恐怖シリーズ313「グローバル化で二つが一つに」

 大抵間違っているのが人間だ。考え方も、行動も。だから反省する。そして、その反省も。
 悲しいことに、反省する前に、考える前に、行動する前に、大抵間違っているぞとは思わない。そして、思わないということが「信じる」ということだ。思うと考えられなくなり、行動できなくなり、前に進めなくなる。だから、「信じる」ことは大切で、そのことによって、自分の心の何かを無視することが大切だ。それは、「反する考え方もあるのに、どうしてそちらを選ぶのか」、という自分の心の声を無視することだ。そして、他のやり方の方がよい面もあるのに、どうしてそちらを選ぶのか、という自分の心の声を無視することでもある。
 そうした自他の声なき声を無視することで行動力が生まれる。無視することなく行動力があるのは、つまり何の迷いもなく行動力があるのは、ただ信じるのではなく、頭から信じ切っている証拠だ。その結果、素晴らしい成果を上げることができる潜在力を手にすることができる。まさに、「信じるものは救われる」というパターンだ。
 それは一つ間違えば、危険な人物やグループや国や国々だが、運良くミスがなければ、素晴らしい人物やグループや国や国々となる可能性も秘めている。だが、人間は大抵間違うものなので、全てを十分に漏れなく管理しなければ危うい。
 それは、ブレーキのない車と同じだ。わずかなハンドル操作のずれで、あるいは想定外の条件が加わることで、容易につまずくか衝突し、やがて潰える。だが、一見計画的で効率よく、目指すところへ向かって揺るぎない進み方をする。したがって、その分だけ滅びが近くに訪れやすい。その兆候を見つけては、他に非を求めないと、自己矛盾が表面化する事態を招き、自壊は免れない。他に非を求められない場合は、指導者が厳しく処罰されることになる。そうした理由から、他の異なる存在を必要とする、依存性のある存在のように見える可能性がある。理想的で強固、迷うことなく突き進んでいくが、一歩間違うと脆い姿がそこにある。
 一方、信じようとする努力で、声なき声を敢えて無視しているという意識がある人物やグループや国や国々は、何とか進むことができる。それは一見進み方が遅く、忍耐を必要とする場面が何度も訪れる。声なき声が声となってブレーキとなることがあるので効率も悪い。しかし、ハンドル操作のずれを、そのタイミングで調整し、想定外の条件が加わっても、容易につまずいたり、衝突したりせず、ついに潰えることがなさそうだ。だが、悲しいことに、どこに向かうかを常に自問し続けなくてはならない。したがって、滅びが近くに訪れようとすると、自身に非を求め、調整し、自壊を免れる動きを取る。下手をすると責任の所在が不明になるなど、無責任な者の横行が危ぶまれる。そうした理由から、かろうじて何とか自立している存在のように見える可能性がある。現実的で柔軟、地道に進んでいくが、迷走する危険性を常にはらんだ姿がそこにある。
 どちらにしても、優秀な指導者が必要だ。そして、大事なのは、優秀な指導者は、国民全体が優秀でないと、望めないことだ。そして、それは相当に困難なことだが、そこに向けて人は発展途上にいるということなのだろう。
 前者は社会主義の傾向、後者は資本主義の傾向を示すものだろう。社会主義者が資本主義の滅亡を唱えるのは、資本主義のマイナス面を見ているからだろう。また、資本主義のプラス面を取り違えているからだろう。しかし、逆も同じだ。
 遠い将来、行き着くところは同じだ。その時に、社会主義をとなえる人は、資本主義的社会主義となったと主張して小躍りし、資本主義をとなえる人は、社会主義的資本主義となったと主張してにんまりするだけだろう。これほどグローバル化が進めば、最終的には一つになるしかないと思うのだ。
 そこに名前の問題が起こる。新しく一つになったものをどう名付けるかだ。一つなのだから名前は不要なのだが、歴史の流れの中では、それなりの名をつけないと歴史にならないということがある。後でつけられる名前は、さらなる未来人に任せるとして、取り敢えずの未来人は、何と名付けるのだろう。 二つが一つになるという段階的段階を経る場合の名付け方と、二つがいつの間にか境界線がなくなっていく過程で新しい体制が生まれ場合の名付け方は、やはり異なる意識の下に名がつけられるので、雰囲気がかなり違うものになっていくだろう。
 そもそも、二つが一つになる前に、片方が別の片方に飲み込まれないようにするため、互いに何をしでかしていくはずなので、そのことが問題だ。そのしでかし方が恐らくはなりふり構わないものになると思うので、恐ろしいのだ。両方とも、国民無視、労働者無視、弱者無視になるに決まっている。主義主張が大義名分であるのを当たり前のこととし、両方とも錦の旗を掲げ、両方とも、国民のため、労働者のため、弱者のため、と口角泡を飛ばして唱えることだろう。
 もともと、主義主張というのは、実のところは何かを無視するときの手段だったのだから、仕方ないのかもしれない。
 いい加減、もう主義主張ではなく、もっと別の、何か新しいものを持ってこなければ、一つにはならないのかもしれない。それが無理なら、最初から一つになる必要はないと考え直すかした方がよいのかもしれない。別々になる必要があったから別々になっているだけのことで、それをグローバル化が進んでいるからといって、一つにしようとするのが間違っていると考えてもよいのかもしれない。グローバル化に乗じて、片方が別の片方に対して有利に立とうとするような、「ずる」をしだかすかもしれないからだ。その「ずる」も、「ずる」とわかっていての解釈の仕方による、そして名前の付け方による合理化を行っているものなので、その片方の中では当然正当性を持ったものとして「信じる」に値するものとして提示される。それを双方で行うから悲しいのだ。
 人間って悲しいね、とはこういうことなのだろうか。組織が大きくなればなるほど愚かになるように見える。だから、それに見合った優れた指導者が必要なのだとも言えるのだろう。しかし、指導者は人間だ。そこに大きな問題がある。究極に優れた存在であっても、過ちは必ず犯すし、その優れた存在が一人だけでは組織は作れない。優れた者同士が集まれば、その中でも優れ方に違いがある。その違いが、補填し合うような関係の優れ方の違いならばよいが、必ずしもそうはならない。
 人間であるから、必ず寿命もある。人間であるから、能力の衰退もある。人間であるから、眠る。眠っていても、地球は昼の部分もあるのだ。グローバル化することの恐ろしさはここにある。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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