心の断片397「修羅へ」

「修羅へ」

紅茶が
ひとときを
おさめる

あたたかみが
かおりが
あじわいが
ひろがる

冷めた
紅茶
夕暮れの
車椅子

新しいメロディーを
口ずさみながら
特攻敢行
またさらに
修羅の
心音を
鳴らす

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変な疑問184「いじめた奴の部屋で自殺しない理由」⑥

 何かしなくてはならないことの第一に、成人よりも子供のほうの罪を重くすることはどうだ。なぜなら、純粋で無垢な子供であるにもかかわらず、いじめという人権侵害を、敢えて誰はばかるということなく堂々と、あるいは逆に、敢えてこそこそと隠れて実行するからだ。従来の発想では、絶対にいじめは解決できないから、逆にしてみた。
 成人よりも、いっそう質が悪い人物でなければくなければできることではない。なぜなら子供は清らかで罪がない存在のはずだからだ。これは成人によるいじめよりも悪質だ。純粋に悪質なのだ。成人に分別が求められているのと同様に、子供には純粋さが求められて当然だ。そうした清らかな存在を、同じく清らかな存在が消し去るのだ。この所行を罪としなければ、正しくは育たないだろう。
 何が罪で何が罪でないかがわかっているのならば、成人よりも悪質だと判断されるべきなのではないだろうか。また、何が罪で何が罪でないかがわかっていないのならば、保護者の育児責任が問われなければならないのではないだろうか。
 子供だから抑えが効かず、他人を思いやる気持ちも少ないのだから、いじめても仕方ないというという論理は、現実からかけ離れていると誰もが思っているはずなのに、それが言えないのはどうしてだろう。百歩譲って成人の場合と同じ罪として認知されなくてはいけないのではないだろうか。
 罪に年齢差や性差や収入の差があってはならない。罪は万人に平等であるはずだ。ここまできて、少年法の精神を持ち出すかどうかが判定のしどころだ。少年法に対して、被害者救済法を確立しなくてはならない。救済は金銭ではない。奪われた命、奪われた青春時代、奪われた人間関係、奪われた財産、奪われた未来、奪われた精神の健康、奪われた肉体の健康、その他の諸々の奪われたものと、奪われたことによって生じた損失を、救済する法を確立しなくてはならない。
 そこに踏み込見たくないのはなぜだろう。被害があるのに、教育の場や家庭間や個人間で解決をさせようとするのはなぜだろう。罰せられることのない加害者が大手を振っていられる状況を誰が作っているのかを、訴える人々がたくさん出てこない限り、特別の法律を作って俊敏に裁かない限り、いじめの統計に表れない多くの遺体が日々出続けることになるだろう。正しく数字になっていないように感じるのは僕だけだろうか。
 数字が問題だ。その統計の取り方、調査の仕方を妥当なものにし、「いじめ関係で実はこれだけの人々が自殺していたんだ。これは殺されたのと同じだよね。」という論調が正しく主流になるようにしなくては、自殺した者が浮かばれないだろう。そして、今この時に死にたい気持ちになっている者が救われないだろう。
 いじめの被害者があまりにも孤立させられ、無防備になっているのが現状だろう。そうでなければ、死にはしないだろう。死んだ者の一部が、いじめが原因で死んだという評価を与えられているだけという有様ではないだろうか。
 子供の場合は、幼い頃の家庭教育が重要だろう。学校で、いじめは駄目ですと教え、それでいじめがなくなるなら、何の苦労もないはずだ。教えるのは、イエローカードを出すことで教えるしかないだろう。何枚出すかという問題はあるだろう。少なくともレッドカードをいきなり出して、そんなつもりではなかったという言い訳ができないのが社会であると、子供時代に思ってもらうためのイエローカードだ。もちろん、黄色いカードを作製して渡す必要はない。
 だが、子供なので、必要ならば実際のイエローカードを渡す方法も有効かもしれない。小中学生に対するレッドカードは、中退にはならないので、罰として直ぐに思い浮かぶのは、加害者の転校ぐらいだろうか。高校生は、中退だろう。逆恨みの発覚は、更に遠いところへの転校だとか、罰の例を次第に豊富にし、詳細な判断基準ができあがるのを待たねばならないかもしれない。事例は豊富なので、短期間でそれは済むだろう。ただ、それをどう整理するかは時間のかかるところだろう。
 しかし、裁くための時間が必要だ。専門の裁判制度を作ってもよいだろう。司法試験は通りやすくなって多くの人が合格している時代だから、そうしたものを早々に考えたらどうだろう。学校の中で、児童や生徒による査問委員会的なものを作るというのは、まだ日本では不向きだろうと思うのだ。
 何がどうあれ、対応が遅れれば遅れるほど、いじめの被害者が思うところの加害者の部屋で自殺をするという、悲惨な現状を目にする確率が高くなる。一度そうしたものが報道されたら、例によって広がりを見せるようになる。そうなったら、世の中はなおいっそう暗くなってしまう。加害者だと思われていた者が、本当はそうではないという可能性だってゼロではないのだ。
 第二にはどのような方法を挙げたらよいだろうか。もちろん、通常ではない方法でなければ、これまでどおりの冴えない結果しか出せずに、泣きながら無念に死んでいく人が減らないであろう。

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変な疑問183「西方浄土ってどこなの?」⑪

 どう考えても、地球を醜くしているのは生き物、特に人間だ。美しいも醜いもないけれど、こうした考え方もできないわけではない。もちろん美しい物も多く作りだした。だが、長い目で見れば、小さく作って大きく壊すの類だ。美しい物を作るのにも廃棄物が出る。美しいものが醜くならないためのメンテナンスにも廃棄物が出る。美しいものを廃棄すれば、それがそのまま廃棄物となる。醜いものには目をつぶり、臭いものには蓋をする。それが幸せに生きる知恵である間は、まだ幸福なのだろうと思う。
 だから、このように生き物が生息できそうにない遥か遠くに輝く星を「浄土」と言いたくもなり、漆黒の宇宙に灯火のように美しく輝く星々を美しいと感じたり、様々な星々に降り立ちたいと思うようになるのかもしれない。
 だが、トータルで考えれば、やはり美しいも醜いもない。時と場所、そして状況の条件を定めれば、その定め方によって美醜の境目も流動的に変動させられる。どうでもよいものだとも言えるが、生活する以上は、どこかに線を引いてその上に立ち、共通の線を持つ者同士が協力し合わねばならぬ。
 その線を引いた時点で、物事を判断する上でのさまざまな基本条件が設定されたことになり、その延長線上に美醜の境界の定まる判断の基準が生み出されるはずだ。その依って立つべき最初の一線は、根拠をもって作られたもので、そこからの延長は次第に根拠の薄いものになっていく。判断基準の設定根拠の占める比重のグラデーションが生まれるのだ。たとえば、五感にかかわるものの快不快は、判断基準の設定根拠の占める比重は相当に大きい。
 ただし、美醜は見た目ともいうように、五感の中の視覚からもたらされるものではあるが、明暗、動静、遠近、色彩、形状などのような、「基本的な感覚」とは異なる。視覚によって入手した、そうした視覚の基本的な感覚については、快不快の判断基準は十分な設定根拠がある。生理的な快不快は、元々は命にかかわる判断をしなくてはならないときの、有効な材料となる「基本的な感覚」だ。「危険」な相手か、それほどでもないか。「危険」が迫っているか、まだ余裕があるか。等々、この感覚によって、生きていく上で絶対に必要な情報を手にすることができる。これによって最優先すべき行動や、その他の優先順位の判断を下すことができる。
 ところが、その「基本的な感覚」を下敷きにしてはいるものの、行動の優先順位の判断よりも、緊急性の低い判断もたくさんありそうだ。その一つに損か得かの判断がある。美しいか醜いかの判断もあるだろう。もう少し順位の低いものには、面白いか面白くないかというレベルの判断もあるだろう。もっと順位が低いものの中には、道徳的か不道徳であるかの判断もあるだろう。このレベルの高低の順位には異論はあろうが、これは人によってまちまちなものでもある。
 さて、この人まちまちの感覚ではあるが、今回、僕の感覚に従えば、現時点での地球について言えば、人間が跳梁跋扈している以上、「穢土」ということになる。
 少なくとも僕の感覚では、星を除く宇宙空間も、地球以外の星々も、人間が存在している地球からすれば、人間がいないという意味での、美しき「浄土」だ。だが、そういう見方からすれば、別に「浄土」が「西方」である必要は全くない。
 遠くから見れば美しく輝く星々の全てが「浄土」だと感じることができないわけではない。また、最新の探査衛星から送られてくる、地球レベルと比較すれば、荒涼としているように見える星々の姿、それを目にするにつけても、荒涼としている中にも神秘的なものを感じ、それこそが、やはり「浄土」なのだろうかと思うことすらある。何も始まっていないという美しさ、あるいは、全てが終了したという美しさだ。その美しさは、まだ穢れなき美しさ、あるいは、既に灰燼と帰した美しさだ。その美しさの中に、「浄土」が見えるのは僕だけだろうか。もしかすると、それは人を寄せ付けない凜とした自然の造形に圧倒される、卑小な人間が感じてしまうところの、崇める気持ちによる幻想なのものかもしれない。
 惑星探査等で生物らしきものを発見したという情報が入ったとき、その星は汚染されていると感じる心は何だろう。これは、生き物に限らず、特別な物など、きれいさっぱり何もない星に対して、侵されていない、清らかなものと感じる心と同根のものだろう。生き物は特別な存在だとよく言われるが、宇宙に存在する以上、極めて稀なものではあっても、特別なものではないという考えは特段おかしなものではないと思うのだが。
 だから、「西方」だけが「浄土」ではないとしたい。「東西南北上下」の六方、そのほとんどが生物などいない、綺麗さっぱり何もない星々、宇宙空間のはずだ。敢えて言えば、「六方浄土」とでもなろうか。敢えて「西方」という方角を示したのには、やはり何か訳があるに違いない。それは何なのだろう。

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心の断片396「突堤にて」

「突堤にて」

突堤で
振り返る
先端で
目を閉じる

記憶のプレパラートを
少しずつ斜めにずらし
突堤の向こう
皆がくらす大地を
燃える樹木の
精一杯の
振る舞いを

突堤で見つけた
歪んだままの
僕の足跡を
潮風は
もう消してくれても
よいのだよ

ここの風化は
無数のフナムシの
さざ波と
磯臭さの酩酊とともに
全速力で
突き進んできた

その突端で
灰色の僕は
少し遅れて
ぼろぼろと
綺麗な
砂粒になって
吹き飛ばされてゆく

振り返らぬ日々は
もう終わりにしたいのだ

突堤にて
ぼくは
立ち尽くす

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突然思い出したこと183「ハーケンクロイツ、アラー、旭日旗」

 いろいろなマークを突然思い出した。偏狭な目にかかると、世の中から見事に類似の形が切り取られてくる。頭にその形がいつもちらついていて、何でもそのように見えてしまうかのようだ。極まれば偏執狂のようなものだろう。
 まるで脳が一つの捜索モードに固定しているのではないかと思われるほどの働きをしているとしか思われない。そうでないとすれば、よほど暇なのだろう。どうしてもその形を見つけ出してしまって苦になるのなら、それを遠ざけるか、自分が遠ざかればよい。そうしたことが不都合ならば、どうして見つけてしまうのだろうと自分の傾向を振り返る機会をときどき持ち、その背景にあるものを自覚するところから始めるしかないだろう。
 購入した履き物の底の滑り止めパターンにいくつもの「ハーケンクロイツ」を見いだし、ナチスを思い浮かべて気分が悪いとメーカーを訴えた人の話をネットニュースで読んだ。恐らく気分が悪くなったのではなく、訴えることによって自己満足や自己顕示欲を見たそうとしたのだろう。もちろん、本人は気分が悪いから訴えたという気持ちなのではあろうけれど。
 踏み絵というものがあった。この発想は世界に共通しているように思う。この訴えた人は踏み絵効果を否定するのではなかろうが、そうした理屈で納得するよりも、訴えるということをしてみたいという欲求が勝ったのだろう。毎日「ハーケンクロイツ」を踏みつけて貶め、しかも磨り減らして消滅させるということに、この人は快感を感じないのだろうか。やはり目立ちたい、自分が何か行動を起こして成果を上げたいというという気持ちが、「ハーケンクロイツ」を踏みつけ、すりつぶして消滅させようという、反ナチス的行動よりも強かったとしか言いようがない。この人のそうした反ナチス的行動の方が気分が悪くなるというものだ。
 そうしたマークに目が行ってしまうのなら、その履き物を履いた足跡が「逆ハーケンクロイツ」つまり「卍」マーク、お寺のマークになるということに関心を向けることはなかったのだろうか。歩くたびに、足跡がつくとすると、それはお寺のマークになる。何とも有り難いではないか。その足跡としてのお寺の刻印は直ぐに消えてしまうものだが、諸行無常、いかにも仏教的ではないか。
 この話から、かつての自動車メーカーが訴えられた事件が思い出された。正確にはタイヤだから、タイヤメーカーだったかもしれないが、そのタイヤを装着した自動車メーカーが訴えられたとしてもおかしくはない。
 これは「アラーのタイヤ」だ。タイヤのグリップパターンがアラビア文字で「アラー」になっていたのだ。「アラー」の文字は「au」のように見える形だ。おそらくタイヤの接地面は全て「アラー」だらけだったに違いない。神の文字を自動車の履き物の溝の形に使うとは言語道断というわけだ。この事件は新聞では小さく扱われていたが、実際にはどうだったのだろう。新聞記事の紙面の面積が小さくても重大な問題であることはよくある。だから、見逃してはならない。
 記事の紙面の面積が小さくとも、重大で深刻な問題であるというのは、新聞社の謝罪記事が異様に小さいことからもわかるだろう。本当に重大なことは紙面に載らないということも忘れてはならない。報道しない自由を掲げているのだから仕方がないが、僕たち庶民に目隠しをするはたらきを、結果として新聞社がしていることも、忘れてはならない。何をどうして載せなかったのかということが最も大事なことなのだ。つまり、結果としてではない場合が問題だ。
 報道の意図、報道しない意図の両方を見抜くことが、民主主義を守り、育てることの大事な作業の一つだ。新聞社ウォッチャーが多く存在しないと、民主主義などいとも簡単に崩れていくだろうと思う。新聞社ウォッチャーが増えれば増えるほど、購読数も増えるのだから、新聞社としては痛し痒しということにはなろうけれども。報道機関の権威というものがあるのなら、権威に付着しやすい権力というものを、セルフコントロールしなくてはならない。権力に対して新聞社がもの申す構造は当然だが、自分自身に対してそうした働きを持てないようでは、購読数を減らすばかりになってしまうだろう。新聞社が弱くなっては困るのだ。他を批判している間は自分は批判されないという、いじめ構造のようなものが企業体質として生まれやすいのだから、常に自己チェックが要求されているはずだ。最初の進路希望が新聞社だったのも、そうしたことを高校生の頃からずっと思い続けていたからだ。
 さて、「ハーケンクロイツ」を見いだして気分が悪くなったという、訳のわからない理屈のおじさんとは異なり、「アラーのタイヤ」事件は理にかなっている。神聖なものを汚されたという感覚は、恐らく世界中の人々に理解されるものだ。
 尊敬しているもの、崇めているものを足で踏むなどということは心情的に大きな抵抗があるからだ。なるほど、地球は随分と貶められたものだ。人類何百万年の歴史、常に大地を踏みしめてきた。そして、天を崇め、天国にいくことを望み、天におわします神を信じた。そして、自らを育んだ母なる大地を踏みつけてやまない。だが、踏みしめざるを得ない。だから、母なる大地を貶め、その奧に地獄を見い出さねばならなかった。逆に天を崇め、そこに神を信じるしか平穏に生きることはできなかった。神を踏んではならないからだ。
 何かに取り憑かれると、何でもそのように見えてしまう。幻視のようなものかもしれない。周りの人々は、そのように見えてしまうことに対しておかしいと思っていても、本人には見えているのだから仕方ない。あわよくば、その見方が周囲に伝染し、二人三人と増えれば、見えていない方がおかしいということに次第になっていく。これは幽霊話と同じ原理だろう。
 では、いったい何に取り憑かれているのだろうか。それは、一つの見方に取り憑かれているいうことだろう。似ていれば何でも結びつけて理解してしまう。異なるものは認めない。だから、全てが当てはまっていくことになる。そして、信じるに値するということになってしまう。「絶対何々は何々だ。」とか、「結局何々ということでしょ。」とか、思考回路が単純化していくのだ。新しい情報もその基本方針によって処理され、解釈されてしまうので、情報が情報としての役割を果たせなくなっている状態。それが取り憑かれているという状態だということになるのだろう。
 単純化するのは一般的にはよいことだが、思考は単純化させていくための手段なので、それ自体を単純化してしまうと大きな誤りを犯すことになってしまうと思う。
 何でもそのように見えてしまう物の一つに、韓国人見るところの「旭日旗」がある。日本の軍国主義の象徴だからだ。日本との過去の関係を思い出してしまうから、けしからぬ物の一つになっている。そこから先の関係を改善しようという発想はなく、いつまでもその時代にこだわり続け、歴史が展開しているにもかからず、意識がそこでとどまってしまっているという不幸な状況にある。
 後、100年経っても、500年経っても、1000年経っても、未来永劫足踏みを続け、最後には足踏みを続けていることが尊いことだという価値観を捻りださないことには、自分たちが救われないということになってしまうに違いない。忘れないことは大切だが、それが今生きる人間にとって不幸な気持ちを呼び起こすようなものであっては意味がないどころか、マイナスにしかならない。残念なことに、そうしている限り、歴史を重ねるにしたがって、雪だるま式に不幸の種は増え続けることになる。
 さらに、そんな運命にある己の国を嘆くことが美徳となっていくおそれすらある。だが、そうなると美徳であることが不幸であることなので、次第に耐えられなくなる。そこで、自分以外の存在のせいにするしかない。今のところ、こうした単純な理屈が強化されていく途中であるように見える。単純だが恐らく断ち切ることもできない強いものだ。だから、救われない。韓国の人々が信じている宗教ではどのように解決しようと努力しているのだろうか。
 ところで、「旭日旗」のデザインは、見ようによっては至る所に見受けられる。これは韓国人は誠にけしからぬと日々憤慨して生活しなくてはならないことになる。大変なことだ。日本の朝日新聞の社標は「旭日旗」の四分の一、あけぼの缶詰のは旭日旗の上半分だ。ドラマで血しぶきが壁に飛び散っても、旭日旗のようなものができあがるに違いない。どのような血しぶきの跡にしているのだろう。また、実際の太陽はどうなのだろう。日中は目がくらむので、雲間から見える太陽しか拝めないが、それは紛う方無き「旭日旗」のデザインと一致する。日の出を拝む習慣はないかも知れないが、朝陽は「旭日旗」だ。
 元来、太陽を模したものなのだから、韓国人は太陽に当たらない生活をしなくてはならなくなってしまう。だが、それでは不都合が多すぎる。韓国人にとっては厄介なデザインを日本人はしたものだ。もちろん、そのデザイン自体には悪気はない。だから、太陽と太陽光のような不可避なものは暗黙の了解で不問とし、考えないことにするのがよいだろう。つまり、人工物に限って認めないという条件付きの話にするのがよいだろう。人工物だから、そこに悪意を込めることが可能だからだ。そして、人工物だから、気に入らないのであれば、太陽的なものをデザインしないことも可能だからだ。
 しかし、遠い将来、人工太陽が必要となったときはどうだろう。ただし、誇りを守るという一般的に広く認められた方式を採用して前面に出して強調し続けるという行為を通してしか弱みを隠蔽することができない、という無意識の共通理解に基づき、ずっと韓国人はこだわり続けているはずだから、やはり太陽型ではなく、別のスタイルのエネルギー供給システムを要求するだろうと思う。別にそれはそれで構わないけれど、設計上無理があれば、それを理由として論理的に拒否すればよい。論理がどこまで通じるかわからないが、その時代の韓国人が心情を理由として、問題解決の流れが平行線をたどらざるを得ない状況に陥っていく可能性はゼロではなかろう。そのために、次第にいろいろなものが手遅れになっていく不都合に日韓双方が甘んじなくてはならなくなるおそれもゼロではなかろう。
 心情による反応を示したり放出するだけでは、問題解決に不都合があると、人間という生体が集団で判断したために、論理を生み出すための脳を、従来の脳に接ぎ木するように発達させてきたのが人間だったはずだ。こうした脳にまつわる人間存在のあり方をねじ曲げるような発想で歴史を渡り歩こうとするのなら、それは大きな間違いであるだけでなく、本来の働きをさせてもらえない多くの人々の脳たちが長い歴史の中で、脳の構造自体に退行の変化を来すような事態を招くことになりはしないかと心配もする。
 長い歴史の中で築き上げてきた人間の脳の構造とはたらきが、物理的に変化を来すことになりはしないかと、他人事ながら心配するのだ。それは、韓国人が意識して持続させてきた精神的傾向が、歴史の中でスローガンや常識のなかに固定され続けていけば、同じく長い歴史の中で伝統的に受け継がれて進化してきたはずの多くの人々の脳の物理的な構造やはたらきに対して、マイナスの影響を与えることになり続けるという心配だ。本来の使われ方がなされない状況が多くの人々で起きれば、そして何世代にもわたって継続すれば、脳が物理的にも変化を来すことも十分にありうることではないかと思うのだ。ややもすれば、これは用不用説が適用されるような国家レベルの事故となり得るのではなからろうか。
 そうした傾向は社会という枠の中では、次第に広がって固定され、一つの大きな流れを作っていく。それに沿うことは信念を持ちやすくなり、心が安定することにつながる。同時に、生まれつきの国民性というもの育っていたものが、表に色濃く顕れるようになっていくだろう。他の国との関係作りや他の国での生活が困難になってしまうおそれもある。ここまでくると、関係諸国はどうしてあげようもなくなり、にこにこしながら手を引くようになってしまうかもしれない。これもよくないことだ。同じ手を引くなら、導くという意味で手を引かねばならない。
 問題は、そうした面倒で、しかも責任の取りようのない、恐らく絶対に感謝されないことを、身を粉にしてまで誰がするかということだ。少なくとも日本ではない。日本以外の立派な国、韓国人のプライドを損なわないような超大国がふさわしいだろう。どんなに辟易とさせられてもびくともしない器量の大きい国、そうした国でなくてはならない。
 本当に見つけなくてはならないのは、良いものだ。気分を悪くするものではなく、気分を良くするものだ。そうしたものを目ざとく見つけ、敵味方関係なく、ともに喜び合うような習慣を持てば、プラス方向の発想に変わる。そうすれば、より適切な行動が選択されて毎日が幸福感に満ちたものになるに違いない。たとえ経済的に貧しかったとしても、そして不幸な運命に陥っていても、そうしたよいものを見つけ出す目さえあれば、それを元手にして地道に暮らしているうちに、日々希望の持てる、誠に満ち足りた、あたたかな生活を送ることができるようになると思うのだ。いくら経済的に豊かで自由でも、日々戦々恐々として暮らさねばならないようなら、生きている意味さえ見いだせないはずなのだ。
 まずは、マークなどという単なる形を見つめ続けるあまり、とある意味をその中に見いだして固定させてしまうという愚行から自らを解放する修行が必要だ。マークがトリガーとなって、幸福感に満たされれば幸いだ。しかし、不幸な概念が幻想として思い浮かぶようであれば、見つけれる回数が増えるたびに、見つめる時間が長引くたびに、頭の中でその幻想が肥大化し、固定されたイメージとなり、そこに判断がつながることで事が現実化していく。
 こんな不幸なことは一代限りで終わるようにできていたはずだ。ところが、教育という手法で、人為的に世代の流れの中にこれを態度として固定化させていくことができる。敢えて自業自得の韓国人という道を選んだのだろう。そのように導かれたからに違いない。自分で自分に呪いをかけるようなものだ。そのようなことを自国民が行うはずはないだろう。その犯人はいったい誰なのだろうか。

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恐怖シリーズ242「地球はイメージより小さい」

 日本列島を北海道の宗谷岬から与那国島までだとする。すると、直線距離で3000㎞、弓なりなので3500㎞らしい。これが日本の領土の長さだという。
 ところで、地球の半径は6400㎞弱だ。日本列島二個分以下。日本列島の長さを往復する前に、地球の中心に辿り着いているという計算だ。これはイメージしていたよりも小さな星だと言えないか。
 そんな小さな星にうごめいている人間。地表にはいるものの、重力で磔になっているようなものだ。これは地球に閉じ込められていると言ってもよい。それで、本当に閉じ込めるとしたらどうだろう。人類は人口爆発でもうすぐ80億人となるが、今は70億人台だ。その人間たちから空気を抜いて骨と肉だにし、みっちりと球体に詰め込むとして計算すると、どうやら直径1キロメートル足らずの球体で間に合うのだそうだ。
 そうしてみると、最初抱いた「思ったより小さい星だというイメージ」も、この人間肉団子の発想からすると、チャラとなりそうだ。僕たちはいろいろなイメージを勝手に持って暮らしている。しかし、これは自分の幻想か、与えられた幻想だ。どちらにしても幻想だ。実際に計算し、その結果を何かと比べないと、本当の世界のつかみ方をしないまま、なんとなくいろいろな幻想をもとにした考えを紡ぎ出したり、幻想を根拠として行動したりしている。
 これは恐ろしいことだ。「大きな地球」とか「広い世界に目を向けよう」とかいう、そんな言葉のおかげで、知らない間に僕たちは無闇に大きな地球をイメージして、それを幻想としてではなく、現実として受け入れているという、愚かしいことを平気で、しかも集団で行っているのだ。言葉というものは、本当に両刃の剣だ。
 これが地球の大きさというようなものではなく、もっと身近な社会問題、自分の人生の問題、その他のさまざまの「人間に共通する大問題」が、こうした曖昧で不正確な判断を根拠として処理されていくのだと思うと、どうにも恐ろしくなってくる。

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心の断片395「ブリキの勲章」

「ブリキの勲章」

本当の愛国者は
愛国者の服を着ていない

本当の愛国者は
愛国者の言葉を話さない

本当の愛国者は
愛国者の表情をしていない

本当の愛国者は
普段日常の歩き方でわかる

本当の愛国者は
休日の近所づきあいでわかる

本当の愛国者は
偽物の愛国者に無防備だ

本当の愛国者は
偽物の愛国者に駆逐され続ける

だから
本当の愛国者は
人数が少ない

だが
本当の愛国者だけが
国を救ってきた

そして
本当の愛国者だけが
たぶん今も国を救っている

だから
本当の愛国者は
報われない

でも
本当の愛国者は
平気だ

平気の平左で
自分の命を燃やし

平気の平左で
愛国を実践し

しかも
自分でそれに気づかない

だから
本当の愛国者は
愛国者を名のらない

国がどうかしたかと
つぶやきつつ
満身創痍で
生き抜いて
にっこり笑って
死んでいく

その瞳に
その胸に
最後の呼吸に
最後の姿勢に
本当の勲章が
ほんの一瞬だけ
きらめく

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