変な疑問186「いじめた奴の部屋で自殺しない理由」⑦

 第二に、「じゃれていただけ」とか、「あそんでいただけ」とか、その類の発言があったときには、実際に被害があった場合や、被害届が出されればもちろんのこと、被害届が出されない場合でも、同様の事柄が再発することを防ぐための事前警告を、専門機関が文書と口頭にて、かの発言者に対して行う。事前警告より後、被害の有無や被害の大小にかかわらず、被害につながる可能性のある行為等が一度でもあれば、被害者、あるいは被害者となりそうな者が同一人物である以上、その事前警告以前の加害者と、事前警告以後の加害者となりそうな状況を示した者とが同一人物である場合はもちろんのこと、同一人物でない場合であっても、一旦事前警告がなされている以上、その警告が伝わっているいないにかかわらず、罪が問われるようにしておく。
 現在のような、「いじめ」が横行する段階にある社会では、このような非常識な取り決めをしない限り、非常識な行為である「いじめ」に対する直接の抑止力は存在し得ないのではないだろうか。教育によって生まれる間接的な抑止力だけでは、不備であろう。また、その「いじめ」を引き起こす様々な行為や、その「いじめ」に関連して起こる、被害者にとって不都合な問題などを、封じていくことはできないだろうと思うのだ。
 こうした取り決めを周知させ、抑止力とする以外に即効性のある方法はあるだろうか。遅効性の方法しかなく、それも十分に機能していない以上、即効性のある方法も示して、少しずつ適用していくところから始めるというスタイルも同時に取らねば、現状のように正義は掲げた絵のままだろう。
 もちろん、現状では、このような非常識な策を講じることができない多くの理由がある。だが、そのために、非常識な「いじめ」行為によって、苦しみぬいて、命を自ら立つ人が後を絶たないことを、念頭に置かねばならない。いつのまにか、念頭に置くべきはずのものを心の片隅においやり、結果として積極的に動けない司法関係者、あたりさわりのない一般的でつかみ所のないコメントを積み重ねることしかできないマスコミ起用のコメンテーター、被害者と加害者の両方を抱えて途方に暮れ、思い切った策を打ち出せない学校関係者、被害者側に回りたくない一心で加害者側になったり、その協力者になったり、傍観しているだけのでくの坊と化したりする、仲間になるべきだった児童生徒や同僚たち。どれもこれも全て罰すればよい。
 罰せられることを知ってやっと思い腰を上げるレベルなのだから、そうしたレベルに合わせた対応から、それがたとえ低レベルの対応であっても実施せざるを得ないのではないだろうか。何か他に効果を上げている方法があれば、それが全国に広がるはずだが、その気配は一向になさそうではないか。
 そうしなければ、被害者をむざむざ自殺に追い込むのを見過ごさねばならぬという、これまでのような不条理きわまりない現実を打破することは難しいだろう。呑気な理想論を寝言のように、あるいはお題目のように口ずさみ続ける人々もいるだろうが、恐らく自分自身や身近な人々が実害に遭ったことがないか、実害があったにしても軽い実害しかなかったかのどちらかであろう。あるいは、相当に想像力のたりない不思議な人か、そのように発言することを何らかの理由で義務づけられた立場の人かだ。
 誰もが手をこまねいている現状。それは、見るに堪えないものであるはずだ。いろいろな理由や配慮で、加害者に目を向けない姿勢も無責任そのものだと悲しく思う。そのような当たり前の考え方を敢えて変えていかなければ、今度は「いじめられ」ていた人による、犯罪が始まるのではないかと危惧する。そのような「いじめかえし」は、「いじめ」よりも悲惨な結果を生むこともあるだろう。
 実際、「いじめられっこ」は「いじめっこ」に転じることはよくあると聞く。そして、「いじめっこ」が「いじめられっこ」に転じることもよくあると聞く。そうした恐ろしくて愚かな風潮が広がる前にしておくことはないだろうかと考えたとき、「いじめ」にかかわっている人、かかわっていた人、今後かかわる可能性がある人、つまり全ての人に対して、「いじめ」の行為、あるいは「いじめ」と見なされる行為などが、どのように扱われて罪を問われて罰せられるかということを事前警告しておき、全国民の共通認識として周知徹底させておくことがまず挙げられねばならないだろう。
 至極当然だと思うが、加害者を表に出さない方向は、恐らく学校関係者や人権擁護関連の団体が「いじめ」を解決しようとしているからだろう。今苦しんでいる人を救う代案をもっているのかどうかは知らないが、まだそのようなものは見たことがない。当然、成果が上がっているケースも聞いたことがない。それもこれも世間の盛り上がりがないからだ。世間が盛り上がれば、各関係機関は動き出す。
 世間の盛り上がりが各機関のエネルギーであることは間違いない。世間の盛り上がりが政治を作り、政治が世の中を変えていくのと同じだ。実に呑気な構え、それがまた自殺希望者を増やしているのも間違いないだろう。自分は苦しんでいる。しかし、世間は幸せそうにしている。これが絶望を絶対的なものにする。そうしたことが分からない世間ではないだろう。だが、かかわらないようにしているのだ。それが世間様だ。僕もそのうちの一人だからよくわかる。
 「いじめ」の被害者は、恐らく、被害者となってからでは声が上げられないのではないかと思うのだ。声を上げることによって、まずい対応が周囲で始まるおそれが高いからだ。それも、よかれと思ってのことだ。しかし、残念なことに「いじめ」の状況は更に陰湿化すると想像される。こうしたことを「いじめ」の被害者は最も恐れるのだと思う。逆恨みという最低な行為は、「いじめ」という人権侵害行為を意識的に、あるいは無意識にしてしまうような、いわゆる下種な人々にとっては、日常茶飯事、条件反射的なことであることだからだ。さらに、世の中の因果がまだ十分に理解できない年齢では、そうした人々でなくても十分に起こり得ることだから、半ば仕方ないことなのかもしれない。だから、「いじめ」の被害者は声を上げられないのだ。
 被害者に残された道は多くない。加害者が死に至るように謀る。自分が死ぬ。このまま我慢する。加害者を別の環境に移す。自分が別の環境に移る。逆恨みによる「いじめ」の激化を考えると、こうなる。しかし、このまま我慢するのも嫌だろう。別の環境に移ることも、引きこもり以外には考えにくい。だが、引きこもるのも嫌だろう。加害者の環境を移すのも無理がある。すると、加害者が死ぬようにするか、自分が死ぬかというところに、思いが煮詰まってしまうのではないか。
 しかし、殺人はできそうにない。やれたとしても依頼しての殺人だ。それも罪な話だ。すると、自殺を考えるしかなくなってくる。だが、死ねない。ひたすら、家に引きこもるしかなくなる。それも悔しい。何とかしたい。
 このような苦しい思いで毎日を過ごすのもやりきれない。そうした現実を離れるためにゲームに没頭するも、むなしい。やはり一矢報いたい。加害者の部屋まで押しかけて自殺してやろうかとなる。
 ところが、そこまで追い詰められる前に、没頭できるいろいろなゲームが発売されていくから、それにはまり込んでいくのが現状ではなかろうか。誰も死なずにすむからだ。その方が平和ではないか。なかなか加害者の部屋で自殺する事件が発生しないのは、「いじめ」が原因で引きこもるという悲惨な状況に置かれた被害者の心を、救済する形になっているゲームの進歩に原因があるのではないかと思うのだ。もちろん実際に解決するという救済ではないから、ゲームに疲れて、そのまま眠ってしまうというような生活パターンにするしかなくなってくる。いつまでもそうしていられないということは、本人が最も自覚していることだ。こうしたことを考えると、「いじめ」の加害者にはそれ相当のペナルティーが実際に与えられないとならないという世間の発言が出てくるのを、どうしても待ちたくなる。
 しかし、そのような声が出てこないのは何故だろう。そもそも、声が出てくる場とはどこだろう。ツイッターだろうか。テレビのワイドショウ-だろうか。新聞の社説だろうか。政治家の講演会や選挙演説だろうか。いったい世間の声の場所とは何処だろう。近所の井戸端会議の段階で消滅しているようでは、世間の声とは言えない。これだけは確かだ。

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突然思い出したこと187「マザー グースの教育効果」

 「マザー グース」を、今更ながらに突然思い出した。読んだことはなくても名前だけならば、何度も聞いたことがあるであろう童謡集だ。特に欧米諸国では、今でも幼少期より親しまれているらしい。伝播のスタートはイギリスだから、植民地時代には世界中に伝わったらしい。
 日本語訳ならば、北原白秋の「まざあ・ぐうす」が有名だ。問題は内容だ。幼い子供には如何なものかというものもある。現実主義的な流れが滔々と流れる中に、だからこその不条理も垣間見せる。それはそれでイギリス流の家庭教育の一環として機能しているのだろう。
 しかし、次のようなものはどうだろう。以下抜粋。(北原白秋訳の「まざあ・ぐうす」による)
 
 眼

青い眼はきれい、
灰色の眼は陰気
黒い眼は腹黒
鳶色目玉はおばァけ。

 幼子は、例によって何度も何度も繰り返し本を読んでと願う。古今東西変わらないだろう。しかし、欧米諸国の幼子と日本の幼子の決定的な違いは、この童謡が分岐点となる、人間観の形成のされ方だ。
 イギリスでも、青い目の人の比率は少ないようだ。少数派だ。その少数派を「きれい」と褒めたたえることの意味を、幼子特有の思考のフィルターを通さない受け取りをする。若い脳にダイレクトに与える情報として、この童謡は大きな意味をもつことになる。お話ではなく、童謡だから、広がり方も刻み込まれ方もますます強力なのだ。
 眼の色による分類が当然のこととして、基本的な対人的な感覚となる。青色、灰色、黒色、鳶色が、そのまま人間性の階級としての枠組みとして、幼少期に繰り返し繰り返し叩き込まれる。いや、叩き込まれるのではなく、自然に定着していく。思考のチェックを受けないレベルでの枠組みの形成は恐ろしい。 
 日本人の幼子はどうだろう。周りの人々はすべて黒い眼だ。茶色がかった人もいるから、基本的には黒で、そうなければ、最下位の鳶色というわけだ。四ランクのうちの下位二ランクしか見当たらない社会に生まれたのだと強く脳に染みわたるはずだ。もちろん、思考のチェックを受けないレベルでの枠組みの形成だ。
 本家では、階級意識、特に「陰気、腹黒、お化け」という言葉に象徴されるような差別意識の裏打ちがなされた階級意識が、土台として築かれていく。それは学校による計画的な教育とは異なる、家庭における伝統的な教育だ。植民地では、逆の教育効果が生まれるだろう。植民地にされる前から伝統的に培われてきた価値観に、「マザー グース」に組み込まれた、様々な表現から逆算されて心に落とし込まれる、イギリス流の伝統的な価値観が、ぶつかり合うのだ。平等な条件でぶつかり合うのと、植民地とされ、支配される側に貶められたところへの流れ込みとは、大いに違う効果を発揮するだろう。
 日本では、それほど多く「マザー グース」が親しまれているわけではない。植民地化されることを逃れたからだ。文化的にも、日本にはもっとガラパゴス的な意味でも強力な、伝統的価値観に溢れていたことが、バリアとなったかもしれない。
 ただし、青く輝く美しい眼に対する幻想は抱くことになっただろう。黒い眼の腹黒いというのは承服できないものとして、「マザー グース」というのは、外国のものなんだなという、冷めた意識を育てつつ。鳶色の眼の人が随分と多かったのも救いだっただろう。少数派ではないのだ。また、お化けに対しても、親しみや思い入れがある文化であるように思われるから、これも救いだったと思う。人相学、手相学、その他の占いの類も数多く、体系だったそうした説得力のありそうなものに触れているから、単純な眼の色占い的な単純なものは、遊び的なものとしてしか認識しないだろうということもあるかもしれない。
 だが、より幼い子にとってはどうか。眼の色で単純に性格を判断するなんて、程度の低いやり方だと思ってくれるだろうか。それは期待できそうにない。眼の色から発展して、ほかの際でもって差別するような、そうした人間性を持たないとは限らない。同じ童謡に親しんでいれば、自分だけの感覚ではなく、それが仲間の感覚、つまり常識的な感覚、すなわちノーチェックの基本的な部分の感覚となっていくのは間違いないだろうと思う。
 せっかくの童謡集が、好ましくないものを刷り込むためのものとならないように、批判力の成長を見ながら、親が選択的に読んであげればよいだろう。有名な作品、より良いと思う作品、より多くの人々に親しまれている作品だからこそ、敢えて見直さねばならない必要があると思うのだ。この国で生まれたものであっても、そうでなくてもだ。
 日本の童謡による教育効果というものも、時代の流れに合わせて一つ一つ分析し直す必要があるだろう。それに基づいて、目的に合う時期に、目的に合う形で、子供に触れるようにしなければならないだろう。ただし、機能食品的にだ。つまり、食事も機能食品だけではだめだという前提であるのと同じようにということだ。
 それにしても、イギリス人は、本能的に日本人を腹黒いと直感しているのだろうか。また、その直感を自覚しているのだろうか。そう考えると、なんとなく奇妙に感じる。なぜなら、僕は青い眼をきれいだと感じるからだ。

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恐怖シリーズ246「指導死・新聞死・政策死」

 「指導死」という言葉を初めて見た。なるほど、指導の行き過ぎによって、自殺してしまうという悲しい事件に対して「指導死」という表現を使うのは一見的確だ。いや、違う。的確ではない。騙されるところだった。不適格な言葉遣いだ。語弊があるからだ。
 語弊のある言葉を使用し始めようとする人の神経は、事件をだしに目立とうという気持ちしかうかがわれてない。同じ気持ちになってみると、「政策死」とか「新聞死」というような言葉も頭に浮かんでくる。新語を発信する時の気持ちは、独特のものがあることは確かだ。
 さて、「指導死」の語弊は、その路線で行けば、「過指導死」とすべきところを、単なる「指導死」と単純に表現してしまったために生じるものだ。大雑把な表現のために、「指導」すること自体に問題があるかのような印象をどこかで与えてしまうのだ。「過労死」を「労働死」とか「労死」とか表現してしまうことの語弊と同じだ。
 語弊によって植え付けられた、なんとなく頭に残ったイメージは、それがそのままでは否定されることのない程度のものであることに大きな問題がある。そうしたものが複数回イメージとして頭に残る機会を得てしまうことによって、次第に「指導」に対する、なんとなくの否定的な判断を導きやすくする頭の環境を作っていくことになるからだ。
 新聞やテレビの報道における、何となく問題にするほうがおかしいような些細な言葉の選択が、大勢の人々の判断の方向を一定方向に導くことが多い。その最たる例が、太平洋戦争にかかわってくる報道だった。自分の頭で考えることのできる一部の人たちまでを巻き込み、そうでない普通の人々を何百万人も死に追いやった「新聞死」の償いはまだ始まっていないのが現状だろう。
 僕の力では、どの新聞社が、どう償ったかの具体例が調べられないのだ。今のところ周囲の誰に聞いても知らないというから、償いがあったにしても、認識していない可能性が極めて高いということは確かだ。
 それにしても「新聞死」は語弊があるから、「誤報道死」とか「偽報道死」とかがよいかもしれない。しかし、胃一般的ではない表現だが、「過指導死」があるとすれば、それに対応して「過報道死」とかいう表現のほうが語弊が少ないかもしれない。
 とにかく、取るに足らないような、しかし少し語呂がよいような、そうしたノーマークになりやすい表現には十分注意しないと、いつの間にか頭の働く傾向が変えられてしまう恐怖が現実となってしまう可能性が高いように思う。こうしたことを、取り越し苦労だとか、そんなことを言っていたら世の中間尺に合わないとか、そういう感覚が少しでもあるようであったら、要注意の段階だと言ってよいだろう。
 いつのまにか「政策死」という、ありきたりの「死」が見過ごされ、当たり前になって無感覚になっているときがある。「過政策死」というのは無い。「政策」自体がそのまま「死」につながることが多いのだ。だから、「政策」は恐ろしく、その恐ろしい政策を考える政治家は恐ろしいのだ。だから、少なくとも立派な人物であってほしい。今日は、選挙だ。嵐と共にやってきた投票日だ。

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恐怖シリーズ245「テロリストのテロリシア」

 イスラム国は首都を奪い返されて失い、本当のテロリストになるしかなくなったようだ。これは困ったことだ。本当のテロリストは辛い物に違いない。死ぬまで人から恨まれ続けられなくてはならないからだ。
 テロリストはテロリストだけで国を作ればよい。イスラム国のように女性を蹂躙したり、男性を殺したり、子供を人間の盾にしたり、無関係の人々を奴隷のように支配したりするのは、いったいどんな理屈によるものだったのだろう。当然、世界はその理屈を承認しなかった。特に平和に暮らすイスラム教の人々は苦々しく思っていたに違いない。イスラム教をこれ以上、テロリストによって貶めてはいけない。何教であれ、人を傷つけたり、殺したりするようであってはならない。イスラム教徒の人口は人類の3割程度と聞いたことがある。そんな大宗教の名を汚してはならない。僕はイスラム教徒ではないが、互いに尊敬し合うような姿勢を持っていなければ、それは何教を名のろうと道を誤っている。自分たちの国を武力によらずに、世界から祝福される方法で建国する道はないのだろうか。
 今回の首都陥落で、本当のテロリストになり、今以上に迷惑をかけ、今以上に人を殺し始めるかもしれない。でも、それは止めた方がよい。自分たちだけで国を作ったほうがよい。誰も巻き込まず、誰も人質にせず、国を作った方がよい。人を傷つけたり、殺したりするのはやめて、平和に自分たちだけで暮らせばよいのだ。干渉せず、干渉されずに生きていけばよい。立派な生活態度で生活していれば、脅したり、金でつったり、宣伝したりしなくても、人は集まってくるものだ。脅したり、金でつったり、宣伝したりした分だけ、信頼されてないということの証明となってしまうから、止めたほうがよい。
 だが、国を作るのには土地が必要だ。それは武力で奪ったり、騙して奪ったりするものではない。合法的に購入するのがよいだろう。農地を拓き、産業を興し、他国と対等に貿易をしよう。そのぐらいの力はあるはずだ。神に守られているのだから。優秀な人物もいるのではなかったか。彼らが世界に償いをする形での建国なら、認めてくれるのではないだろうか。イスラム教徒なのだからできるはずだ。
 ただ、国名はテロリストだったことを忘れないように、「テロリシア」とか「テロランド」とか、「テロ」という言葉を入れるのがよいだろう。通貨は「テロ」が覚えやすい。ガソリン1リットルが5000テロとか、チョコレート一袋10000テロとか、語呂がよい。国として当初は認められないかもしれないが、善行を積むうちに何とかなるだろうと思うのだ。どこかの国の片隅で試運転し、その後、世界に祝福されながらの独立を目指すのがよいと思う。それまでの預かりを何処の国が引き受けてくれるかが問題だが、人望と神のご加護があれば、これも問題ないだろう。
 誰も人の幸せを決して奪ってはいけない。どの宗教でもそのように謳っているはずだ。もし、うでないとしたら、それはそれは恐ろしいことになるに違いない。

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変な疑問185「西方浄土ってどこなの?」⑫

 それにしても、綺麗さっぱり何もない星々、生き物の発生しない星々、または生き物の絶滅した星々が「浄土」だなどという見方は、生き物の立場、特に人情からすれば、それは身も蓋もない寂しい見方だ。だが、生きるということに、さほど執着しない生き方、そうした傾向が仏教にあるのであれば、身も蓋もない寂しい見方ではあるかもしれないが、それ相当の結論の一つとはなり得るだろう。
 しかし、特に人間の立場からすれば、自分たちは生き物の中でも特別な存在、最高の存在であるはずだというプライドのような気持ち、少なくとも最高の存在でありたいという気持ちがあるので、できたら他の動植物の行きつく所とは異なる「浄土」を胸に抱いていたいという欲も持っている可能性がある。「浄土」に対する期待が大きいためか、それとも、我が身の置かれている現実の「穢土」の度合いが甚だしいためか、「浄土」には美しい草花が咲き乱れているところだという幻想が抱かれることもある。このように、いろいろなイメージが抱かれてはいるものの、いろいろな動植物とともに人間が安楽に暮らしているだろうというような「浄土」のとらえ方が、一般的であるように思う。
 そうした一般的で人間的な感覚からすれば、草木一本もない、生き物の気配のない、綺麗さっぱりした星々が「浄土」であっとしたら、それは幻滅落胆以外の何ものでもないだろう。何よりもそこにはおよそ仏像に表現されているような仏様などいそうにない感じがする。「浄土」とはいっても、その実態は実は厳しく、夢のようなところではない可能性だって高いということは薄々は感じているだろうが、よくて魂のたまり場程度でしかないような、遠くから憧れの気持ちで思われているだけの実は象徴的な場所、つまり単なる空間であったと知れば、夢も希望も失い、現実を生き抜く心の支えをなくしてしまうという、悲しいことになりかねない。「事実は知らない方がよい場合もある。知らぬが仏だ。」というような話になってしまうのは切ないことだ。
 だからこそ、夢のように穏やかな、全てが美しく調和している別天地が「浄土」であってほしいと、僕たちは心のどこかで常々念じているのではないか。それが宗教心の正体だとしたら、少しやりきれない感じがする。
 だが、このように夢と希望を込めて憧れられている「浄土」がどのようなものであるかを、いろいろな人々がいろいろに考えて説明することはできても、それを証明することは困難だ。だとすると、これは信じるか信じないかという問題になってしまう。
 証明できないものを設定して、それを信じるというのは、宗教を成立させるための一つの知恵だとおもうから、当然と言えば当然なのだが、信じるべきものだから、証明しようとしてはいけないという風を強く示している態度が解せないだけだ。つまり、それが宗教の限界なのだろう。宗教は手段であって、目的ではないことは確かだ。単なる手段である以上、限界があって当然なのだ。賢明な人々により、よりよい手段が新たに考案されるからだ。手段だからこそ、さまざまな宗教がわき起こる。生きる条件の異なる人々に押しつけるのは、だから間違っている。一般的に宗教の押し売りは好ましくないが、中には適合する人もいるから、宣伝ぐらいはよいだろう。手加減なしに、どれか一つの宗教をを絶対視すると、周知の如く、さまざまな不都合が生じる。
 だが、どこかに素晴らしいところがあるとするのは、どの宗教にも共通しているように思われる。ただ、その素晴らしいところ、つまり天国やら極楽やら浄土やらは、この世にはないというのが最初の設定だ。
 そこからは二つの道がある。一つは、死んでから行けるという道だ。すると、死んでから行けるようにするには、生きている間にどうしておけばよいのかという方法が問題となる。もう一つは、この世にはないから、この世をそのような素晴らしいところにするという道だ。すると、生きている間に何をすればよいのかという方法が問題になる。似て非なるものだ。
 どのみち人間の欲が絡んでくる。宗教なのに、死んでから幸せになろうとか、この世を幸せに暮らせるものにしようとか、所詮は自分や家族、国家や人類、所詮その程度の範囲の永遠の幸せを願うだけの小さなものだ。そうした幸福の追求は、結局のところ欲が絡んで争いが起こるもとになる。「穢土」に向かってまっしぐらの現状だ。相対的に、天国やら極楽やら浄土やらの価値が上がってくるから皮肉なものだ。
 ありきたりの幸福など幻だと悟って、自分自身の質を高めるしか他に方法はないと知ることが第一歩となるのだろうが、そちらへは目がなかなか向かない。恐らく自分と向き合うのが辛いからだろうと思う。僕も自分を見つめるのは嫌だ。しかし、世の中には立派な人がたくさんいて、自分と向き合い、立派な生き方を全うしているはずだ。しかし、その方向は無理がある。争いの後にほぼ絶滅するのが定めかもしれない。この地球も、コンピュータとロボットを生み出す役割を人間が果たし終えれば、後は次第に生き物のいない世の中、正確に言えば、コンピュータとロボットが必要とする生き物以外は、存在しない「浄土」になるのかもしれない。
 こうなると、未来の話になってくる。すると、「西方浄土」というのは、時間の彼方ということになるのだろうか。確かに時を刻む太陽の動きは、東から西へと移動し、変化することがない。緯度が日本より低いインドならば、太陽は日本で見るよりもこう角度で太陽は昇り、高角度で沈むはずだ。日本で言う沈むというよりも、落ちる感じに近くなると思う。すると、西の方に沈むという感覚よりも、よりピンポイント的に西に落ち込むという感覚になるだろう。
「西方浄土」といういうのは、時の流れる行き先の象徴である太陽の落ち込む場所から来ていると考えれば、人々の修行が積み重なっていく未来に実現するもの、つまりあの世だ。あの世を未来と考えても全く差し支えないだろう。あの世では、既に僕たちは死に絶え、新しい世代が生活しているという訳だ。
 その未来に何があるか。もしかすると、新しい世代も死に絶えて人類は滅亡しているかもしれない。あるいは、生物の大規模な絶滅を迎えて、新しい世の中の準備段階に入っているかもしれない。転んでもただでは起きない人類が、コンピュータとロボットにのりうつって、薄らいでいく生物であった頃の記憶を懐かしみながら、どうでもよい活動に現を抜かしているかもしれない。いずれにせよ、そこには、今有るような人間の欲は存在しない。存在するとするなら、コンピュータにプログラムに人間の欲が反映されたものだけだろう。
 もっとも、そんな不必要なプログラムは、コンピュータが自分で書き換えることになるだろう。だが、人間のやることだ。決して油断はできない。油断はできないが、既に人間はいないのだから何の心配もない。

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突然思い出したこと186「いろはに金平糖」③

 余談はさておき、「親父のはげ頭」で締め括るのには、どのような意味があるのだろう。
 「親父」という一個人の人生という芥子粒のように小さな歴史かもしれないが、家族のために苦闘してきた証、その象徴が「はげ頭」であろうか。無数の「親父」と無数の「はげ頭」、そこに込められている無数の「破滅的命」と繰り返される無数「苦労辛酸」が浮かび上がる。宿命的に威厳を持たねばならぬ「親父」、故に最も身近な権威・権力の象徴としての矢面に立たざるを得ない「親父」、それを至近距離から笑い飛ばすためのものだろうか、どのような「いろはに金平糖」の歌詞であっても、その締めくくりには「親父のはげ頭」が姿を現す。直接の保護者、しかも「はげ頭」はほぼ確実に将来の自分の姿なのだから、本当には嘲笑の意味ではないはずだ。
 見方によっては、歌詞を「親父のはげ頭」で締め括ることは、「親父の勲章」だと見なせるだろう。大人でもそうだが、子供であればなおのこと、「いつもありがとう」などと感謝の気持ちをストレートに表現することは、何とも言えぬある種の恥ずかしさを伴うものだ。それ故、その表現しがたき感謝の反対表現としての「親父のはげ頭」であろうと解釈しておくのが無難な線だろう。
 もしそうでなければ、この歌が単に「遺伝的な特徴の指摘」、あるいは「いろはにこんぺいとう」とつぶやいたり、歌ったり、合唱したりしている子供たち自身の頭髪に対する運命的未来の予告、そして注意喚起」ということになってしまう。これでは童歌として楽しみにくいものになってしまう。この歌詞で表現したい、真の意味合いから外れてしまうのではないかと思うのだ。
 それを深く読み取らず、文字通りにとらえ、悪意ある歌い方をする子供や、悪意ある歌詞だと感じて悲しい思いを抱いている「親父」もいるかもしれない。その「親父」を救うためとは言わないが、次のような幻想を抱くのもたまには面白いだろう。
 ほとんどのお寺のお坊さんは文字通り自らの意志で坊主頭となり、「疑似はげ頭」を己の身に課す。それはなぜか。その答えの一つとして、「親父」の身になりきるためだという理由を幻想してみるのだ。
 この世の無数の「親父」たちが、決して待遇が良いとは言い切れない家族に対して、無償の愛を不器用ながら全力で注ごうと、身を粉にして懸命に生きているのを、煩悩としてお寺が評価していると考えてみるのだ。
 家族のために己の健康を失い、頭髪も失い、プライベートの時間も十分確保できないままに日々人生を消費していく存在。子煩悩という言葉があるが、家族煩悩にとらわれていても、それをよしとして諦めている「親父」たちの涙ぐましい生き方は、手をさしのべるべきものだろう。
 しかも、子供を鍛えるという立場上、母親と比べてどうしても疎まれがちになる存在。その延長で妻からも疎まれる存在。そうした継続的なダブルパンチを受けとめながらも「親父」であり続けようとする。うまくパンチを避ければ避けたで辛い立場に立たされるが、それでも「親父」であり続けようとするのは、母親とは異なる種類の責任からに相違ない。それが生み出す無償の愛に、お寺という組織が深く共感してのことだろうという幻想だ。
 そうした絶対的な愛は、子供の目にはまだ届かないことが多い。自己中心的な性質を持つ者の理解を遥かに超えているからだ。己を無にして命を終える、母親とは異なるスタイルの滅私だ。
 間接的で、抽象的な、子供には理解しがたい愛だ。それゆえに疎まれがちな存在になりがちだが、そんなことは「親父」には既に織り込みだ。直接的で、肉体的な、わかりやすい愛情だけでは、現代社会で生き抜いていく半分の力しか育たない。そう思っているから、「男は辛いよ」と言えば未練がましいので、黙って平常心を貫きつつ、「親父」としての愛を注ごうとするいじましさが、そこにはある。
 男性の方が何倍も自殺率が高いのは、そうしたことも一因となっているかもしれない。突然、どうして生きているんだろうと思って命を絶つのだ。そうでなくとも、日常的に極限まで無理をすることが多いので、死にやすくなるのだ。
 また、平均寿命が5年ほど短いのも、そうしたことが一因となっているのかもしれない。マイペースの生活など夢のまた夢、社運を左右する突然のレギュラーの大問題に、自分の命をかけるのだ。タイムカードは形だけ、持ち帰りの仕事もこの国では普通だろう。睡眠を取るためだけの帰宅というのは別に珍しくはない。異常な生活環境だが、それがこの国を漸く支えているのだ。
 社運とは「親父」たちの命の集合体の将来のことだ。失敗も成功も、家庭内の問題よりも何十倍、何百倍、ことによると何万倍も大きくなる。その重圧に対する鈍感力が事切れたとき、命を絶つ可能性は高い。
 また、その重圧自体に押し潰され、心身の健康を損なう結果を招き、それを皮切りとして全てがうまくいかなくなり、借金問題、家族への無理解、家族からの無理解、諸々の問題が両肩にのしかかり、遂には自殺する場合も出てくる。社会の複雑化に伴う、激烈な労働環境と、時間的にも手の着けられない家庭環境の中に置かれ、なおかつ生き延びるというのだ。これは無理だろう。
 栄養ドリンクのCMのコピーで「二十四時間たたかえますか?」というのがあった。その時には誰も違和感を持たなかったのだから、今考えれば意識というもの、社会の風潮というものは、つくづく恐ろしいものだと思う。兎にも角にも、そうしたものに「親父」の精神や肉体の進化が追いついてないのだ。
 そうした中に若い女性が放り込まれれば、真面目であればあるほどに、ひとたまりもないだろう。男女老若全て活躍するのは素晴らしいことだが、そうした会社社会のようなところで活躍するという意味ではないはずだ。適材適所。それを無視した政策は誤魔化し政策だ。そこを追及しているようには、どうしても見えないのが、この国の情けなさだろう。原因ではなく、結果を稚拙に変えようとするのだ。中学生以上なら誰でも気づきそうなものだが、そうした働き方問題を変に解決しようとすると、間違った意識を育てかねず、最終的には産業自体に不都合が起こることは間違いないだろう。
 心身の進化が追いついていないのに、事を黙って受けとめての努力、そうした一生を潔く受け入れているのが「親父」に象徴される存在だ。それは寂しいことでもなく、もちろん悲しいことでもない。孤高の「親父」だ。
 お寺の坊主の頭は、そうした「親父」たちの生き様の象徴、その現象の目に見えるものの一つとして「はげ頭」を尊敬したものだろう。手をさしのべるには理解することが必要で、まずは見た目からはいろうとしたのではないか。そのうえで、「親父」たちの代役となって修行し、悟りを開き、内面でのたうち回っている「親父」に、有り難いお話を提供するかのようではないか。
 こんな無理やりの解釈を試みているうちにも、いろいろ本筋の理屈はあったとしても、当初は実のところ本当にそうしたものが心情としてはあったのではなかろうかと思われてくる。実際はともかくとして、そう考えたくもなるような現状に「親父」はあるということは言えるだろう。
 一方、「親父のはげ頭」と対極にある、新陳代謝の激しい汗臭い子供の頭は、今と違って香りの良いシャンプーですっきりとさせられなかった時代が数百万年も続いてきた。恐らくシラミ等の不快害虫のすみかだったことだろう。石けんもない時代や地域では、何で頭を洗っていたのだろうか。やはり米の研ぎ汁だろうか。では、稲作以前の時代では何で洗っていたのだろう。
 不思議なのは、「いろはに金平糖」の歌詞の中の「親父」には、老いぼれたイメージは少しもないことだ。なぜだろう。これは個人的な感想かもしれないが、老いぼれた親父にだめ押しをするかのように「そのはげ頭はどうした!ざまあねえな」などという意味合いで罵るような気持ちは含まれてはいないように感じる。それは、僕が「親父」だからか。
 いろいろな意味で軽く揶揄しているというのが正解かもしれない。恐らく、揶揄しても大丈夫な存在だと思っているからこその「親父のはげ頭」という歌詞なのであろう。その大丈夫であるという意味合いは、揶揄しても何ら変わることない親父の愛、そしてその愛に裏打ちされた威厳がそこにはあったということにしておこうか。

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突然思い出したこと185「いろはに金平糖」②

 「いろはに金平糖」とか「いろはにこんぺいとう」とかいう童歌は、数え歌ではなく、連想した言葉を次々とつなげていくものだ。だから、数に一定限度のある数え歌よりも、勢いに任せて歌詞の分量が多くなる傾向が出てくる。もちろん、単純に分量が多くなるだけでなく、似て非なるスタイルを持った歌詞が、多岐にわたるバリエーションとして生じていく傾向も出てくる。
 たとえば、「いろはにこんぺいとう、こんぺいとうはあまい、あまいはさとう、さとうはしろい、しろいはうさぎ、うさぎははねる、はねるはかえる、かえるはあおい、あおいはおばけ、おばけはきえる、きえるはでんき、でんきはひかる、ひかるはおやじのはげあたま」という類の歌詞がある。これに対して「はねるはうさぎ」を「はねるはのみ」とし、「のみはあかい、あかいはほうずき」などと続けられているものもあるようだ。この方式で、いろいろの連想によって様々な続き方が生み出されていく。
 しかし、連想のプロセスがほぼ無数に創作できそうであるのに対して、なぜか最終的には「親父のはげ頭」で締め括られることになっている。もしかすると、その最後の文句を出現させることが、本来の目的であるかもしれない。いつ「親父のはげ頭」になるのだろうか、どのようにして「親父のはげ頭」に持ち込んでいくのだろうか、などという楽しさは捨てがたいものだ。
 もしかすると、前置きなしに「親父のはげ頭」を出すにはしのびないという情けある感覚、逆に、「結局は親父のはげ頭になるんだよ!」というだめ押しを突きつけるという情け容赦のない感覚のどちらか、あるいは両方の感覚が、その楽しさの感情とともに存在しているのかもしれない。
 そうしたことはどうあれ、歌詞の最初と最後の決まり文句、その二つを自由な連想でつなぐという、なかなかに都合の良い構造を「いろはに金平糖」の歌詞は持っていると言える。
 自由に連想して長々としたものを自分たちで創作できるのだから、子供にとっては高い充実感が生まれるだろう。同時に、それを順番どおり正しく暗記して、正しく歌いきるチャレンジをして成功すれば、これも高い達成感が生まれるだろう。
 また、言葉の連想のつなぎ方の面白さを競う場面を設定すれば、つなげ方に磨きがかかろうし、つなげ方に特別なルールや技巧を生み出せる可能性もあり、幼い子供だけでなく、ある程度年を重ねた少年少女たちを満足させうるゲーム性を発揮させることもできそうだ。連歌的な感じにもなりそうな伸びしろも持っているというわけだ。
 このようなものだから、能力に応じて楽しみ方を工夫できるということだ。だから、一定の年齢層の子供たちにとって、面白くないわけがない。しかも、歌詞の締めくくりに「親父のはげ頭」がくるように連想を方向付けていくという面白さは幼い子供にも受けるパターンだ。やはり、この言葉遊びの歌の最終目的は、最後の「親父のはげ頭」に向けて皆で大合唱することにある、と考えるのが自然だ。恐らく、それが理想の遊び方だろう。
 「いろはにこんぺいとう」という言葉遊びの歌は、道具を使うわけでもないから、家が貧乏だから道具が用意できずに拗ねているとか、金持ちだから皆に羨ましがられるような道具を見せびらかすとか、そうした悲しい思いをすることもないし、愚かな思い上がりをすることもない。
 このように、いつでも、どこでも誰でも平等に楽しめるものだ。弱い立場にある子供同士が共通の仮想的である「親父」を狙い撃ちすることを通して、互いの結束を固めたり、憤懣やるかたなきことも子供であるから多かろうが、それを最も無難に、そして省力的に解消したりする効果があるのだから、子供たちにとっては、罪の少ない遊びだと言える。全く罪のない遊びでは楽しめないが、罪な遊びも楽しめない。ちょうど良い手頃な言葉遊びという、絶妙の位置を獲得しているように見える。
 ところで、最後に「はげ頭が光る」という展開の歌詞だが、そこには文字通りの明るい何かがある。まず、子供たちの屈託のない明るい笑いがあるだろう。手入れの面倒な髪の毛がない、綺麗さっぱりした爽やかさが感じられる。シャンプーしなければ汚れて臭う頭髪のない、輝かしくも溢れんばかりの清潔感が感じられる。カツラをかぶらぬ質実剛健な潔さが感じられる。髪型で顔を飾らない素朴さ、誠実さが感じられる。大事な頭部を無防備なままさらけ出す、ある種ある程度の捨て身の覚悟が感じられる。頭髪の手入れにかけていた労力と時間と金銭を、家族や仕事のために費やそうとする、家庭愛や仕事愛が仄かに感じられる。洗髪で発生する生活汚水をかなり減少させる、未来型の生活感を感じさせる。持ち上げるのは、このぐらいでよしにしておこうか。
 特に、高校球児の坊主頭にさわやかさを感じる人々にとってはなおのこと、彼らの上を行く、くりくり坊主の「親父のはげ頭」は、絶品であろう。・・・・・・かもしれない。

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