に迷惑をかけて生きてきた、好ましからざる人物が亡くなったときには、特にそうだが、「死ねば仏と認定しないことには、やりきれない。」ということなのだろう。生きているうちに償ってほしかったのに、という思いがそこにはある。
 亡くなってしまっては、もう仕返しのしようもなくなって、遺された被害者たちは怒りの対象を失ってしまうのだ。その喪失感、そして怒りのやり場のなさが、何とも言えないやりきれなさとなり、亡くなって後までも、そうしたものによって、苦しめられなければならないのだ。
 そのままでは、とても心を整理できないだろう。しかし、そこで「死ねば仏」と自らを諭せば、自分が救われた気持ちにもなろうというものだ。
 次に、遺体に対して「生体と同じ思い」を抱くのはどうしてかを考えてみよう。
 亡くなっても、それを認めたくないという強い思いがあるために、生体と同じ思いを抱くのだろう。何かが当たれば痛かったのではないかと思い、時が経てばお腹がすいたのではないかと思うのだ。
 生きていた頃と同じような思いを抱くような努力を己に課すことによって、逆にまるで生きていた頃と同じように向き合えたり、亡くなった事実さえも忘れていられるような時間を感じられたりするということはあるだろう。そうすることによって遺族の心が癒やされるのだ。
 ただ、そのための方便として抱いている思いだという意識がなくなると、まずいことになるだろう。心が癒やされるのではなく、本当に生きていると信じ込んでしまうと、心のダメージを追わない代わりに、日常生活に支障を来すことになるだろう。気印の類だ。
 これとは別に、病気によっては、少しずつ肉体を切除しながら生きながらえるということもある。切除された肉体の一部は、焼却処分するか、何らかの保存処理をしておき、最後にお亡くなりになったとき、本体とそれらとを一緒に火葬したり、土葬したりするということもあるだろう。
 その途中段階が難しい。既に切除された部分は死んでいるから、それを保存している以上は、手術を重ねるごとに、それらが少しずつ増え、死体が次第に完成していくことになる。それは死体ではあっても、本体は生きているのだから、生体と死体が同時に存在することになる。勿論、死体と言っても、本体が生きているから、法律的には死体ではないのだろうけれど。
 医学が進歩すればするほど、この傾向は強くなる。四肢を全て失っても生きていける。内臓も他人のものやら機械やらに取り替えれば生きていける。
 しかし、切除した自分の内臓は保存され、自分の死体の一部となる。そうこうしているうちに、ほとんどの内臓が取り替えられ、別の場所で自分の完全死体が次第に完成していくことになるはずだ。
 生きている部分の重量と、切除した部分の総重量が逆転したとき、その人は死体なのか生体なのかが、次第に曖昧になってくる。勿論、本体が生きている以上は、法律的には明確なのだが、物理的にはどうかというと、圧倒的に死んでいる肉体の方が重くなったとき、本人やら周囲の人々は、どのような思いを、生体部分や死体部分に対して抱くだろうか。
 おそらく、通常は、死体部分に対しても「生体と同じ思い」を持つ人が、健康的な精神を持った人だと思われるだろう。
 しかし、本当はほとんどが死体部分となる場合も十分に考えられる。その時に、死体部分に対して「生体と同じ思い」を抱き続けることができるかどうかだ。僕は、そうした思いを恐らく持てないように思う。
 次に、遺体に対して「死体と同じ思い」を抱くのはどうしてかを考えてみよう。
 遺体とは、絆の深い死体のことだろう。それを遺体としてではなく、単なる死体に対するのと同じ思いを抱くのは、死を認めつつも、自分の平常心を保とうとした結果だろう。
 名前も知らない人であれば、遺体というよりも、単に命の失われた死体ということになるだろう。死体は死んだ体であって、遺体は遺された体だ。死ぬのは単なる現象で、遺すのは、この世に遺していったという死者の思い、そして、遺族に遺されたという遺族の思いの両方を表現しているように思われる。
 そうした自然に湧き起こる死者への思いを断ち切り、その死が当然のことだったという態度、感情を前面に出すのではなく、葬儀や生前の後始末や死後の処理を滞りなく済ませるという、正確で迅速な事務能力を求められる立場の者は、遺体に向き合って心を動かすのは当然のことながら、死体をどうするかという現実に向き合って行動しなくてはならない。
 どのように埋葬するか、死体に間違いが起こらないようにするにはどうしたらよいか、誰の指示を仰げばよいのか、自分なりの判断をどの範囲でどのようにして行い、それを周知徹底し、滞りなく処理を進めていけば問題が起こらないか、もし問題が起こったときには、死体と相談することはできないので、どうすべきか、この死を誰に伝えるべきか、そして誰に伝えざるべきか、法律上問題が起きないようにするにはどうしたらよいか、遺族に問題が生じないようにするにはどうしたらよいか、遺書などが後から出てきて困らないように隈無く調べなくては、等々、理詰めの判断を矢継ぎ早に行って、実際の行動に出なくてはならない。
 遺体に向き合って感傷にひたる暇などないはずだ。そのとき、死体としての見方も同時にもち、つまり第三者的なものの見方も同時にもって、ある意味事務的な思いも抱きつつ事を処していかねばならない。必要に迫られての思いということになる。
 「五輪の塔」の近くに土葬しなくてはならないのだったか、「五輪の塔」の内部に遺骨の形で収めることができる造りになっていたのだったか、「五輪の塔」が単なる供養塔であったのなら、どこに遺体を土葬したり、火葬してどのお墓に入ってもらえば良いのか、入るお墓がなければ、新たに墓石を建立しなくてはならないのか、そうしたことは誰の許可を得たり、誰に申告したり、誰に立ち合ってもらえば良いのだろうか、さて費用はどのくらい必要なのだろうか。
 ただ手を合わせていただけの「五輪の塔」が、内部構造の解明から、管理の問題から、手続きの問題から、さまざまな意味を纏いながら遺族、特に喪主に迫ってくる。材料の石以上に重みのある存在と立ちはだかってくるというわけだ。

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