変な疑問170「いじめた奴の部屋で自殺しない理由」③

 一口に新しい発想の罰といっても、どのようなものが考えられるだろうか。発想の問題だけに、あまり思いつかないが、普通の感覚からすれば、それは変なものだと判断されるものであるに違いない。外国では、ボランティア活動何時間という罰もあるようだが、ボランティアというものが強制されるということ自体は違和感があるものの、意外と有意義な罰だとも思われる。だから、是非の判断はともかくとして、まずは変だと思われるようなものを考え、取り敢えずは論議の俎板の上に乗せることを重要だと考えるようにしてはどうだろうかと思うのだ。
 それゆえ、まだ耳にしたことはないけれど、そして最初から無理かもしれないけれど、変だと思われるものなので、その一つの例としてあげてみたい罰がある。変だと思われるからこそ、だからこそ、よりよい罰になっていく可能性があると考えてみるのだ。その結果駄目なら、世の中のほうが受け入れてくるように変化するまで、大事に塩漬けにしておけばよいだけのことだ。
 たとえば、「それが罪に問われることだと知らなかったという罪」を犯したことに対する罰だ。それが罰せられることだとは知らなかったという、あまりにも不勉強で無責任なことが罪となり、それが罰せられるのだ。文字通り「知らないということは恐ろしい」ということだ。
 被害に遭った人は、加害者が何かを知っている知っていないにかかわらず、死んだり、死に追いやられたり、死にたくなるような精神状態にさせられたりするのだ。これは事実だ。「罪になるとは知らなかったから罪にはならないでしょう」というとぼけた理屈など通るはずがないのも事実だ。
 その例として、国ごとに文化が異なるために、本国では罪に問われないことが、別の国では罪に問われるということがある。知らなかったからといって、許されるわけではない。「郷に入っては郷に従え」ということわざ通り、その国の法律で裁かれなくてはならない。特別扱いをすると、その国の法自体が揺らいでくる原因となりかねない。揺らがないための法律なのだから、特別扱いをすることは最初から無理な話なのだ。
 たとえば、日本では自動車に対して左側通行というルールを課しているが、右側通行が交通ルールとなっている他の国から来た人が、この日本の交通ルールを知らなかったという理由や、知ってはいたが、そのときはうっかり忘れていたという理由で、つい右側通行をしようとしたために、重大な交通事故をを起こし、多くの死傷者を出してしまったとする。この場合でも、知らなかったからとか、忘れていたからとか、そのような無責任極まる理由を受け入れて正統化し、いっさい罪を問わないなどということは到底できない。特別扱いして無罪になどできないのだ。
 ところで、今の日本では自殺を法律で禁じていない。江戸時代の武士については、刑罰として「切腹」という自殺形態をとることが、条件さえ整えば許されていた。だが、心中という名の自殺や自殺未遂は重罪だったはずだ。多くの宗教では自殺が禁じられている。しかも、他殺よりも自殺のほうが神を冒涜するという意味で、大罪扱いされる傾向があるように思う。文化によって、自殺の意味合いが異なるのだ。したがって、罪か罪でないかも異なるのは当然だろう。敵討ちをしなければならないという文化では、返り討ちに遭う可能性のある、半ば自殺行為を推奨されていたのだ。
 では、いじめによる自殺についてはどうなのだろう。各宗教ではどのように解釈されているのだろうか。自殺は自殺だから、理由など関係ないのかもしれない。しかし、自殺の理由というものは、それが罪となるかならないかの分かれ道となるような、大きな意味をもっているように思うのだ。よく調べれば、「いじめた相手の部屋でならば、自殺してもよい」という条件を示している宗教だってあるかもしれない。なければ、今後そうしたことを謳う宗教が出てくるかもしれないし、出てこなければ、そうしたことを謳った、新しい宗教が作られるかもしれない。
 ただ、直接的な表現で文章化されていると、その新しい宗教自体が公に認められない存在だとして評価されてしまう可能性があるので、一般的な考えを述べてはいるものの、そのような解釈も可能となる、微妙な表現でなければならないだろう。

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自己分析シリーズ47「小さな日記」

 昔々のフォークソング「小さな日記」ではないが、「小さな日記に綴られた」僕の過去が、「忘れたはずの過去」がよみがえり、そして消えた。
以下、天地真理バージョンの「小さな日記」
 実家整理の中でいろいろなものが発見されるのだが、この「小さな日記」は衝撃的だった。「忘れたはずの過去」というよりも、おそらく「忘れるための日記」だったからだ。一読し、当然のことながらシュレッダ-行き。
 長い年月を経た後、また僕の手の中に現れたタイムカプセルだ。内容は、十分に僕の内面を脅かすものだ。およそ縦12センチ、横7センチ、厚さ2センチほどのオレンジ色の表紙、トムとジェリーのデザインの可愛らしい日記帳だ。だが、前後、それぞれ約三分の一の頁が空白、そして中の約三分の一程度に日記が綴られているという不思議さ。どうしてそのようにしたのかは、今となってははっきりと思い出せない。途中の頁から書き始めた理由が示されていないから、どうにもならない。自分自身のことであっても、何でも克明に記録しておくということは大事なことのようだ。都合の良いように記憶を再構成しながら生きていくのが、人の常であるようだからだ。
 途中から書き始められ、途中で終わっている日記帳。中、数十頁ほどを費やして書かれた日記は、自分ながら几帳面な鉛筆文字でびっしり書かれたものだった。だが、書かれた頁の最後の数頁は、文字が乱れて終わっている。内容は、よくある青春時代の懊悩を中心とするものだ。書きぶりが赤裸々で自分ながらこれにも少々驚く。その「小さな日記帳」と一緒に、膨大なメモと数十冊の大学ノートが、取っ手の破れた紙バッグに詰め込まれて発掘された。かつても大量のメモは発掘されているのだが、まただ。度重なる引っ越しの中で、いろいろな場所にいろいろなものが収納されていくのだ。
 それはそれで問題があるのだが、透明ブックカバーが新品同様で時の流れを全く感じさせないオレンジ色の「小さな日記帳」を前に、僕はしばし呆然としていた。そもそも日記をつける習慣など、僕にはない。したがって、よほどの思いがあって記したものだということは言えるだろう。
 裁断処分する前に、題名やらキーワードだけはメモしておいた。これは後々に、自分の記憶が勝手に修正されていないかどうかを、チェックするための道具として使えそうだったからだ。ただ、キーワードというものは実に怪しげなものだ。どのようにでも解釈できる上に、どのようにでもつなげられる。だが、そうした性質を利用して、敢えて自分の記憶を都合の良いように辻褄合わせを行って修正して再構成するための材料にするという手もある。記憶が勝手に変わってしまう前に、自分の意思で組み替えるのだ。
 そうなると、若い時にどれだけの自前のキーワードを生み出していたかが、後の豊かな精神生活を決定していくということになりそうだ。もし、材料が数量的に貧弱であれば、調理方法を巧みにするしかないだろう。もっとも、何が「豊かな精神生活」であるかは別問題だが。
 記された言葉から、キーワード自体を抜き出すのは容易なことだった。だが、それは物騒で掲げられないから、題名の一部だけを記念に記しておこうと思う。そうしておくのも、恐らく将来的には意味のあることになるはずだからだ。
 それにしても、新品の日記帳だと勘違いしてしまいそうな、特殊な書き込み方だったので、そのまま確認せず、誰かにあげてしまうところだった。自分の中身が流出してしまうことを未然に防ぐことができ、本当に良かったとつくづく思う。ばらばらにして焼却処分したから、都合の良いように思い出し、必要に応じてかみしめたらよいと自分ながら思う。おそらく「忘れるために」書き記したものが、逆に「都合よく、よりよく思い出すために」使われるというのだから、何か少し妙な気もする。
 以下、題名の一部。
 「満員バス内で」「プロパンガスのこと」「交通事故」「不可思議な下宿仲間」「木の腰掛け」「布団だけ」「焦げる電気釜」「ミニ炬燵」「バイクに下着を干すな」「髪切り二人組」「まな板に歯ブラシをのせるな」「不思議な台所」「僕の鍋で下着を染めるな」「電球の羽虫」「赤だしオンリー」「無謀な冒険」「崖から転落」「行き倒れ」「立ち入り禁止区域強行突破」「山小屋ばあさん」「ずたずたコート」「ガソリンの施し」「恐怖、ダイナマイト爆発3分前」「値切る前に1000円にしてくれる」「担保のヘルメット」「猫の鍛え方」「葱坊主を育てよう」「保存食」「カーテンの人」「屏風売り」「枕元の食材」「野犬と闘う」「新聞勧誘員」「木刀」「断食一週間」「消火器実験」「県内一周」「勝手な改造」「遠い風呂」「遠いトイレ」「看病」「古戦場の夜」「バイクの下敷き」「一日一冊」「おりない麻雀」「まさかの感情」「知らない男からの伝言」「特殊アルバイト」「星見」「髪を少し切り取る」「眼鏡選び」「孤独がともだち」「ヒルクライム」「さまざまな訪問者」「蠅との対決」「からむ蛇」「物憂げな老犬」「別れ」「草取り」「最後の言葉」「もらった看板」「怪奇九大図書館」「ラーメン屋の怪」「引っ越し計画」 
 これらは、自分の不安感、先行きの不透明感、どう生きていけばよいのか、人とどう付き合っていけばよいのか、それらが心に与えるダメージと、それを何とかしようとする努力を客観的に記述したものだ。言葉のうえで、理屈の上で解消し、頭の中で堂々巡りさせないという精神衛生上の必要性から生まれたものだ。友達と騒いだり、酒を飲んだり、そんなことをして何らかの問題を一時的に忘れたとしても、そしてストレスの解消をしたとしても、単に解決を先延ばしにするだけでなく、よりいっそう問題をこじらせ、周りに迷惑をかけるだけでなく、何より自分が危なくなる、という思いが、この「小さな日記帳」の至る所から感じられる。
 ただ、中の三分の一に記述したという、不自然な記録の仕方については、いまだ謎だ。僕が僕自身の内面を正しく見つめるためには、この謎を解くことが非常に重要なこととなってくると、うすうすは感じている。

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変な疑問169「西方浄土ってどこなの?」③

 お釈迦様の気持ちを推し量ってみる。狭いかもしれないが、自分の足で歩いて見聞きできる「生活範囲」、そして「布教できる範囲」として責任もって活動できる範囲としての「この地」を、何とかしようではないか。目に見えぬ、そしてたどり着けぬ「かの地」、到達し得ない理想の「かの地」、つまり「浄土」に近づけようではないか、それが自分たちに課せられた使命だ。生前説かれた教えはともかくとして、結局は「地に足をつけた活動」でなくては意味がないのだよというようなことを、弟子に覚悟させるためのことばだったのではなかろうかと思うのだ。
 難しい話も、最後は単純なところに落ち着くものだ。途中は道筋。いろいろあろうが、最後は何の変哲もない頂に至る。「西方浄土」というのは、弟子にそのように「観念させる」ためのキーワードだったのではないかと解釈したら、何か味わいがあって面白かろう。
 生きて行きつくところのない「西方」であるとは、行かずともわかる。「この地」ならぬどこか。つまり、「穢土」ではないところ。行けなくても見えなくても、それは頭の中で理解されていればよい、理想の世界。行ける行けないは、最初から問題ではない。
 そこは、「穢土」である「この地」から遠く離れたところ、離れれば離れているほど、「穢土」の要素が少なくなっていくという地理的発想が含まれているかもしれない。生きて行きつくところのない遠いところが「西方浄土」なら、そこへは死ねば行けるかもしれないという短絡的な発想。それは、死んだら行けるところという願望からの変化を経て、さらに死んだら行くところという運命の一つとしてとらえられるものになっていっても不思議ではないように思う。思いは強い願いに進展し、統合され、単純な観念となる。
 そのために、現世で一緒になれぬならと、「死んで一緒になりましょう。」という、早まった考えも生まれ得る。そうしたリスクはあるけれども、それ以上に「西方浄土」という感覚が、多くの人の心の支えとなり、多くの人を現世の苦難と感じられるものから救うための根本的な仕組みになるだろう、という判断があったのだろう。
 一部の例外的な行動をとる者、つまり実際に「かの地」である「西方浄土」という地域に行こうという無謀で無意味な旅を試みる不心得者、そうした特殊な者は除外するとして、尋常に物事を考える弟子は、ではいったいどうしていったのだろう。

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変な疑問168「いじめた奴の部屋で自殺しない理由」②

 こうしている間にも、いじめ等の被害者が誤った道を選択しようと考えているのではないかと心が痛む。形だけで、お茶を濁しているようにしか見えない活動から早く脱却しないと、犠牲者は増えるばかりだ。だが、学校でのいじめについて言えば、それを先生の力だけで防止したり解決したりするのは無理だという理由はたくさんある。
 学校内部のことはよくわからないが、第一に、対応する先生の人員不足という根本的な問題がある。生徒一人あたりの学校職員の数は、先進諸国の半分しかいないという統計が公表されているのを何度か見たことがある。同じ資料で、仕事は2倍ほどあるようだ。終業の17時以降に、普通で言うところの仕事が始まるらしい。よく考えたら、それはそうだろう。部活動で変えるまでは子供を指導しているのだから、書類仕事や行事の準備や会議などは、子どもたちが帰ってから始まるに決まっている。その時間に、いじめの対応をしなくてはならないとなると、その対応が済んでからということになる。スタッフ不足、つまり予算が少ないということはそういうことなのだと改めて思う。
 電通で自殺した職員のようには話題にはならないが、多くの先生が精神的、肉体的に悲鳴を上げて、命を縮めたり、結局は死に追いやられているという実態も耳に入る。ネットニュースでも時間外のレッドラインの80時間を超える勤務実態が普通であるようだ。聞いてみれば、その2倍ほどのサービス残業をしていることもよくあるらしい。公務員だから声を上げないだけなのだろう。この辺りの詳しい調査をしないと、教育問題はすべて解決しない感じがする。
 昨今の政治家たちの風景を見ていても、結局はさまざまな現場を全く知らない状況で判断を下しているに過ぎないのではないかという疑いを持たざるを得ない。報告書を見ても本当には理解できないのだろう。おそらく、予算的なことに関係するデータだけの「数字の推移」だけしか目に入らないのだろうと思う。教育の問題でも、特にいじめの問題で子どもたちが救われないのが、そのためではなかろうかと想像すると、暗澹たる気持ちにさせられる。
 第二に、元々先生の仕事の中心的なものではない。授業やら学校行事が中心のはずだ。その上にサービスで部活動の指導を休日にやり、大会への引率と、審判をやるというのだから、殺人的だ。しかも、いじめの問題が起これば、予防のための指導等であったものを、逆転させ、中心的な仕事に移行させなくてはならないはずだ。だが、そんなことは可能なのだろうか。
 当然、いじめが犯罪であることを教えたり、いじめの有無を調査をしたり、いじめが起こらないような学校の雰囲気作りをするのは、当たり前の仕事のはずだが、そうした予防的な仕事や、調査、指導を超えたところの、継続的な対応は、先生を抜きにしては成り立たないが、先生だけでは無理なのではないかと思う。現状がそれを証明しているのではないか。それを放置しているのは、恐らく人件費がかかるからという、結局はお金絡みのことだとすると、悲しいものがある。
 そうした無理を押して無限に頑張るから、早く亡くなったり、精神的におかしくなるのではないだろうか。そうした先生に教えられている子どもたちは、十分な教育が受けられる環境に置かれているとは言えないのではないか。
 この二つの理由だけを見てみても、他のいろいろなことを考えさせられる。そもそも、いじめという人権侵害行為は、隠れて行われるものだという難しさがあるから、監視カメラが必要だと思うのだが、その設置は恐らく教育的ではないということで否定されるだろうし、そのカメラの目を盗んでの新たな方法を「いじめの加害者」は考えるだろう。
 いじめの加害者はそれほどに悪質であろうと思う。未成年であっても、いや未成年であるからこそ、十分に追及しなくてはならないということを、なぜか勇気を持って言わなければならない社会の雰囲気は、もっと犠牲者が出ない限りは変わってはいかないだろうとは思う。
 そのような墓石行政を待つよりも、家族が被害に遭ったとき、「人権問題なのだから、特異(得意でもよい)の弁舌で救ってあげてよ。ほら、あなたの出番、あなたの土俵じゃないの。」と言われて、どう始末したらよいものかと戸惑うような、中途半端な人権主義者ではない、真の人権主義者が立ち上がるべきだろう。
 そして、加害者への責任追及に関心が無いようであったり、追究の手を緩めているうちは、人権屋さんではなくても、それが誰であれ、いじめやハラスメントに間接的に荷担していると見られても仕方ない風潮を作っていかねばならないだろう。学校の先生は予防的な活動に力を入れるとともに、いじめの発見に努めてもらう。加害者も被害者も、同時に担当する先生に、それ以上のことを望むのは、おかしいことだ。
 だから、加害者の責任追及の手を緩めない担当者が必要となる。それが普通の仕事になっていなくてはならないと思うのだ。それは、公的には警察内に新しい特別の部署を作るしかないだろう。防犯一般にかかわることだからだ。罪に年齢は関係ないだろう。同じ命がかかっているのだから。
 だが、防犯にもさまざまなレベルがある。どのレベルの防犯を仕事にするかということは、よく吟味されなくてはならない。標語の募集、ビラ配り、講演だけでは、当然不十分だからだ。
 いじめ等、子供による人権侵害問題があれば、担任教師や校長や自治体の責任問題とし、徹底的に叩くという手もあるが、その結果は目に見えている。何の解決にもならないどころか、教育の歪みを生むのは目に見えている。それはこれまでの様子を見ていればわかることだ。
 結局のところ、決定打に欠けるのは、これまでの主な矛先の向けどころが見当外れだったからだ。矛先というのは向けやすいところにではなく、向けるべきところに向けなければ、傷ついてはならぬ部分が傷ついてしまい、他にもさまざまな支障を来すことになる。外科手術でも、病巣部を残し、周りの健康な部分を切り取るようでは、元も子もないことになる。現状を見るに、それと同等のことをしているのではないかと疑ったほうが賢いのではないか。
 矛先を向けるとすれば、それは、いじめに直接関わった特定の個人個人でなくてはならない。矛先というと語弊があるから、罰せられるべき相手と表現しよう。監督責任というものが自治体や校長、担任教師にあれば、監督の方法というものがなくてはならず、その監督方法として世間一般に認められたものが、公表されている必要がある。それもなしに、その都度責めを問うようでは、あまりにも効率が悪い。先生たちも困ろうというものだ。
 交通事故が起きて人が死んでしまうのは、交通ルール自体に問題がある場合もないわけではない。親のしつけ不足、年齢によっては親の監督不行き届きという問題である場合さえもある。だが、最も注目されるべきは、年齢にかかわらず、交通ルールを守らずに加害者となった人、つまり本人自体が問題とされなければなければならないはずだ。
 本人の遵法精神に問題があるという判定が出れば、それに応じたトレーニングを成果が出るまで課し、本人の運動機能やそれに関わる神経等に問題があるという判定が出れば、それが解消するまで対応を継続すべきだろう。
 一方、「事故現場で警察官が監視していなかったから事故が起きたのだ。」という因縁をつけることは、結果はどうあれ、それ自体できないことはないだろう。実際に、もっと監視体制を工夫したり、監視人数自体を増やしてくれていたら、みんな交通ルールを守ってくれるようになり、事故は起きなかったということもあるだろうからだ。
 特によく事故が起こる場所はおよそ決まっている。分厚い地図へ事故の発生ごとに場所をマークし、何と何がいつ頃ぶつかったのかが書き込まれ、資料として集積されているはずだ。これらをすべて電子データ化して統計が出るようにすれば、たちどころに、どの交差点には、何時から何時まで人員をどれだけ配置すればよいか、すぐにシフトが作製されるような処理ができるはずだ。
 ソフト代を節約するために入札などをすると、よほど仕様書をきちんとしておかない限り、低予算のため、ただの記録システムと大差ないような、使えないものができあがってしまうおそれがある。だから、まだ電子データ化していないようなら、ソフトの仕様をきちんと示し、中途半端なものにならないように十分検討してからにしてほしいものだ。
 そのようなデータから導き出されたシフト等を根拠にパトロールや拠点での立哨に重きをおけば、警察自体の責任の取り方も変わってくるだろう。根拠をもって正しい対応をしていたということが証明されるからだ。また、何をどのように改善すればよいのかという方向も、具体的に示していけるだろう。そして、何より、最低人数で最大効果得られるというメリットも強調できる。
 とにかく、人の命がかかっているのだから。交通事故死の問題だけでも、死亡に至るまでの時間の基準を改訂するなどの統計マジック等で誤魔化さず、対策の費用を十分に獲得して効果的に正しく運用してほしい。事故の怪我が直接の原因となって半年後、一年後に死亡する場合だってあるのだ。
 事故の後遺症に悩んで自殺する場合だってある。このような、間接的かもしれないが、事故に起因するものは交通事故関連死として統計に入れ、対応すべきだろこう。そうした人も、事故さえなければ死ななかったからだ。  
 それにしても、県によって取り締まり頻度や厳しさに温度差があると感じるのは、なぜだろう。実際に調査して比較したわけではないが、交通事故死の多いところは、概して取り締まりが緩いように思う。これは、個人的な感覚で、気のせいかもしれないが、どうだろう。ネット利用者を活用して、全国一斉に、定期的に調査し、発表できそうではないか。第三者機関的に評価が出せるのは、一つの真実を世に示すということで意義はあるだろうと思う。
 警察内部のことはよくわからないが、交通事故を起こせば、罰せられるべきは、まずは当の本人であって、非難されるのは警察の体制ではないことは確かだ。
 小さな事故を起こしているうちに、再教育プログラムにしたがって、責任をとるようにさせるという形での罰を与えていかないと、後々に重大な事故を引き起こすことになるだろう。このプログラムは、警察だけが関わる短期的なものであっては効果も短期間で薄いだろう。家庭、学校と、子供を育て上げていく中でも実行されているものでなくてはならない。長期プログラムだ。これは、強いて言えば、文化のあり方に近いものだ。
 いじめ問題にしても、同様のハラスメント問題にしても同じだ。不幸なことがあった後の周囲の関係者は、もちろん二度と不幸なことが起きないように、予防に力を入れようとするだろう。だが、不幸にして犠牲者が出てしまった場合には、予防が不足だったとして取り組みを再検討はすべきだ。しかし、責められるべきではない。
 責められるべきは、つまり罰せられるべきは加害者である当の本人でなくてはならない。やって良いことと悪いことの区別を判断する力は、多少の時期的な個人差はあるにしても、本当は小学生程度であっても身についているものと見て良いように思われる。
 いじめ、ハラスメントは、それと意識してやっていることのほうが圧倒的に多いはずだ。「いじめだったとは思いませんでした。」という意味合いの発言があった時点で、「中学生以上ならば、その発言は偽りではないかと疑われるべきだ。そうでなければ、年齢相当の人間的な発達が未熟だとして叱責の対象とし、同時に規程の公的な再教育プログラムに従わせる処分を受けるべきだ。」というような提案を、規定によってなされるようにしていくルール作りをしておくべきだろう。もし、そうすること自体に問題があるならば、問題ありとした根拠を見直すべきだろうという論議が自由になされるような、民主的な雰囲気が育つまで待たねばならない。
 さて、咎められ方の常識は、進化しているはずの時代の変化に合わせて、また、問題となる状況の悪化に応じて、改善されていくのが、健全な司法のあり方だと思うが、実際はどうだろう。日本における六法はどのように改善されてきたのか、また好ましからぬ変更をしてきたのだろうか。どのような理由で改善されずに放置されてきたのだろうか。
 特に、罰という点について、どのような考え方で決められているのだろうか。罰金にしても、物価の変化は無視されていてよいのか。禁固刑にしても、平均寿命の変化や性差の別を無視していてよいのか。懲役刑にしても、歯を食いしばって長時間労働に耐えている一般人の中で普通にやっていけるだけの鍛えられ方がされているとは思われない内容であるのを放置していてよいのか。この辺りの不公平や実情に合っていない罰を放置し続ける、法的根拠は何か。
 とりわけ、被害者感情に全くそぐわない罰、遺族の生きる気力を全く失わせてしまう罰、司法のあり方に疑いを抱かせるような罰、こうしたものを見直すということをしていかないと、いつかは大きなしっぺ返し、遵法精神を少しずつ蝕んでいった末の大きな破綻を招きかねない。たとえ、今後数十年は波風たたなくとも、その間に蓄積した揺るぎなき国民感情の変化が、好ましからざる実行に走らせるとも限らない。成文化されたものの上に胡座をかいていると、その寿命を短くすることになる。昔と違って、時代の変化は格段に早い。いつまでも「早急な法の整備が必要ですね。」というコメントでは誤魔化しきれないのだ。
 必要な法律や罰則も、作られた時点から古くなる。最初からそうした不完全なものだ。だから、不完全であると諦めて、その不完全であることのよさを生かすしかない。つまり、定期的な見直しを当たり前に行うのだ。加除修正はつきものだという感覚が必要だ。間違った加除修正は、次の見直しでさらに不都合を直せばよい。
 そうしているうちに、これまでなかったような新しい罰が生まれる可能性もある。みんなが歓迎する罰、みんなの遵法精神が高まるような罰、そうした新しい発想の罰が、ただ単純になかったために、被害者が後を絶たないような犯罪国家となっていくようでは困るのだ。
 では、どのような罰が、新しい発想の罰として、候補に挙げられるだろうか。皆目見当もつかないが、およそ常識的でないものでなければ、これからの常識に対応できない可能性があるだろう。
 いじめ等による自殺が、いじめ等を行った者の部屋で行われない理由の一つとして考えられるのは、そのような嫌がらせではなく、きちんとした法的整備がなされ、そうした法によって裁かれる世の中になってほしいという、切なる願いを抱いていたからだと思う。嫌がらせのような死に方が流行るような世の中ではいけないという良識が、死ぬ間際まではたらいているということだ。
 では、他の理由を考える前に、新しい発想の罰というものに思いを巡らせてみたい。専門的な知識はかえって邪魔になることが多いかもしれない。全くのど素人だからちょうどよい。だが、国民のほとんどは、ど素人なのだ。ど素人が犯罪を犯し、専門家によって裁かれ、ど素人が罰を受ける。被害者もど素人だ。この構図はある意味興味深い。

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変な疑問167「西方浄土ってどこなの?」②

 これらの発想とは異なる「西方」のあり方には、他にどのようなものがあるだろう。
 たとえば、何とか目視できる範囲の場所、つまり大地であれば地平線、海や湖などであれば水平線までを、認識可能な「この地」とし、(といっても遠くは視覚のみによる認識だが)西野方角のその地平線なり水平線なりの向こう、つまり見えないところを「かの地」とし、それを「西方浄土」とすればどうだろう。
 それは、よこしまな心を抱くこともある人、欲にまみれることもある人、そのような人の目で直接汚されることのない地だ。これはかろうじて「西方浄土」の条件の一つを満たすのではないだろうか。
 つまり、普段は人の目に触れることのない非日常の世界、つまり人の欲望を直接に刺激することのない、そうした聖なる地の基本的な最低条件を満たす性格の地だと考えてみるのだ。
 ちなみに、高い土地に建てられた寺院や、高い塔などは、「この地」を広く救うとともに、「かの地」に、見える範囲の「この地」をできるだけ接近させたいという憧れを形にしたものでもあるかのように感じられる。そして、高きところから「かの地」を「かの地」として見定めるための清浄な目を養う、そのための修業も怠らないという覚悟の表れでもあると見ても面白そうだ。高き場所、高きものは、天上に近づく思いからとばかり考えていたが、「西方浄土」であるというのなら、天ではなく、「西方」の地平線、水平線の向こうだと考えるのが自然であるように思う。
 もちろん、見えないからこそ、そこへ行ってみようという欲望はかき立てられるだろう。ただ、その欲望は、あこがれや夢、挑戦などとというような、比較的罪の軽い純粋な欲望だろう。そうした種類の欲望は、理想を求めたり、正しいものを求めたり、美しいものを求めたり、自分の限界を試したりするような、世間的には高い評価を受ける種類のものだ。ただ、実際に行動に移すことで他人に迷惑をかけたり、その欲望の程度が甚だしくなって自身のなすべき事がなせなくなり、実行せずとも他人に迷惑をかけるような状態に陥るようであれば、また話は別だ。
 また、その結末も、結局はたどり着けない挫折感にうちひしがれたり、関係のない場所をそれと勘違いしたりするという、傍目には寂しき愚行になりかねない。
 さらに始末の悪いことに、「かの地」は見えないだけに、そしてたどり着けないだけに、美化され、神秘化され、人々の心を高めていく。仮に実際に宗教的に理想的なモデル地区があって、そこが「浄土」と呼ばれる場所であったとしても、「この地」における「かの地」の美化と神秘化によって期待が大きくふくらみすぎ、そこに現実との大きなギャップが生じることになって、たとえそのような何らかの理想郷のような地域にたどり着いたとしても、それだとは認識されないおそれもある。
 逆に、実生活の場からは見えないところにあるだけに、昔のことでもあり、恐ろしくもあったろう。だが、その場合には、行こうという気持ちも起こらないから、問題はない。問題が起こらないという実績は、「かの地」は「かの地」であり、「この地」は「この地」であるという分別にもなっていくだろう。その分別は、「穢土」である「この地」を、理想的な「かの地」に近づけるべく精進しようとする、宗教的な生き方を生むことになるだろうと思う。
 つまり、たどり着けないところには手を合わせることで、思いを処理し、その諦めによって、逆に「この地」に対して実際の宗教的行動を起こすというメカニズムだ。お釈迦様が、こうしたものを発動するために、観念的な「西方浄土」を掲げたのだとしたら、それは合理的な導きであったと思う。嘘ではないが、方便というものだ。
 一方、「かの地」が実質的な地域であれ、観念的な地域であれ、そこへ行こうと試みることができるのは、「この地」から離れることのできる立場の者だけに限られる。恐らくそれは、軍隊の兵士か、商人か、冒険家か、修行僧、もしくは井上靖の「補陀落渡海記」に出てくる高僧(彼は西方ではなく、南方の観音浄土を目指すのだが)の類、つまり特殊な者たちだろう。
 つまり、土地から離れられない一般人は思いを抱くだけという仕組みなのだ。そうした意味では、土地と共に生活する一般人のほうが、行動を起こす者よりも、逆に「かの地」に対して純粋だという見方もできそうだ。
 軍隊には軍事目的があるから、その第一目標を達成したら、それで行動は終了する。手柄を認めてもらいたいという欲望があるので、首尾よく任務を遂行したあとは、費用の問題もあり、さらに進むことは許されない。商人も同様だ。儲けたいという欲望が常にあるので、商売にならないと判断した途端、先へは進まない。冒険家は戻って冒険譚を語り、自分の記録や成果を発表したいという欲望があるので、そのエピソードや証拠などの何らかのものを手に入れさえすれば、長居は無用、すぐに戻るはずだ。あるいは、さまざまな理由で行きついた土地に吸収され、埋没してしまう。修行する者も、同様だ。その成果を見せたかったり、宗教生活に生かしたいという欲望があるから、目的を達したと感じたら早急に戻るだろう。ただ、自分の修行を達成させるための理想的な場所を途中で見つけたと感じた場合などは、そこへ居つくから直ぐには戻らないかもしれない。
 水平線、地平線の向こうにある「かの地」は、このような移動できる人々にとっても、当然のことだが、やはりどこまで行ってもたどり着けない地、行き尽くせない地となっていく。目的達成のため、諦めのため、勘違いのため、彼らは「この地」に戻ったり、途中で居ついたりするのだ。
 つまり、水平線、地平線は、さらなる向こうの「かの地」をその向こうに隠しているが、彼らが持っているこのような欲望が満たされたり、諦めてしまったり、満たされたと思ってしまったりするために、結果として「かの地」は「かの地」として守られている。
 また、そうではない場合には、「かの地」をめざして命のある限り、実質的な存在であれ、観念的な存在であれ、「西方浄土」を目指し続けるしかない。これは既に一つの行となっていれば、理にかなった純粋な行動と位置づけられるかもしれないが、そうでなければ単なる愚行にすぎない。どちらにしても恐ろしいリスクを負っている。土地を離れるということは、そういうことだ。
 このようにいろいろな意味で汚されることのない「浄土」、「西の彼方の世界」は、煩悩多き「この地」、すなわち「穢土」の住人の頭の中で、その煩悩が深ければ深いほどに、次第に次第に非常に魅力的なものとなっていっただろう。「天」なら最初から諦めるしかないが、「西方」ならば、思わせぶりではあるが、なじみはある。地上だからだ。
 因みに、「この地」でなければどこでもよかったに違いない。海の向こうだの、地の果てだの、南方だの、西方だの。だが、南に行けば海(補陀落渡海のように船で行く場合は乗っているだが、海流任せなので目指すとは言いがたい。太平洋をぐるぐるめぐるだけだろう。死んでもたどり着かない可能性がある。仮にどこかの土地にたどり着けば、そのような高僧が次第に増えていくので、浄土的にはなるかもしれない。)、北に行けば山に阻まれる。残されたのは東と西だ。だが、「東方」からよりも「西方」からの流れに価値を置いていたのではないだろうか。新しき良きもの、古き良きものが、西から来て、この地より東へと移動する。そうした感覚が当時にあったとすれば、最初から「西方」に対する憧れもあったろう。その流れが「西方浄土」という感覚の土台にあったとしても不思議ではないように思う。
 さて、仮に修行僧の類が、「西方浄土」をなぜか地理的に目指したとしよう。行く先行く先で訪ねるたび、その地の人々が自分の生活圏が「浄土」に含まれていると意識していない以上、仮にその地が実質的に存在する浄土であったとしても、旅の僧の問いに対して「ああ、西方ですか、それはあちらです」と方角を示すだけとなるだろう。
 行けども行けども永遠にたどり着けないところになっていく。そこに気づくための修行を命じられてのことならば、かろうじて意味があるかもしれないが、そうでないのなら、その旅は意味のない移動になってしまうだろう。
 そもそも、自分の生きているところを「浄土」と認識する人がどれだけいるだろう。実質的に暮らしの拠点とする土地は、因縁が深く、欲にまみれた世界となって目の前に姿を現しているはずだからだ。そうしたものを見かけのものだと解釈した少数の人は、「本当はここが浄土なのだよ。」と思っているかもしれないが、通常ならば、生活の中で「この地」というものは日々「穢土」としての程度を深めていくようにしか見えないのではないかと思う。
 たとえ、仮にその地の人々が「ここは浄土」だという意識を持って生活していたとしても、旅の僧が「西方」と問うのだから、ここよりも、更に西の方にある別の「浄土」だととらえ、やはり「ああ、西方ですか、それはあちらです」と方角を示すことになる可能性が高い。結局どこまでも歩いて行く結果になってしまうかもしれない。何ともおかしな話だ。「西方浄土」という曖昧な言葉すべては原因があることは間違いない。
 さて、「この地」を離れれば離れるほど、言葉の問題が発生するのも間違いないことだ。最初は方言程度の違いだと思っていた言葉の異なりが、やがてどのような言葉も通じなくなるほどの言葉の異なりとなっていくのだ。尋ねることもままならぬことになった結果、よりいっそう目的地を訪ねることが困難になってくるという不都合が起こる。そうした問題も解決しなくてはならないような、地理的移動は当時としてはかなりリスクが高いものとなるので、途中から、「観念的な存在なのだ」と頭を切り換えて戻らねばならない。いつかは異教徒の地を歩くことになり、混乱はますます大きくなるだろうからだ。
 また、その地が仮に「浄土」であっても、頭の中で美化し、神秘化させてきた浄土とのギャップは小さなものではないため、「穢土」に見えてしまう可能性は高い。遠くから見ると美しいが、近くで見ればそれほどでもないということは、よくあることだ。そこに実際に住んでみると、その感じを強く持つ可能性がある。この感覚は観光客と実際に生活している人々との間にある、その地のイメージのギャップと共通するものだ。
 観光客にとっては素晴らしくても、土地の人はさほどそうでもないと思っているものだ。ただ、お金を落としていってくれる資源となっているという意味では素晴らしいとは感じるだろうけれど。
 いかにも「西方浄土」は観念的なものでなくては都合が悪そうだ。

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恐怖シリーズ239「法医のL氏」⑮

 L氏は、生きている間の魂を救えない宗教は偽物だとも思っていた。死んだ後、幸せになれるという理屈をかざす宗教も偽物だと思っていた。たとえ、それを信じて今救われているとしてもだ。それは、だから今我慢しなさいということであって、本当に絶望的な状況の人の魂を救うことはあっても、そうではない人にとっては、どうかと思うのだった。さして絶望的でもないのに、そのように耐えてばかりいる姿勢を促すことになってしまうから、世の中がますます絶望的な人を生み出す仕組みになっていってはしないだろうかと、そのほうを彼は心配するのだ。そもそも、我慢しなくてもよいのが幸せだろうという考え方が彼にはあるようなのだ。
 また、実績を証明しない宗教も偽物だとも思っていた。そして、会計報告を公にしないのも、偽物の宗教である証拠の一つではないかと思うのだった。すると、彼の考える新しい宗教も偽物ということになる。だが、そのことは何ら障害にならない。なぜなら、彼は、そうした「宗教」を興そうと思っていたからだ。真の宗教とは思わないが、便宜的に必要なものを良心的に創り上げればよいという、一見ご都合主義のようだが、現実を十分踏まえたもの、生きている間の魂を救えるものを目指すのだ。仮にその手段が宗教であったというだけで、目的ではないのだ。真の宗教は、後回しで良い。必要な宗教を創始すれば良い。それができなければ、宗教ではなく、別の方法を考えて実現してもよいのだ。それに、真の宗教は、既に宗教という小さな枠組みではない可能性が高い。
 どうでもよいのだが、彼の希望としては、やはり宗教にこだわっている人々の不幸を見過ごせないということもあって、宗教に代わるもの、しかもさまざまな既存の宗教を含み得るような、一つ上の何かについて、自然に人々が気づくように導いていくことが、世界平和にとって最も必要なことであろうと、そう考えるのだった。自分の人生だけでは為し得ないことかもしれないが、それならそれでよい。後を継ぐ者や集団ができないようでは、自分の考える物自体が間違っているか、まだ時期尚早だったというだけの話だ。そうであるなら、時期が来れば誰かまた似たようなことを考え、それに同調する人々が集まる条件がそろうだろう。逆に、そうした条件がそろったときを、時期が来たと表現するのが筋だとも思っていた。だから、気長に待てばよい。
 いつまでも実現しなければ、救われるものも救われないままに死んでいく人々が増えていくばかりなのだが、そうした条件を揃えていくのも、救われない人々自身であるはずだから、妙な言い方だが、自業自得という表現を使えないでもない。
 それは、救われないと言いはしても、本当は既存の宗教や、自己流の何かで救われている面があるということだ。これは料理と似ている。本当はまずい料理を食べているのに、おいしい料理を食べていないために、今以上のおいしさを知らない、という状況だ。おいしい料理を知ることは、不幸の始まりだ。どうして材料は同じなのに、この料理はまずいのだという不満を持つようになる。これが不幸の始まりでなくて何であろう。
 宗教も同じだ。よりよい宗教を知ることで、あるいは、より自分の状況に合った宗教を知ることで、自分が組み込まれている宗教団体や、自分が関わっている宗教的行事に対して、不満を持つようになってしまうのだ。しかも改宗が許されないということになれば、不幸きわまりないことになる。生き地獄となる可能性もある。
 そうした可能性を持っている宗教というものには、つまり改宗ができるできないという問題を持っているものは、それが存在し始めた時点で、既に問題点を抱えているというのが、L氏の持論なのだった。どうしてか、そのようにしかL氏には考えられなかった。だから、真の宗教、それは既に宗教という性格のものではないものかもしれないが、そうしたものが将来的に生まれなければならないと切に思うのだった。それに彼自身が関われるかどうかまではわからないけれども。
 人の死に関わる仕事につき、もの言わぬ彼ら死者の声を聞く役目を負っている彼、L氏はどうしても、宗教による目的達成を目指すにしろ、そうでないにしろ、どうにも宗教の問題をまずは片付けねばならないと覚悟した。歴史あるものに関する取り組みである以上、個人の力だけでそれが可能かどうかわからぬ。歴史があるということが、誰も克服し得なかったか、至極困難であったかを示しているのだ。彼は分をわきまえている人間なので、最初から結果など期待はしていない。
 だが、だからこそ全力を尽くす。それがL氏の信条なのだ。その結果が、一般的な人にとっては恐ろしいものになったとしてもだ。彼は既に自分の幸福も命も捨てているといえば、理解しやすいかもしれない。キリスト様は磔刑に処せられたが、自分は必要ならば、パンや葡萄酒ではなく、実際に自分の内蔵を多くの人に提供してもよいと思っていた。そのためには、一つの器官を、いくつかに分けてもよいとまで思っていた。また、自分の中で再生がきくものは、時期を見て、また再び可能な限り、取り出せば良いと思っていた。
 つまり、精神的に救うために、信じる信じないのレベルをスタートに持ってくるのではなく、また聖典を熟読させることでではなく、実際に医学的に命を救っていく行為を見せ、生きながらえることができたかできなかったかという事実を積み上げることだ。しかし、他人が必要な内蔵などの体の一部を、自らプレゼントする無償の行為を目の当たりにすることで、人の心は変わると思ったのだ。それが医者としての発想の限界ではあったが、文字通り体を張った行為だ。これによって、またその人も同じように肉体の一部をプレゼントするだろう。これが倫理的に問題があるとすれば、輸血なども同様で、認められないものとなってしまう。血こそ、人の命。失われれば死に至る。もっとも象徴的な内臓といってもよいかもしれない。、血のつながり、血と汗を流す。だからこそ、人はそうしたものを大事にしてきたのだ。
 L氏は、人のあまりにも酷い死に様を五感を通して感じるのが日常だった。立派な僧侶となる修行に、かつては死者が白骨化するまでの様子を見つめ続けるというものがあったそうだ。だが、それも現実を悟るための厳しい修行かもしれないが、変死体の解剖を日常とする者にとっては、修行という意味では何でもないことなので、もっと過酷なものでなければ修行とはなり得ない。何しろ昔は、たとえ変死体であっても、さほど別にどうというものでもないからだ。現代の変死体といったら、それは凄まじいものがある。しかも、彼は素手ではないにしろ実際に触り、自ら切り刻むのを日常としているのだ。そうしたことから、彼は宗教を超えるための入り口に立っていたとも言えるのだ。死に寄り添う仕事という生やさしいものではない。ある意味で自身が死者となり、その死者に語らせねばならぬのだ。
 いったい、自分が興そうとしている宗教は、どのようなものであればよいのか。それは、真の宗教への橋渡しとなるものでなくてはならないはずだ。ぐるぐると頭の中でさまざまなイメージが浮かんでは消えていく。その結果、何も行動に移さずに、頭の中のイメージとして消えていってしまうのではなかろうか。それはそれで滑稽で面白いのだが、そうなってしまっては、やはり寂しいとも思った。だが、これまで自分のように考えるものがいても、結局そのように何も行動に移せなかったのかもしれない。そして、だから何も起こっていないのかもしれない。いつまでも既存の宗教にこだわって固まる人々、翻弄される人々、そうした世界がずっと続いているのは、そういうわけだからではないのか。これは彼の弱気ともとれるのだが、彼一流の現実を見据えるという作業の一つにすぎないのでもあった。

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変な疑問166「いじめた奴の部屋で自殺しない理由」①

 いじめが原因で自殺するという痛ましい事件がよく起こる。例によって「いじめた奴」は報道されない。これが「早い者勝ち」ならぬ「いじめた者勝ち」の風潮を作っている。だが、理由があって報道できない。因果関係が不明確だという理由、まだ未成年であるという理由、その他さまざま理由は、つけようと思えばどれだけでもつけられる。それはそれでよいのかもしれない。だが、それが理屈だと感じてしまっているところに問題がある。
 これがいじめ問題を解決できない大きなハードルとなっていると思われるが、誰もそれを言えないという滑稽な状況となっているのが現実だ。そして、誰も触れようとしない。言えない、触れようとしない、その原因となっているものがあれば、それを変えたらよい。変えないから悲劇は続く。何かにとらわれているために、こうした重大な問題を、親の問題だとか、教育の問題だとか述べるだけで、実質的に看過している輩が、どこか安全地帯にいて、僕は立派ですという顔をしてすましているからだと、直感する。
 「いじめた加害者」「いじめられた被害者」が双方大人の場合は、ハラスメントという言い方をよくする。そうではない場合と、この場合とを区別する何か訳でもあるのだろう。だが、いじめ問題にしても、ハラスメント問題にしても、人権侵害問題なのだから、「人権侵害」というわかりやすい直接的な名称に統一し、いわゆる人権屋さんたちも、加害者が被害者に対して行った人権侵害の実態を責めるとともに、新たな被害者を出さないような活動をせざるを得ないような流れを作っていくことが、この問題全体の解決の第一歩となるべきだと思う。
 加害者の人権擁護ばかりに回っていた人権屋さんでさえ、加害者に人権を剥奪され、自殺を選択するところまで追い詰められた、悲惨な被害者のことを考えるところまで成長したんだという衝撃を、世間に与えるというショック療法だ。すると、「みんながいじめてるから、いじめても別にいいんじゃないの」という感覚をどこかに持っていたため、「自然といじめに荷担していくようなレベルの人」から、そうした人を増やしながら、その後をついていく「影のいじめリーダーのようなレベルの人」までが、「あのような人たちも僕たちを責めているんだから、ぼくたちってもしかするといけないことをしているのかもしれない」と気づき始めるのではないか、と思うのだ。
 すると、「だけど、そのいけないことが楽しいだな」と感じてしまう異常な感覚の持ち主以外は、そして「いじめ仲間」以外に仲間を作れない者以外は、彼らが構成していた「いじめの構造」から、次第に抜けていくだろう。
 次に、「これまで加害者の人権ばかりを擁護してきた人権屋さん」に限らず、また、その他の「いじめ問題解決の関係者」に限らず、「世間一般」が、事件を未然に防ぐための実質的な行動をとることが、「いじめによる殺人」や「自殺するまでいじめるというスタイルの殺人」、つまり「殺人そのもの」と、「間接的な殺人」、その両方の犯罪を、ある程度は抑制するだろう。不完全で大きな期待をかけることはできないが、一応為さねばならぬ予防のための対策となる。これが問題解決のための第二歩目だろう。
 次に、他人をいじめることの罪に覚醒した「普通の感覚の人たち」が抜け去った後の「いじめの構造」に取り残された、今後加害者となり得る人の行動を、抑制していくことが大事だ。そうした活動を展開せざるを得ないような、法律やら仕組みやらを作ろうとしないところに、司法と行政の罪がある。法律、習慣、教育、文化、そうしたものが知らず知らずに作っているハードルを乗り越えて、特別なものを新しく創り上げないと、「いじめ問題」に対応する諸機関が現状のままでは、問題は永遠に解決しないばかりか、よりいっそう深刻な問題となっていくだろう。
 特に、「いじめ」は悪質な犯罪だから、そのように認識するように育てるところから始めなくてはならない。「いじめてません。ふざけてただけです。あそんでただけです。」と釈明しようとしたとき、「そのふざけやあそびが犯罪につながっていく可能性が高いのです。」と、周囲の大人が一様に声をかけることができるような環境を、社会の中に創り上げるところから始めないと、大人や子供の「いじめ」は根絶できないと思うが、どうだろう。これが第三歩目。
 警察も「事件になってないから動けません」という奇妙な理屈を、そろそろ捨てるときが来ていると認識しているのではないだろうか。体質改善する動きにはまだならないかもしれないが、そういう感覚自体は生じていてもよいはずだ。
 「いじめ問題」、もっと明確に言えば「いじめ自殺」に至るおそれがあることを知りながら、結局は追い詰められた被害者が、死を選ぶしかなくなるところまで放置せざるを得ないのは、おかしいと思うのが普通の感覚だ。ストーカー問題も同じだ。警察に何度も相談してもらいながらも、結局は殺されるところまで放置しているのに等しい対応しかできないということ自体が、おかしいと思うのが普通の感覚だ。こうした普通の感覚が蔑ろにされるような仕組みや法律は、それ自体を変えていき、普通の感覚にそうものにしていく必要がある。このようなことができる立場にある人の意識改革が必要だ。国民のほぼ100パーセントがそのように思っているのに、なぜか絶望的に変えられないところに、この国の不幸がある。変えないことの責任追及をしようとしないからだ。
 少なくとも、「いじめ自殺」すなわち「いじめ殺人」の問題に、こうした旧態依然とした態度で対応するのはやめなくてはならない。もっと人が死ななければ動かないのだろうか。何人自殺に追い込まれたら変えようとする機運が高まるのだろうか。
 警察法の第二条の一項に「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。」とあり、その責務を規定している。「いじめ」という人権侵害行為によって、その身体が傷つけられ、命が失われようとしているのを看過してはならないはずだ。「小事を看過し、大事を招く」という愚行を、本末転倒の理屈で貫こうとするのはなぜか。新たな被害者を生み出すようではいけない。犯罪を実質的に予防するための実質的行動が具体的とルことができるような、特別の法を作らねば、結局駄目なのだろう。警察の「警」、そして「察」の意味をもう一度かみしめるべきは誰なのだろう。その人の一声から、改革は始まるはずなのだ。
 ところで、この問題がいつまでも好転しないのは、そしてよりいっそう被害者やその遺族が惨めになるのは、つまり二重に苦しめられることになる原因の最たるものは、いわゆる人権屋さんが、本来の、そしてより切実な被害者の人権問題にまでに、本格的に手を広げ、偏りなき本来の人権擁護活動をしないことだ。そのように追及されたり、実質的なしっぺ返しをされたりするようなことはあってはならぬことだ。しかし、このままで済むとは思われない。人の命がかかっている問題なのだから、早急に、そしてお得意の「声を大にして」の行動を、被害者のためにも、とるようになってもよいのではないだろうか。だが、どうしてか、そうした動きは耳に入ってこない。どうしてだろう。できることをしないのは、なぜだろう。
 もっとも、いじめ被害者の関係者、あるいは当事者になるなど、身近な経験を持たない限り、急な宗旨替えなど「プライド」にかけて、しがたいことではあろう。だから、理解できなくもない。しかし、いじめられっ子による、いじめっ子に対する不当な逆襲は避けなくてはならない。ある転換点を過ぎたところで、そうした逆の流れが起こるのは、あり得ることだ。いじめられっ子は、何年か後にいじめっ子になる。それを恐れて、いじめに手を染めた者は、本能的に自殺まで追いやるのだろうとも思うのだ。

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